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2014年10月18日 (土)

松宮秀治「文明と文化の思想」(11)

「文明」が啓蒙主義に、「文化」がロマン主義に結び付けられてきたこと、またそうされ続けていることは内在的要因と歴史的要因の両面から理解されうる。「文明」が進歩主義、科学、技術主義、現実主義と結び付くのに対して、「文化」が保守主義、芸術・内面主義、歴史主義に結び付くのは両概念の内包領域と観念体系(連合)の差異に由来するものであるが、その差異は概念の内在的要因のみからでは説明されえない歴史的な要因に由来するものといえる。

啓蒙主義の最高の業績は「進歩」という観念を歴史の中に定着させたことである。この「進歩」という観念によって人間は、神や超越者の拘束から逃れて、自律的な存在となり、自らが世界を創造する存在となることができた。いいかえれば啓蒙主義は、人間の歴史を神の摂理と恩寵が支配する聖書年代記としての「普遍史」から解放し、人間自らが歴史の全過程の創造者となる「世界史」を生み出すことになったのである。これはいうなれば、人間が「神話」から解放され、非合理的な世界解釈に代わる合理主義精神による「歴史」の創出を可能にしえたことを意味する。しかしこのことをもって啓蒙主義の神話に対する勝利とすることはできない。なぜなら啓蒙主義自体が神話そのものと異質の思考体系から生み出されたものではなく、むしろ神話自体の中に内在していた思考体系の延長上に出現したものだからである。この関係を剔出してみせたのがホルクハイマーとアドルノの『啓蒙の弁証法』である。

彼らは、キリスト教の神話が造り出した聖書年代記的な「普遍史」に代わる啓蒙主義の人類史としての「世界史」が、それ自体すでにキリスト教の「神話」とまったく別な思考体系から生み出されたものではなく、キリスト教の「神話」のなかから養分を吸収し、同一の思考体系の中から育ってきたものだったことを指摘する。

啓蒙主義の世界市民的な「世界史」が、ロマン主義の民族主義的、国家主義的な「国民史」に報復されるのは、啓蒙主義の合理主義がロマン主義の非合理主義との闘争に敗北したことを意味するのではない。啓蒙主義とロマン主義のそれぞれが自律的に独立し、完結した概念であるというより、それぞれが対概念として相互補完的に概念の存立基盤を補強しあっているものである。啓蒙主義は神話を破壊し、世俗領域に新しい価値を与える。すると今度は世俗価値の神話化が開始される。言い換えれば啓蒙主義に対するロマン主義の「ロマン主義的な反逆」が、世俗領域の神話化を始動させていったのではなく、それはすでに啓蒙主義のなかに内在していた非合理精神と超越的価値への志向が、合理精神と非合理精神と合一し、両者を複合させたからである。

問題の最も本質にかかわるものは、啓蒙の「進歩」思想が生み出したものが、なぜロマン主義的な「伝統」への希求と一体化したかたちで価値概念化し、価値概念の範疇を形成していくのかということである。それは「革新」は「保守」を対概念とすることによってしか、自己の価値領域を測定し得ないことに帰因するものであるとしか説明しえない。啓蒙主義の生み出した近代価値はすべて、技術と自然、科学と宗教、文明と文化といったかたちで自己価値の領域確定の対概念と一体化することでしか事故価値の主張ができないのである。それは前近代社会の諸価値が超越的な絶対者の命令として、対抗概念や敵対概念の存在を許さなかったし、また必要としなかったのと対蹠的である。

このような前近代の諸価値に対して啓蒙主義以後の近代諸価値はそれが「人間」という相対的存在者の集合意志に由来するので、対抗概念や敵対概念と一体化することでしか、自己の価値領域の測定も確定も不可能だからである。前近代社会における世界と人類の諸価値は絶対者の意志によって一方的に与えられたものとして、人間の要求を許さないものであったのに対し、近代の人間中心主義の社会では、人間の集合意志によって世界と人類の諸価値は理念や理想として措定され、また変更や修正の余地が残された相対的なものとされるからである。それゆえ前近代社会の歴史は原初に最高価値が置かれ、時間の経過のなかでその原初価値が下降的に減少するか、消滅へ向かう下降史観を形成するのに対して、近代の歴史は理念や理想の絶えざる更新の中で、人間諸価値は対抗価値や対立価値との闘争のなかで、スパイラル的な上昇と向上を目指す進歩史観を形成することになる。

前近代社会の神話が世界と人類の終末と救済をセットにしていたのに対して、近代社会は超越的な絶対者を欠くために、終末と救済という観念体系を措定しえない。せいぜいその代用物としては、近代とは前近代社会の神話を解体してしまったが、解体してしまった神話によって生じた空白、つまり終末と救済の不在、言い換えれば人間の霊性の喪失を補う新しい神話の不在に脅かされることになる。啓蒙主義に対するロマン主義の反逆は、葬り去られた前近代社会の人間の霊的存在の代替品の製作、創出の作業である。

近代は前近代社会の神話を解体させ、神を葬り去ったが、神話や神の不在に耐えうるほどの強靭な人間精神も人間社会も形成しえなかった。それゆえ、ある意味では前近代社会以上に神話と神を必要とすることになってしまった。「国家」や「民族」は人間を死に赴かせるほどの神話的な強制力を獲得し、「進歩」「科学」「技術」は人間の未来を指示してくれる神となり、「伝統」「文化」「芸術」は人間の過去の偉業を追憶させ、祝福する神となる。

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コメント

ついに「進歩」思想が出て来ましたね。

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