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2014年10月 8日 (水)

松宮秀治「文明と文化の思想」(2)

もう一度出発点に戻れば、「文明」と「文化」とは西欧近代がそのプログラムを始動させる革命的な概念であり、その概念が西欧の「近代」を成立させる諸価値を観念体系にまで育てていく役割を担ったということである。つまり、西欧の「近代」の諸価値、たとえば「科学」「技術」「芸術」「歴史」といった近代の新しい諸価値がそれぞれの観念体系を創出し、人間を神という超越者の被造物の位置から、神に代わる「世界」の新しい創造者の位置にのぼらせるもの、それが「文明」と「文化」の概念の役割であった。さらに両概念は「歴史」を神の摂理、つまり神が被造物をその救済の目標に導こうとする計画の実現過程とみる見方、あるいは仏教的な宇宙原理の進行、さらには中国の天命思想の反映とするような宿命的な人類の運命とみる見方から、人間の主体的な世界への働きかけの結果としてみる見方へ転換させ、人間こそが歴史の主体的形成者であるという考え方を確立させていったものなのであった。言い換えれば「文明」「文化」とは、人類の歴史と現状が神や超越的な存在者の意志の結果ではなく、人間自身の意志の集結物とみなされるという考え方に転換させるべく案出された概念だということである。つまり人間の歴史とそれが置かれている現状とは神や超越者の関与の産物ではなく、人間自らの進歩への意志と自己完成への意志の結果、人間自らが達成させてきた業績そのものであるとする考え方から創造された概念なのである。

その意味で「文明」はより科学的、技術的な成果へ向けられたものであり、「文化」はより精神的、内面的、芸術的な成果へ向けられたものであるとはいえ、両概念はともに人類の自己努力による「進歩」の成果を規準、尺度として案出された概念であったといえるのである。いうなれば「文明」と「文化」は西欧啓蒙主義の観念の産物なのである。

西欧の啓蒙主義とは、神という絶対的な超越者という主人に隷従させてきた人間という奴隷あるいは囚人を宗教的神学、つまり神話から解放し、自力で自己の歴史を切り拓く存在に導く思想である。神話を解体させ、世界を呪術から解放するための概念装置の役割を最も大きく担ったものこそが、「文明」と「文化」という概念であった。いうなれば啓蒙主義とは人間の思考を「脱魔術化」させる思想であったが、17、8世紀の西欧の啓蒙主義ほど徹底した脱魔術化のプログラムを提出した思想は他に存在しなかった。人類史上、さまざまの地域や時代において、「啓蒙」の試みが西欧の17、8世紀の啓蒙主義ほどの成果を得ることができなかったのは、ひとつには何よりも西欧の「文明」「文化」の概念に匹敵する概念も観念体系も作り出しえなかったためであり、ひとつには西欧の汎神論、理神論、無神論という継承的で徹底的な宗教との闘争を持続させることができず、その意志が欠落していたためである。

歴史と社会から超越者の影響力が減少され、排除されればされるほど人間は被造物性と絶対者への隷属から解放され、自律的な領域の拡大の確立を自己のものとすることができるからである。人間が自律的な領域を拡大し、確立させるということは、人間が世界の主体的形成者であると同時に、被造物として人間と同一範囲内で捉えられていた「自然」とも分離され、人間は主体的進歩者に、自然は客体的進化者にされることでもある。つまり人間は主体的な創造者となり、自然は人間領域とは別の、人間の関与の度合いによって関係性が測定される客体的な対象物に変えられるのである。

ホルクハイマーとアドルノの「神話は啓蒙へと移行し、自然はたんなる客体となる」というテーゼは真である。啓蒙の進展は一方では人間に対する宗教の支配領域を減少させ、社会領域でも神聖価値の領域の減少という宗教の「世俗化」現象を一般化させると同時に、世界認識の領域においても自然の客体化が促進され、人間による自然支配が加速、増大されることになる。いうなれば人間の自律化とは、人間による人間の合理的支配と人間による世界と歴史の合目的支配の開始であると同時に、人間による自然の恣意的な支配の開始でもある。

