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2014年10月30日 (木)

松宮秀治「文明と文化の思想」(23)

ヘーゲルにとって歴史とは人間精神の「進歩」への信奉によって、過去の人間精神の進展過程の総体を再整除、再構成しなおし、「国家」という人間存在の最高形態への接近度によって人間価値が測定される規準であり、尺度なのである。クローチェからEHカーに至る現代の歴史思想は、「あらゆる歴史は現代史である」という観念をめぐるものになっているが、この考えもそれに遡っていくとヘーゲルに辿り着くことになる。そしてそのヘーゲルの思想も西欧近代の「世界史」の思想と「政治哲学」の思想に起源が認められる。西欧近代の「世界史」と「政治哲学」の思想もその出発点は人間を超える超越者の存在を認めず、人類史と人間社会を人間の主体的な意志活動の成果として考える点に共通点をもつ。さらに両者はともに人間の自由意志の拡大と人間の自然権の確立を「進歩」の規準とすることでも共通性をもつ。

この意味でヘーゲルの歴史哲学は、ホッブス、ロック、カント政治哲学と同一の進歩思想の系譜につながるものである。このことはヘーゲルの『歴史哲学講義』のただひとつの真のテーマである「世界史」とは何かという課題の論の展開の文脈に則して考えるとより明確なものになる。それは西欧近代の歴史哲学とは政治哲学と不可分の一体性をもつもので、神話的、呪術的な宗教社会における被造物としての人間の受動的な歴史観や伝統主義的で規範主義的な規範社会の固定化された人間価値の序列に世界の基盤を求めていこうとする歴史観に対して果敢に反撥し、人間精神の主体的な創造性と人間の自然権と意志の自由を人類史の進歩の規準に設定していこうとする思想の産物である。だが人間精神と自由の意志には民族的資源による差異が不可避に反映され、「世界史」とはその差異が明確に反映されるものとされる。

キリスト教によって導入された「自由」はまだ宗教的な教義の段階にとどまるものであり、その自然権の思想も現実的な実践のために組織的にプログラム化されたものではなく、神学的な教義の範囲内にとどまるものに過ぎなかった。自由の原理が宗教的な教説にとどまり、政治の実践領域に浸透されないのは、いまだ「世界史」が自由の段階に達したことにはならないのである。「自由の原理を世俗の世界に適用し、世俗の状態に自由を浸透させ自由を確立するには、長い時間の経過が必要で、その経過が歴史自体なのです」ということを明確に理論化していく作用が「歴史哲学」の課題になるということである。そして彼の歴史哲学が政治哲学であり、それが西欧近代イデオロギーの中核となり、西欧精神の「進歩」こそが「世界史」の進歩の最優越価値として、「人類史」としての世界の歴を再整除、再構成する絶対的な規準となるのである。

そしてその歴史哲学の実践的な目標として設定してきたのが「世界史」という観念だったのである。したがって「世界史」とは世界の諸民族、諸国家の個別的な歴史的展開の記述ではなく、「精神の自由」という指導原理として展開させてきた人類の活動の価値の序列化を意味するものとなる。その「世界史」の規準を提供しうるのは、「人間そのものが事由であり、精神の自由こそが、人間のもっとも固有の本性をなす」という意識をもったゲルマン精神とキリスト教精神を合体させえた西欧人のみということになる。つまり「世界史」は世界の個別的な民族や国家の歴史的展開の総和でなく、人間が「精神の自由」という理念を達成させていくための指導理念の提示であり、その理念に沿った人間の歴史の再整除計画のプログラムなのである。

西欧の近代価値の中核を形成する観念が「進歩」であり、その進歩の観念の内包領域を細分化し、概念化していく概念軸の役割を果たすのが「文明」と「文化」であることは、すでに繰り返し述べてきたことである。しかし、ここに立ち止らずに先に話を展開させてゆくなら、「進歩」「文明」「文化」は人間の集団的な活動の成果であるが、その基礎部分を形成する個人の活動を始動させているものは、「理性」という、感覚的、情動的思考力とは異なる概念的な思考能力であるが、英仏の場合はこの「理性」は論理的、科学的な合理思考とより多く結合したものになっていくのに対して、ドイツの場合は精神的、先験論的(形而上学的)な思考とより多く結合を果たしていった。このことから暫定的に引き出されてくる結論は、西欧の近代価値の「進歩」の観念は、英仏にあっては科学文明、技術文明、社会統治技術文明(市民的国民国家、主権在民、議会制民主主義)の価値の称揚の方向に進み、ドイツにあっては、それは芸術、哲学、宗教(信仰の対象としてのものではなく、教養財としての相対化された世界の諸宗教)の文化価値の称揚の方向に進むということである。西欧近代が「世界史」という概念を創出し、その中軸と価値基準を西ヨーロッパ世界に置くのは、全人類と全世界を「文明」と「文化」の概念のもとに組織的統一体として把握する思考体系を形成しえたからである。また西欧社会以外の諸民族が伝統的な権威主義社会か宗教的な神秘主義の段階にとどまり、それらの諸民族の歴史を文明や文化の概念で捉えることができたにせよ、その文明、文化はその歴史の出発点においてすでに完成形態を有し、それらすべてが本質的に下降史観に貫かれ、「進歩」の観念と結合しえないものだからである。西欧だけが「進歩」の観念を創出しえただけでなく、その進歩を実体化、現実化しているという自負が、西欧近代の全思想に浸透していったからである。ヘーゲルにおいて一つの完成形態を見い出す西欧の歴史哲学は、「世界史」という西欧近代のみが創出しえた「擬制」の歴史である。

ヘーゲルによれば、歴史とは「なされたこと」、つまり歴史的事実と「なされたことの物語」、つまり事実についての解釈が統一されたものだというのである。歴史とは歴史的事実だけでは歴史とはなりえない。歴史が歴史たりうるのは、歴史的事実と歴史解釈が統一されるような歴史についての哲学的な省察が必要となる。ヘーゲルにとって「歴史」とは、「理性がこの世の現実に存在し、意識や意思の行為のうちに理性が認められるような状態」においてはじめて実現するもの、さらに言えば、「精神が生命をもち、自由や善悪や法を意識しうる状態」、つまり「精神が純良さ」を脱した状態ではじまる自己の精神の客観化と歴史的事実の主観的省察が可能となる精神段階においてはじまるものである。言い換えれば公共の精神と主観的精神が統一されることで、「共同体の真理(国家の真理)」が顕現するとき、はじめて歴史が歴史として自覚的なものになるというのである。「世界史においては、国家を形成した民族しか問題にならない」というヘーゲルのテーゼは、「かくて、世界史の対象を明確に定義すれば、自由が客観的に存在し、人々がそこで自由に生きる国家がそれだ」ということになる。

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