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2014年10月11日 (土)

松宮秀治「文明と文化の思想」(5)

18世紀の啓蒙主義の思想にあっては、キリスト教的禁欲の否定と情念と感性の解放こそが、伝統社会と宗教支配からの脱却であり、「世俗主義」という新しい価値観念体系の創出と新しい「世界」解釈への出発点となったものである。

「世俗主義」、いいかえれば「西欧の近代精神」とは、人間を被造物とみなすすべての人間観、世界観を打ち砕き、「文明」と「文化」という概念枠の中で、「世界史」は神の年代記ではなく、人間が原始的な未開段階から文明・文化への段階へ自らの努力で発展させてきたもの考える思想である。別な言い方をすれば、「文明」「文化」とは、「世界史」の発見によって概念形成を果たしてくる世俗的な価値体系の統括概念だということである。つまり「世界」が神の被造物と見なされ、「歴史」も神への意志実現過程として定められた進行の枠内の事象として、人間の意志を超えたものとされることへの反論の理論化の概念であったことを意味する。

それに対して、「世界史」の発見とは、「歴史」を人間の自己展開とみなす思想の創造を意味する。「文明」「文化」とは神の意志や恩寵・摂理とは関係なく、人間が自力によって自己展開させたものを集約し、総括し、神的な価値とは無関係な人間中心の価値で整序させたものの総称である。

今日的な概念的進歩が結果的には人間の内面的進歩と連動してくるという考えを概念化したものである。「文化」は人間の美意識や倫理、集団的結合や離反を促進させる。「共同体の精神」を組織化し、価値として整序することで、人間の社会化を進展させ、その共同体の精神の内面的価値が、結果的には技術の進歩がもたらす人間の物質的進歩とも連動するものの概念化である。いうなれば「文明」は物質的進歩が出発点に置かれながら、帰結点においては人間の内面的・精神的価値とも結合するものの場であり、「文化」は精神的価値が出発点に置かれながら、帰結点においては物質的・社会行動規範の場である。両者は質的に同一のものでありながら、始動と帰結点のベクトルの方向が逆向きになっているのである。

だか、本来的には、それらは個別概念ではなく、それぞれが他を含んだ独立概念で、「文化」は文明を含み、「文明」は文化を含んだものとして概念形成を果たしてきた。両概念の形成期にあっては、理念的な価値を規準にまで高めた高位置事業を中心に整備されていたので、没価値的で価値自由な領域はその概念にまで含めないのが普通であった。「文明」が概念化される際は、「歴史」概念と結合することで、未開・半文明・文明という段階に応じた文明の段階差が明瞭になると概念枠に必然的に集約されることになる。つまり、「未開」という概念はそれ自身として存在しているのではなく、高次「文明」という概念の成立を伴ってはじめて意味をなす概念である。

このように時代によって価値水準が変動する「文明」「文化」の概念に統一性を与え、同一の概念枠内で統括可能なものにしていくのが「歴史」という概念である。「歴史」という概念は、18世紀に入ると過去の出来事の記録という意味を超えて、出来事と出来事の間の「持続的関連性」を意味するものになる。「持続的関連性」とは「文明の進歩」と「文化の進歩」の意であり、神や超越者の意志とは一切関係のない人間、つまり人類全体の自己展開を意味しているものである。したがって「世界史」とはキリスト教的な神の被造物としての神の年代誌(記)ではなく、未開段階から文明段階に至る人間の自己努力の「持続的な道程」という相互連関性が歴史哲学的思考となったものである。

ここで私たちが再確認しながら見ていかなければならないことは、啓蒙の歴史主義の哲学的歴史思考というものが人類史上の思想革命そのものであったという事実である。それ以前のいかなる伝統社会の歴史観も宗教歴史観も共に歴史の栄光はその出発点にあり、時代の進展は人類の堕落と衰退、衰亡へ向かうという下降史観を基本としていたということである。伝統主義社会の歴史観も神学的な宗教的歴史観も歴史の帰結点は「終末」かあるいは「来世」という観念で締めくくられることになる。

それに対して啓蒙の歴史主義思想は、人類の無限の進歩を前提として出発する。いうなればそれは「理性」の自己展開という非完結的な「進歩」の意志に支えられたものされる。このような伝統社会の歴史観と宗教的な神学史観から啓蒙の歴史主義への転換は18世紀の用語で言えば、キリスト教的「普遍史」観から世俗史観的な「世界史」への転換ということになる。「ユニヴァーサル・ヒストリー」から「ワールド・ヒストリー」への転換ということになる。

キリスト教の聖書年代記に代表されるような伝統社会の人類史は、その起源においても終末においても基本的には、神や超越者の意志の実現という宗教的教養によって整理された特定の「神話」と結び付けられる。言い換えれば、人類の歴史とは人間の自由意志とは完全に無関係にあらかじめ予定されてい進路を辿る行程とされ、歴史に対する人間の能動的関与の余地が存在しないものである。つまり人類は基本的には歴史に対して受動的な役割しか与えられない存在である。啓蒙主義の歴史哲学は人間の歴史意識における「コペルニクス的転換」てせあり、人類の思想の歴史における最大級の革命とされるべきものである。この思想によって人間ははじめて神の「宇宙」創造の中に被造物として受動的な投げ出された存在から、「世界」という人間が主体的に創造していくとのできる空間の中で主体的に歴史の創造にかかわっていくことのできる存在となったのである。

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