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2014年10月28日 (火)

松宮秀治「文明と文化の思想」(21)

カントにとって「進歩」とは人類社会の理念的な目標である「永久平和」の実現に向けての人類の実践的な努力の全プロセスを意味している。そしてその「永久平和」の理念の実践的な達成は人間が国家的連合の段階を越えて、「人類の完全な市民的連合」を作り出すことである。さらにこれを別な言い方をすれば、人間社会の進歩の具体的な指標としての「文明的進歩」と「文化的進歩」の並行的、乖離的発展を人間の道徳的成熟で統合、合一化させていくプロセスである。

カントにとって「進歩」とは人間が他から独立して自由な個人的領域を確保しようとする「非社交性」と、敵対とまではいわないまでも相対立しあう個と個の関係を「社会」という相互譲歩の機能によってのみ成立する「社交性」と融合させることで、個人の非社交性の領域と個人の意志の自由と人権の尊厳も自然権として保証されるが、同様に社会形成の欲求それ自体も単なる特定範囲内での集団形成だけにとどまるのではなく、様々な特定地域集団の枠を超えて、「世界市民連合」というより高次元の社交性が個人の非社交性を解体させる域にまで達していこうとするプロセス全体をいうのである。

カントにとって「文化」と「文明」の関係はこの人間の非社交性の関係と同じものである。「文化」とは人間の個人的能力、性向、意志、自由について自己価値の形成、確立、保持のための自己独立領域の確保の活動に発しながらも、それが個人的価値を越えて社会的価値全体のなかで、その存在意義が承認されるときはじめて社会価値を獲得するものである。それに対して「文明」とははじめから社会価値を承認されており、その社会価値が個人の活動全体を方向づけ、規定し、個人が自覚的な活動領域を発見し、形成していく以前にすでにその行動規範となることで、個人の活動の方向性を与え、その活動の社会性、あるいは反社会性の測定基準を決定するものである。言い換えれば「文化」とは個人の私的活動が集団的価値、社会的価値に拡大、上昇していったものであり、「文明」とは逆に社会的、集団的価値が一方では普遍的価値としてますます脱個人化、脱地域化し、世界の価値を一元化していきながら、さらに他の一方では一元化されていく価値を等価的に分散化、拡大化させながら個人の私的活動領域にまで浸透していく性格をもつものである。

カントにとって「進歩」とは「文化」と「文明」が道徳性の理念なかで合一、融合することであるが、それを可能にするのは人間の道徳的成熟を俟たなければならないという。なぜなら「文化」と「文明」の合一、融合は両者の本質の理解の不足、不徹底のための分裂状態の中にとどめ置かれているからであるという。

「文化」とはカントの考え方によれば個人の内発的な自立と人格の自律的な価値が社会的価値に上昇され、拡大されることで人間の道徳的成熟を促すものである。それに対して「文明」はすでに確立され、規範化されている、外的で形式的な道徳価値が個人のなかで内政的な反省と深化を果たしていくことで、個人の内面的な道徳と融合、合一することで成熟に向かって完成されていくのである。いうなれば「文化」とは個的な内面価値が外面化されることで社会価値となっていくものであり、「文明」とは外的な集合的な価値が個人の内面価値、人格価値と融合することで精神価値を獲得していくものである。したがって「文化」も「文明」もともに自発的な内的な発展原理によって成長していくものである。したがって「文化」も「文明」もともに自発的な内的な発展原理によって成長していくもので、外的な強制力はその自然な自己形成と高次の道徳的成熟力を圧迫してしまう。「文化」は内発的で個別的な精神価値や思想価値を社会化することで自己形成と自己成熟を果たしていくものであり、「文明」はすでに社会生活の規範価値として確立されている権威の社会的強制力を個々人に押し付けるのではなく、その権威を個々人の人格発展の形成財に転化させることで精神化、内面化を果たしていくものである。「文化」や「文明」は共に個人の範囲や国家の範囲内にとどまるのではなく、両方の枠を越えて、「市民社会連合」という超国家的な次元、つまり「人類史」と「世界史」の成立といえる「道徳性の理念達成」の段階に至ってはじめて完成の域に達したことになる。

このようなカントの「進歩」思想とは、人間の道徳的進歩への期待と信奉へ帰着する一種の「千年王国論」、つまり中世キリスト教の神学的なそれに代わる近代の哲学的なそれともいうべきものである。

西欧の「近代」を始動させ、その近代の展開を主導してきた「進歩」とは、個々人の知的進歩でもなく、またのちには主導的な役割を担うことになる科学や技術の進歩ではなく、個人が自己の自然権を社会集団に移譲し、社会集団の権力のもとでより高次の実定法としての自然権に結実させていく過程のことである。つまり「進歩」とは個人の能力開発と進展ではなく、社会活動全体としての「文化」と「文明」の発達のことなのである。西欧における「進歩」の観念はこのように科学と技術による諸発明やその結集として起こる「産業革命」という社会の物質的な変化の実感に先行した、社会制度と人間の社会的責任(社会道徳)の変革の理念によって主導されてきたものであった。近代以前においても人民統治の政治的な技術としての政治学と法学はそれぞれの統治段階に応じた形で知的な組織化が図られてきた。この前近代の西欧の政治学、法律学はつねに為政者側に立った統治技術論であり、方法論であった。それに対して近代の政治哲学は統治者と被統治者の伝統的な関係そのものを問い直すことから出発したものであった。そこから新たに生まれた近代の政治学の中心概念となるものが、「市民社会」であり、さらにその概念の整備のなかから生じてきたものが「民主主義」「主権在民」といった新しい概念であった。そして、近代の政治哲学は前近代の政治的思考の枠を越えて、政治経済論の領域を開拓していった。例えばルソーの『政治経済論』やアダム・スミスの『国富論』であるそこからホッブス、ロック、カントの政治哲学で追求された政治社会学的な領域に加え、新たな経済社会学あるいは産業社会学的な社会科学の領域が開拓されるようになってくる。この経済社会学や産業社会的な思想と思考の出現過程の中で、科学技術の進歩や社会経済圏の拡大といわゆる「産業革命」という政治哲学論的な社会理論を経済哲学的な社会理論へ転化させる思想転換が生じてくる。そしてその新しい経済哲学的な社会理論が工業化された産業社会の出現と結び付くことで、それまで政治社会の変革を中心に理念化されてきた「進歩」が、次第にそのシフトを転換させて、科学技術の進歩を中心軸とした方向に変わってくる。これによって「文明」と「文化」の概念も相互補完関係から対立関係へと次第に変化を開始させ、それと並行するかたちで政治社会論も革新主義と保守主義の対立、世界市民主義と国民国家主義の対立、物質主義と精神主義の対立を生み出してくる。

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