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2014年10月16日 (木)

松宮秀治「文明と文化の思想」(9)

第2章 ロマン主義と文化

19世紀末以後のドイツ人とドイツ語圏の人々は「文化」という語に特別な意味を込め、その語に自己の心性と自己の生存の意味を同化させようとしてきた。ヘルムート・プレスナーの『遅れてきた国民』(1935年)では、そのことが主張されている。彼の言わんとすることは、本来「文化」という概念は「文明」の概念同様に宗教的な世界観から人間を解放し、神の被造物としての人間を世界創造の主体へと転化させるための観念体系構築の中心的な概念であった。言い換えれば、それは徹底的に世俗的な概念だったものである。それがドイツにおいては他の西欧諸国とは異なって再びルター主義の労働観、職業活動観と結び付いて、新たな「世界宗教」的な神聖価値を帯びだしたというのである。

これに対してフロイトは民族性や国民性という装着された二次的な人間精神ではなく、意識下の本源的な人間精神の探求者として「文化」の全人類的性格を解明しようとした。フロイトは「文化」が人類全体に対しては神聖価値からの解放者役割を果たしながらも、個体としてのひとりの人間には抑圧者的な役割を持つ二重性をつねに問題とした。フロイトにとって「文化」とは何よりもまず、「人間の文化」、つまり人類全体の文化であって、特定の人間集団、つのり特定の国民や民族、さらには特定の地域集団や特定の共同体のそれではない。また特定の国民や民族の精神はその歴史の聖別化の対象とされるべきものでもない。文化とは「人間が自然の力を制御し、人間の欲求を充足するべく自然のさまざまな財を獲得するために手にしてきたすべての知識と能力全体」のことである。それは人類全体が共通に獲得してきた知性の進歩と技術の進歩の全過程に対して与えられるべきものである。言い換えれば、それは神という絶対者や天命といった超越者によって人間に分与された神聖価値の下賜物ではなく、人間の欲望充足への努力と欲望の相互調整過程で生み出されてくるその時々の社会制度との関係そのものが文化ということになる。

自然の力を制御し、自然からさまざまの財を手に入れようとする人間の欲求充足が文化であるなら、人間相互間の欲望を調整し、欲望の馴致のために創り出された社会の諸制度も文化である。いいかえれば個人の欲望の充足のためになされてきた人間の知的進歩と拡大,技術の進歩と拡大も文化であれば、個人の欲望に敵対し、それを制御し調整しようとする社会の諸制度も文化である。だからフロイトは、その相互関係こそが文化の本質であるとする。そしてその本質の解明への仕事に着手するために、個人の欲望の文化への攻撃、個人の欲望からの文化の防衛という点から論を展開させていく。

「文化」という概念と観念は突き詰めていれば最終的にはこの二つの方向に分岐するものである。一方は「文化」を「文明」から峻別し、それを自国や自民族の精神価値の神聖化、優越価値化の方向で概念化し、そしてそれに対応する観念の体系化を目指す方向である。もう一方は「文化」と「文明」の間に概念的差異を拡大させず、個人を国家や民族に結び付けるよりもむしろそれを「社会」や「公共圏」といったゲゼルシャフト的な集合体に結び付けることによって、特定の個別的な国家、民族、集団の価値よりも「人類」と「世界」の普遍的な価値を目指す方向である。前者はプレスナーが分析したようなドイツの「文化」概念である。それは「文化」と「文明」が概念を峻別し、精神価値に関する領域をことさらに区別し、「文化」の「文明」に対する優越感を信奉する。それに対して非ドイツ的な「文化」概念は「文明」と峻別されることなく、両者は状況に応じて融合し、両概念は容易に意味の互換性が与えられ、精神価値と物質価値の峻別を嫌うのである。前者は啓蒙主義的思考に対する意図的な対立のなかに自己の存立根拠を据えようとするロマン主義とナショナリズムの思考の産物であり、後者は物質的、技術的な進歩によって、「人類」と「世界」の功利主義的な改善の恩恵の享受を標榜する啓蒙主義の思考の産物である。その意味でフロイトの「文化」概念は啓蒙主義の正統の継承である。それに対してプレスナーの分析するドイツの「文化」概念はロマン主義とナショナリズムの真性の継承である。

