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2014年10月20日 (月)

松宮秀治「文明と文化の思想」(13)

アンダーソンは「国民」の概念は自由主義やファシズムのような政治学的概念であるというよりも文化人類学が形づくってきた「親族」や「宗教」の概念に近いものであるといっている。文化人類学が開拓した未開諸部族のフィールド・ワークとして調査してきた「親族」とは、いわゆる文明国にける親族の法学的な概念を超えた一種独特の擬制で、それぞれが独自のフィクショナルな観念体系に支えられたものとして文明国の親族法的な体系とは異なった思考原理に基づいたものである。つまり、彼の言う「親族」は文化人類学が対象とする未開民族とか原始民族とかいわれる人々が主体的に提示する実体的な概念ではなく、観察者が独自の学的方法で「イメージとして心の中に想像した」ものである。そのかぎりで文明社会、言い換えれば西欧近代がイメージとして心の中に想像した「国民」いう擬制と同じものということになる。そのアンダーソンが挙げた「国民」の規定について注目すべきは第三の「国民は一つの共同体として想像される」という規定である。そのような「想像の共同体」という近代の「国家」幻想と「国民」幻想がなぜ人々をして「祖国ために死ぬ」ことを引き受けさせ、戦争という殺し合いの場に赴かせるのか。祖国愛という愛国心を発動させる思想的な擬制は何によって造り出されてくるのか。そこにはかつてキリスト教の殉教者たちが来るべき神の国の「神秘体」との合一を夢見たのに匹敵する、「国家」の「国民」という近代の神話が創出した新しい霊的神秘体との合一が準備されているからである。中世史家のカントロヴィチはその論文「中世政治思想における<祖国のために死ぬこと>」において古代と中世の「祖国のたるに死ぬこと」という観念の古代的な特徴と中世キリスト教的な特徴が近代ロマン主義のナショナリズムにおいて再集合を果たしたことを「神秘体」という用語を用いて説明している。カントロヴィチによれば「神秘体」という用語は聖書に由来するものではなく、キリスト教の教義史の中ではかなり新しい用語であるとのことである。いずれにせよそれは「キリストの体」を聖体として典礼化することに始まるが、教義の複雑な変遷過程の中でキリスト教徒の「永遠の祖国」である神の国の神秘体化の思想が形づくられ、それがさらには「頭がキリストである教会の神秘体」と「頭が君主である国家の神秘体」の観念が形成され、さらに「祖国のために死ぬこと」がこの神秘体との霊的合一をもたらすという観念をも成立させたというのである。ともあれ中世にあってはまだ世俗価値よりも宗教価値が指導的であったが、ルネサンスと人文主義が古代思想と古代の「祖国のためにいぬこと」の世俗的価値の再評価の端緒を開いたというのである。それは啓蒙主義の神授的王権思想の否認のなかで完全な世俗化を完了させ、ロマン主義のナショナリズムの思想の中では、キリスト教的な高度宗教の教義の中で体系化された神秘的な価値ではなく、一種原始宗教のアニミズムやトーテミズムのような霊的感応のなかで作り出される「神秘体」の観念と「祖国のために死ぬこと」という義務感と責任感をつくりだしてきた思想史的な経緯を説明してくれている。キリスト教的な世界観の中では全ての人間活動の目標と目的は、現世という世俗生活の中に置かれるのでなく、キリスト教徒の真の祖国である「永遠の祖国」に置かれる。言い換えれば人間の最高あるいは究極価値は死後の生、つまり来世に置かれる。それに対して啓蒙主義やロマン主義以後の世俗主義の社会にあって、人間の最高価値は現世での生活に置かれる。しかし国家の祭礼や典礼という国家儀式においても近代の「神話」が擬制化した国家という「神秘体」と「祖国」のために死ぬことが同一化されてくる。そしてそれは現世の生活人である市民、大衆、庶民も国民として国家の構成員の役割を果たすことになり、戦争という非常時には「祖国(国家)のために死ぬ」という義務と責任を担っていなければならないという意識を担わされることになる。アンダーソンは国民という「共同幻想」の最も象徴的な存在として西欧社会の「無名戦士の墓」を挙げている。このような記念碑は、「故意にからっぽであるか、あるいはそこに誰が眠っているのか誰も知らない。そしてまさに「それ故に」これらの碑には、公共的、儀礼的敬意が払われる。このような「空虚なる中心」こそナショナリズムの思想が生み出した近代国家の「死と不死」の象徴的な観念を盛る器なのである。そこに必要とされるのは戦没戦士の「祖国のために死ぬこと」という概念と「国家の不死性」という観念なのである。アンダーソンの「想像の共同体」という表現をさらに一歩押し進めるなら、近代国家とは人類史上はじめて出現した本物の「幻想の共同体」ということになる。そしてそれはかつての「宗教共同体」と「王国」という共同体同様、観念によって構築された擬制と等価で、等しい意味を持つものということになる。言い換えれば、いかなる人間共同体も「幻想」の共有によって成立し、自らが造り出した神話とその祭礼儀式に服属することでしか集団を維持しえないということである。つまり神話の破壊と呪術からの解放を求めた啓蒙精神が、自ら新しい神話を創出し、新たな呪術的な支配を構築していかなければならないのである。

 

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