啓蒙主義以後、つまり西欧の「近代」以後、世界と歴史と自然は人間の認識能力の操作力に比例した客体的対象へと変貌させられる。つまり世界と歴史と自然は「文明」と「文化」の概念枠内の存在となり、すべてが人間の勢力範囲内のものとして、神や超越者が存在するすべてのものを神話的解釈の枠内にとどめてきたと同じように、「科学」という合目的的な意図のもとに再編成されることになる。いうなれば西欧の「近代」以後にあっては、「文明」と「文化」が伝統社会の神や超越者に代わる新しい神々を創造する概念装置となり、「科学」「技術」「芸術」という神聖価値の観念体系を構築する基礎となる。それゆえ、「文明」「文化」という概念は宗教的な神聖価値に代わる新しい世俗価値創出の概念装置として、近代世界に見合った新しい神聖価値、つまり「民主主義」や「科学」や「技術」「芸術」といった新しい神々を創出する観念体系をつくっていくことになる。啓蒙と神話の関係がここにおいて二律背反的なものとなる。自ら神話を排除しながら、自らも神話の製作者になるという両面性に陥らざるをえないという二律背反の抱え込みである。

 

『啓蒙の弁証法』が語るように啓蒙が宗教的神話を破壊することは、神話を完全に無化させ、まったく新しい神話なき人間社会を作り上げていくことではない。それは自らが破壊した神話を自らの体中に吞み込んでそれをマナとして自己の新しい神話創出の養分としていくことである。宗教的神話は破壊され、解体されたが、啓蒙は新しい「近代」神話という世俗神話を作り出してくる。これは宗教的神話に対する哲学的神話とも言うべきものである。

「近代」の神話は「科学」「哲学」「技術」「芸術」「民主主義」といった新しい神々を作り出し、またそれは近代の啓蒙の哲学が考え出した理性、悟性、感性という人間認識能力の三つの機能に基づくものとされ、宗教的認識の基礎である「信仰」の非合理性に対して、実践理性という合理的、合目的的な思考体系を目指すものとされる。

宗教的神話がその教義体系を絶対的な「要請」ないしは「公準」としての承認を命じる、つまりポストラート(絶対的公理)として「信仰」を要求するのに対して、哲学的な近代神話は宗教を社会領域から追放し、人間の内面と精神の領域に閉じ込めるような、近代の神々に対する命令的な強制、つまり絶対的な「信仰」の命令は行われない。それは「真・善・美」と「真理」「正義」「創造」と「自由」という近代神話の最高価値の概念が理性、悟性、感性という自律的人間の内面領域の中で、強制なき自由意志という主体的な判断にまかされているように見え、またそう考えられているからである。

だが相違はごく外見上のことに過ぎない。キリスト教の異端に対する苛酷な弾圧、異教に対する理不尽な軽蔑は、近代において消滅するか減退を余儀なくされたかのように見えるが、近代の哲学的神話も「文明」「文化」という教義の観点から見通せば、非西欧圏に対する自己の優越とそこからくる傲慢は決して理性的なものでもなく、また正義、真理や理性にかなったものでもなく、自己中心的な「要請」や「公準」から解放されたものではないのである。

また「科学」「技術」「芸術」「民主主義」という神々も必ずしも人々の良心的で公平な自由意志によって神格化され、近代的な神聖価値を与えられたものではなく、それもまた近代の神々への「信仰」がポストラート(絶対的公理)として人々を強制しているのである。「民主主義」は議会制度と三権分立と司法の独立という教義を通じて、「科学」は真理の探究と学問の自律性の要求という教義を通じて、「科学」は真理の探究と学問の自律性の要求という教義や高等教育機関・研究機関の制度化という教義を通じて、「芸術」はミュージアムの神殿化と美の自律的価値という、制度と教義を通じて、「技術」は社会進歩と人間の幸福の増大という教義を通じて、近代の神聖価値を体系化し、近代の神学を創出することで、近代神話への「信仰」を不可避なものとしていく。

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