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2014年10月19日 (日)

松宮秀治「文明と文化の思想」(12)

いわゆる「近代精神」とは、宗教的権威や世界の神話的呪術支配の否定である。さらにそれは世界が神や超越者の意志の実現という崇高な目的によって支配されているという考えを捨て、自然世界は無目的な因果法則によって支配されているという考え方に向かうことである。そしてこの法則の科学的な解明によりこの自然力を人間の世界支配の手段として利用することができるという技術的自然征服を可能にしうるという思想である。さらに人間の社会的な存在様態そのものも超越的な絶対者の意志によって世界秩序と人間社会秩序に対処させられている権威主義的な人間の価値序列をも打破し、市民社会の主権在民の思想によって、生得的な自然権としての自由と法の下での平等と人格の自律ということを確立していく思想でもある。要約すれば「近代精神」とは世俗的人間中心主義、科学技術主義、人権主義の概念である。

しかし、ロマン主義は啓蒙主義の世俗主義的で個人主義的な人間中心主義に対して民族主義的で国民主義的な集団的人間中心主義を、科学技術主義に対しては芸術主義と想像力解放主義を、人権主義に対しては歴史主義を対置させてくる。だが、この対置は敵対的対置ではなく啓蒙のプログラムが自らの内にもっていた弁証法的発展の必然的な帰趨である。啓蒙が神話を解体させ無力化するためには、神話の内に存在する非合理的な力を理性によって個別的な自然現象の象徴として客体化しなければならない。つまり人間理性が自己の判断能力を超えた領域と措定してきたものを理性的判断の能力圏に取り込むということはその非合理的なものの力を客体化し、対象化することを意味する。

いわゆる啓蒙主義に対する「ロマン主義的」反逆とは、啓蒙を西欧近代そのものが内包した自己発展のプログラムだったのである。そもそも啓蒙主義、いいかえれば西欧近代とは伝統社会の「停滞」に対して「進歩」を人間社会の目標と使命として選択する敵対的対決の思想である。この対決は発展過程内での対立や衝突はそれを媒介として自己をより高次の段階に移行せしめるものであって、対立物の否定を意味するものではない。いうなればそれは宗教的対立における異教との対立のような、敵対者の全面否定という対立ではなく、同一宗教内の別派との対立、教団分立過程内での教義上の対立のようなものである。ロマン主義的反逆とはこのような対立であって、異教間の全面的対決を意味するものではない。ロマン主義と啓蒙主義の関係は敵対的対決ではなく、弁証法的な対立なのである。ロマン主義も啓蒙主義と同じく、伝統社会の権威主義に敵対し、人間の自律性の確立のために闘争する近代主義的な進歩思想のもうひとつの側面なのである。「権威」とは社会学的にいえば他に対しての優越という事実が社会的に承認され,確定されることによって増加する社会的影響力である。いいかえれば権威という神秘的な威力によって人間を他律的に拘束するものである。それに対してロマン主義は自我と個性を主張する思想である。ロマン主義の主張する自我と個性は自己の人格形成と無限の自己展開を発展の中に置き、いかなる停滞をも許さず、またいかなる自己の権威化も許さず、さらに外圧的な権威を受け入れ、それと自己の同一化をはかる模倣的な思想形式に対しても敵対していこうとする思想である。それは自らの「天才」を導きとして、たえざる自己変革と自己展開に身をゆだねることで、自らの「個性」を社会的な価値としての「独創性」と結び付けることで、いかなる「停滞」をも拒否する思想である。

