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2014年10月24日 (金)

松宮秀治「文明と文化の思想」(17)

近代思想は悪の内在性、根源性を否定することから出発する。言い換えれば近代思想は神学的思考とは別の価値目標の探求から人間の認識能力の範囲と限界の追求を目指す哲学的な思考を整えてくる。近代思考においては悪とは神学的思考や伝統社会の権威主義的な思考が想定するような神や絶対者以外の存在に先験的に分与されているものではなく、社会的価値の中で好ましからざるもの、劣ったもの、害を為すものとしての人間の社会関係の中で生み出されたものということになってくる。つまり近代思考は自らがつくり出した価値、つまり善なるものは徹底的に絶対化するが、悪は徹底的に相対化する思考なのである。ドイツの観念論哲学も同じ悪の先見的な内容を否定し、悪を相対化させながらも、理性や自由意志は善を認識する審理機能として積極的に肯定していく。

宗教社会と伝統社会における善と悪の区分は極めて明確である。そこでは善はすべて神や超越的他者への帰依、服従を基軸に考えられ、悪とはそれからの離反、それへの反逆と不服従を基軸に考えられる。人を災厄によって苦しめる自然災害も人間の社会生活にとって不都合な結果をもたらす道徳的な不正や悪も個々人にふりかかる傷害、疾病、災難、不幸といったまがごとの一切は、すべて超自然的な力の作用と考えられる。そして善とは神や絶対的な超越者の超自然的な力に対する畏敬の念、神的なものに対する信仰の心の持続的保持、疑心をいだかない清浄心をもって神的なものへの自己投入を基準としてその度合いが測られる。つまり宗教社会や伝統社会においては善とは行動によって外に表われるものであるがゆえに、視覚化されるものである。宗教社会、伝統社会における善とは、すべて善行として可視化されるべきものである。

宗教社会や伝統社会において善は、それは同時に正義でもあるが、視覚的に可視化され、細部にいたるまで図像化されていた。善と正義とは神や絶対的な超越者に由来するだけではなく、最終的にはそこに帰着していくものであるがために、相対的なものではなく、絶対的なものであった。社会はその絶対的なものを規範に秩序を保持すべきであるがゆえに、個々人の意志の自由に優越するものである。プラトンが善をイデアの中の最高のイデアとして、人間感覚のすべてを超えた神秘的なもの、絶対的なものとして、キリスト教神学が善を単なる相対的な価値ではなく、「最高善」の観念で捉え、神こそ「一なるもの」「真なるもの」「善なるもの」としたように、神や絶対的超越者への帰依と観想的認識こそが善と正義の実践とされたのである。つまり善と正義とは共同体の秩序と法そのものであった。

西欧の近代哲学が善と正義、悪と不正の自然法的な論拠を神や超越者から人間本性に移し換えることで、近代の善悪、正邪の論拠が個人と社会の関係の中で移し換えられることになる。近代の人間性の概念がロックの人間悟性論に由来するタブラ・ラサの状態という規定のもとに、経験と環境の産物と見なされ相対化されると、「人権」という概念が近代自然法の思想的根源となり、その人権の進展を阻むものが悪や不正となり、それを促進させるものが善や正義となる。つまり善と正義の概念が神的、先天的、超自然的な根源を否定されると、悪も不正もまた同じくそれを否定し、相対的なものとなる。だがすでに近代思想においては善は絶対化の方向に向かうが、悪は相対的なままにとどめ置かれると相矛盾する方向に向かう。結論を先取りして言えば近代思想の最も強力な部分は、神的、先験的、超自然的な根拠を失った善と正義を「進歩」という概念と「文明」「文化」という概念によって、近代思想に即応した絶対性を与えることができたことである。それに対して悪と不正に対しては絶対性を与えること、つまり絶対的な規準と規範を与えることができなかったことが西欧近代の限界を露呈させ、近代思想の行き詰まりの克服を困難なものにしているのである。

近代西欧が発見し、思想的に整備してきた「進歩」の概念こそが、宗教社会と伝統社会の神と絶対的超越者を保持してきた社会秩序設定者という地位を奪い、近代の新しく創出されてくる諸価値の設定者の位置に就いたのである。啓蒙主義時代に技術の進歩と道徳的社会的進歩が結び付けられ、人間の科学的、技術的な物質的進歩と内面的、道徳的な精神的進歩が一体化され、進歩が近代的な善と正義の絶対的な規準や尺度となり、近代的諸価値の絶対的な措定者となった。

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