 

プレスナーが分析したドイツ語の「文化」概念は、西欧諸国の一般的な文化概念が宗教的な基盤を徹底的に破壊することで、「理性」という言葉とだけ結び付いて、「人類」と「世界」の普遍性と共通の普遍的な価値を目指したのに対して、ドイツ語の文化は「理性」との結合だけにとどまらずに、「精神」とか「生」とか「民族」という言葉とり結合をも果たしてしまったのである。その結果、啓蒙主義が世俗価値と峻別した宗教価値が再び世俗価値のなかに侵入し、世俗価値の宗教化と神聖化が再開され始める。

キリスト教神学、つまりその教義体系において信徒の世俗生活における神に対する義務と信仰生活における教会に対する義務との間に境界線は存在しない。両者は神の恩寵と摂理の中で完全に受動的な生を享受するだけである。それに対してルター派のキリスト教徒にとっては世俗生活における神に対する義務と、信仰生活における教会に対する義務はそれぞれに別なものとして一致してはいない。プレスナーの言うようにドイツの文化という言葉が「宗教的な地盤との繋がりを保持している」のは、啓蒙主義においてそれが「理性」という言葉とだけ結合していただけであったのが、ロマン主義とナショナリズム思想のなかで特有な意味と意義を与えられてくる「精神」と「生」と「民族」という言葉と結び付いて、それらを「文化」の重要な内包概念とするためである。

プレスナーが言わんとすることは、ドイツ人が19世紀から20世紀にかけて育てあげていった「文化」という概念は啓蒙主義が説いてきたような「世界」の脱神話化、世俗化的な解釈の上にのみ構築された概念でもなく、またカトリック的な宗教思想が継承してきたような世俗生活における「教会に対する義務」との間に何の分裂、つまり不一致も存在しないという思想の上に構築された概念でもなかったということである。言い換えればドイツの「文化」概念は啓蒙主義やその申し子のフロイトのように反宗教的で世俗的性格のみを強調する方向で観念体系化されたものではない。またカトリック的な神秘主義が主張するように、人間の知的発展も人類と世界の科学的、技術的な進歩も究極的には神の超自然的な神秘的な力と神の支配する「コスモス」の秩序を越えることはできない。それゆえに、人間の個人的な主体的「自由意思」など、大局的な見地からすればとるに足らないものであるとする。ドイツの「文化」概念は、この啓蒙主義的な「文化」と「文明」の成立の方向とは異なった方向を歩んで形成されたものであったということである。ドイツ人は「文化」という概念を19世紀から20世紀にかけて再解釈し、再構成してきたプロセスを説明したものである。ドイツのロマン主義は啓蒙主義ほど宗教を人間の知的発展の不完全な段階での「幻想」とも「幻覚」とも考えず、またキリスト教神学のように「世界」の存在の「第一原因」とも考えない思想で、人間の世俗活動の神聖化を推し進めようとしたのである。

「文化」や「文明」という概念は本来きわめてゆっくりと成長を遂げてきたものである。それはその言葉自身の自己発展により成熟へ向かったものというより、プレスナーがいうように、「それは18世紀の理性という言葉や次の時代の精神とか生とか民族という言葉と同じものである」といえる。言い換えると「文明」や「文化」という言葉はその意味範囲の広さそれ自身が負いきれないため「理性」や「精神」という人間の個人的な主体性と同義的なものによって代表的に表現されるか、あるいはキリスト教的な受動的な、彼岸的な人間の「生」に対するアンチテーゼとしての主体的で現世的、世俗的な生活としての人間の「生」、あるいはその集合的表象としての「世界」と「民族」によって代替的に用いられてきたのである。

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