ロマン主義的な反逆はすでに啓蒙のプログラムのなかに準備されていたものであった。つまりそれは内的な弁証法的な展開の産物であって外から敵対的に対置させられたものではなかった。そもそも啓蒙主義の「進歩」の思想とは超越的な神的価値に依拠した伝統社会の規範的な権威の「永遠性」「不変化性」の理念を打破すること、つまり伝統社会の停滞性を打破することによって「世界」を人間中心の変革と改善の舞台に転換させる思想であった。なぜなら「文明」と「文化」の概念こそが人間社会を人間の主体的な活動によって変化させられた「世界」を観念として確立させるために啓蒙主義が案出した最も主要な合言葉だったからである。啓蒙主義の「理性」がロマン主義の「精神」に取って代わられるのは、「理性」が理性的人間活動をもっぱら合目的性と善悪の規準として指示するもの、つまり人間活動の目標が義務と使命と必然によって指示するものであるのに対して、「精神」は直感や気分や好き嫌いといった状況的判断のなかい゛の人間活動を指示するものであったからである。理性の中には精神が、精神の中には理性が、それぞれもう一方を内在させているがゆえに、一方が他方を次第に抑圧するか無視すると他方もまた自己主張の必要性を迫られるのである。「進歩」が過度に前進し、改革や改善に効果をあげすぎると、「保守」がその進歩の当否を論評し、その速度や行き過ぎを抑止する。「人間」が人類全体を規準に考えすぎると民族や国民が自己の領分を主張し、また民族や国民が過度に個人を吸収しすぎ、個人の存在領域を侵しすぎると個人が反逆する。ロマン主義的な反逆とはこのようにして生じたものである。

西欧「近代」の最大のパラドクスは人間を神話的思考から解放させることを目指しながら、再び人間を神話的思考内に取り込んでしまったということである。「文明」や「文化」の概念は人間を伝統社会の神秘的な権威から解放して、人間の主体的活動が形成してきた歴史的な業績全体から世界を再解釈するための観念形成の装置となるべきものであった。しかし「文明」は「進歩」の観念と結合し、科学的な知や合理的な思考が人間の輝かしい未来を約束し、「文化」は「精神」と結合し、国家と国民と民族が人間の価値に確固たる基盤を与えてくれるという幻想、いうなれば新しい国家神話、民族神話を発明してしまったのである。

「国家」とは人類にとって長らく実態であって決して幻想ではなかった。国家がひとつの幻想であり、想像の共同体であり、神話であることを最初に最も踏み込んで明らかにしたのはエルンスト・カッシーラの『国家の神話』である。「文明」も「文化」も人間を神話的思考から解放し、人間中心の合理主義的な世界観を構築するための概念であり、解放の思想でもあったものが、それ自体の価値が絶対化され、再び人間を最初の未開段階に引き戻すためのものに変貌する。国民国家も民族国家も伝統社会の権威主義的な王政、つまり王権神授説という絶対王政の旧体制から人間を解放する救済思想であったものが、自国家、自国民、自民族の絶対的価値の主張となって、新たに強制と抑圧の思想に転化する。人間の合理的な思考と実践がつくりあげてきた国民国家や民族国家はその実体以上に幻想の価値に支配され、人間の社会的生活や社会的実践を非合理的なイデオロギー的思考のなかで非合理化し神話化していく。このようなカッシーラの政治哲学的な思考を人類学的な思考で受け継ぎ、近代国家の非実体性、神話性を分析したのがベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』である。彼は「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」という有名な定義を提出する。

人々は長いこと「伝統」を歴史的実体と思ってきた。エリック・ボブズボウムの『創られた伝統』が、伝統は歴史的実体であるよりも、「想像」され、「捏造」され、「創出」されたもの、つまり一種の神話的強制力であることを明らかにしたことを受けて、アンダーソンも「国民」や「国家」も発明されたもの、想像されたもの、あるいは捏造されたものとしての一種の神話的な虚構であり、擬制であることを明らかにした。さらに、「国民」を限定されたものかつ主権的なものと二つの規定を加えた。つまり、国民は主権的なものとして想像される。なぜなら、この国民の概念は、啓蒙主義と革命が神授のヒエラルキー的王朝秩序の正統性を破壊した時代に生まれたからである。それは、普遍宗教のいかに篤信な信者といえども、そうした宗教が現に多元的に並存しており、それぞれの信仰の存在論的主張とその領域的広がりとの間にあるという現実に直面せざるをえない時代であり、人類史のそういう段階に成熟した国民は、自由であることを、そして仮に「神の下に」であれ、神の下での直接的な自由を夢見る。この自由を保証し象徴するのが主権国家である。

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