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2014年10月31日 (金)

松宮秀治「文明と文化の思想」(24)

ヘーゲルの歴史哲学的省察によれば、「公共の精神」と「主観的精神」が統一された「共同体の真理」の顕現化である西欧近代の国家においてのみ「世界史」が成立しうるということになる。それは個人の内面的自由(主観的精神)と個人の自由を抑制する法あるいは社会的な掟(公共の精神)が、外からの支配力と強制力として自由意志を服従させる強制力を排除する原動力として働くのである。国家と個人の精神の自由を抑圧する「東洋社会」には「世界史」は存在しえない。なぜなら、そこでは歴史は絶対的な権力によって「なされたこと」の記述として超越的な権威をもち、個人の自由意志がその理念を投入する余地が残されていないからである。いうなれば「世界史」とはヘーゲルのいう「国家」と等質のもので。で、国家は個人の内面と公共の精神を統一するものである。それに対して国家が絶対的な権力を持って、法を公共の精神そのものとして、個人の自由意志の服従と屈服を手段や大義名分とするところでは、「共同体の真理」は抑圧されてしまう。「国家」が「共同体の真理」を実現化させえないところでは、「歴史」は一民族、一国家の行動規範としての歴史にはなりえても、個人の自由意志とその総合としての人類の発展理念が歴史の指導原理となる「世界史」は生み出されえない。

つまりは、「世界史」とは「進歩」の観念の創出によって、人間の世俗活動を「文明」と「文化」の概念で再構成する作業である。ということは「世界史」を語りうる資格を持つものは西欧の近代思想のみであり、同時にそれは西欧近代の価値を規準においてしか語りえないものである。西欧の「進歩」塗装がはじめ体系的に明確なかたちで表明されたのは、フランシス・ベーコンの『ノヴム・オルガノム』であったといえる。しかし、その進歩の確信は科学・技術の分野におけるもので、精神の自由の確立による「社会」の進歩そのものは信じていなかった。つまりその進歩の確信は知の集積という相対的な歴史的条件にもとづく優位であって、西欧人の人間的資質そのものにもとづく優位性の信念に由来するものではなかった。それが人間の資質の優位性に転換される方向に進むのは、デカルト哲学の出現以後のことである。デカルト哲学は人間の認識の起源を経験論に求めるのではなく、つまり学習や教育的実践という後天的な形成に求めるのではなく、すべての確実な知識を明晰な理性の先験的な能力に求める。この考えはスピノザやドイツ観念論哲学に引き継がれるが、最も強く継承、発展させたのがヘーゲルの思想であった。

人間の感覚的な認識能力、つまり相対的で後天的な学習にもとづく認識能力に対する先験的な認識能力としての理性は、原理的には人間の普遍的認識能力、つまり全人類が先験的には平等に賦与されている能力であるが、人間の社会形成の過程の中で普遍的理性(純粋理性)は、経験的理性(実践理性、悟性)へと分岐してくる。カントのいう純粋理性と実践理性の区分はデカルトの区分にもどせば第一理性と第二理性になるが、西欧の合理主義哲学の思考伝統のなかでは、事物の真の認識は経験的理性の認識が先験的理性と合一し、不可分な統一性の維持するところに求められる。科学的な認識においては仮説と実験の一致である。ホッブス、ロック、カントの政治哲学によって、西欧の進歩思想は、科学的、技術的な進歩という相対的な西欧優先思想から、社会的進歩という絶対的な西欧優先思想へと転換していく。

その根拠となる信念は、西欧においてのみ人間の自然権が社会制度化を達成しえたという自負に由来する。自然権とは最も基本的な部分に人間の生命の尊厳という思想を据えながら、現実社会の慣習や立法を越えたところに理念として人間存在の基礎条件に一種定言的命令のように無条件にあてはめられるべき命令である。そして自然権はその無条件に与えられた命令として与えられる。このように与えられる意志の自由と法の下での平等は、近代社会の絶対的な理念目標として設定されたものである。そして西欧近代の政治哲学はこの自然権を社会的に現実化するプログラムとすることを自らの中心的な課題としてきた。西欧の17、8世紀の政治哲学と啓蒙思想によって、前近代的な宗教的神権主義や権威主義的な諸特権が相対化されることで、人間の基本的人権の思想が西欧人の人間観、社会主義や権威主義的な諸特権が相対化されることで、人間の基本的人権の思想が西欧人の人間観、社会観を人類史上、類例のない新しい価値基準で方向づけていく。この価値規準の提示の開始とその理念の実践過程を西欧人は「近代」と規定し、そしてその近代価値の中心に「進歩」という観念を設定してくる。

ヘーゲルに至って西欧のこの社会進歩は、それ以前になかったほど強力に西欧人の絶対的な優越性の哲学的根拠が与えられ、西欧人の「世界史的使命」が自覚化される。「進歩」が人間存在の最も中心的な価値となることで、「文明」と「文化」も西欧の近代価値のイデオロギー的な主張の支柱へと変化していく。

西欧近代が圧倒的な力として作用し、全世界の伝統的な秩序の存立基盤を揺るがせるか、あるいは弱体化、無力化させる力となっていったのは、西欧近代が単に西欧の前近代の権威に対する懐疑と批判のみにとどまったのではなく、人間社会全体や人類史全体の権威の神秘的・魔術的支配力を弱体化あるいは無力化させていく思惟方法を確立させえたからである。その近代的思惟とは哲学と呼ばれる批判的思考で、人間の行動目標を神秘的権威に盲目的に委ねてしまうことなく、人間行動の目標をその方向に応じた根拠に依拠させて、自らの理性的判断で設定していく主体的で自力的な思考のあり方をいうのである。哲学はその進行過程のなかで次第に自然諸科学、社会諸科学、芸術諸科学に専門分化していく方向をたどりながらも、その思惟全体と合理主義精神を可能な限り追求することで政治哲学と歴史哲学としての存立基盤を強化させながら、全世界、全人類の空間的(地理的)、時間的(歴史的)存在原理と存在様態の差異の原因解明に関しては個別専門科学がとうてい達しえない探究能力を保持して勢力を失わないようにしてきた。

 

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