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2014年10月10日 (金)

松宮秀治「文明と文化の思想」(4)

啓蒙主義時代以前、つまり前近代社会の奢侈の用語法は、王侯貴顕あるいは宗教的な権門に集積される富、例えば宮廷の宝物室や「クンスト・カンマー」に蓄えられる金銀、宝石、財宝といった特権的財とその誇示的出資や権威維持的出費といったものに連想が集中するのであるが、啓蒙主義の奢侈や贅沢とは、いうなれば「必需品を上回るものにかける出費」ほどの意味で、この概念は極めて相対的である。しかし啓蒙主義哲学の奢侈概念はこの相対的な価値を相対的のままにとどめ置くのではなく、それを社会的な価値基準と心理的価値基準の双方から絶対的な規範に統合させようとするのである。したがって奢侈は単に必需品を上回ったものというだけではなく、社会的有用性と人間の情念の正しい解放の方向性とをもつもの、つまり社会倫理的にも社会的悪徳とは相反する方向性を志向するものでなければならないとされる。

いうなればそれは国家財政の健全化、つまり国家富強に属すると同時に、国民の欲望の解放、情念の解放を善導するものでなければならない。つまり奢侈とは恣意的な情念の解放ではなく、共同体の精神と共同体の利益に一致したものとして国家がその組織化を行ってゆくべきものということになる。啓蒙思想にとって「奢侈」「贅沢」しは決して個々人の私人の私的な金銭支出の問題ではなく、国家や政府によって国家富強政策と共同体精神の建設に向けられるべき社会性と倫理性の集約のための産業と勤勉の組織化なのである。

このように「奢侈」は確かに経済学的な概念であるが、それがもはや『百科全書』ではそこに留まらず、中世キリスト教の欲望の禁圧、情念や感性に対する嫌悪と反世俗主義の精神に対する強力な挑戦を集約する概念にまでなっていることが理解できる。「金持ちが天国の門をくぐるのは、ラクダが針の穴を通り抜けるより困難である」という言葉に象徴される世俗的価値に対する反感が、ここでは欲望と情念の解放の新しい指標として、世俗主義理論の集約点へと変化している。宗教的な禁欲主義、清貧主義はその高邁な理想主義によってひとりの人間をより高潔な人格者へと変貌させることができるかも知れないが、社会の進歩という観念とは無縁なものである。それに対して、「奢侈」を肯定する世俗主義は、人間の活動領域を単に私的な精神領域にとどめ置くのではなく、その経済的、社会的諸活動の領域へ移行せしめることで、社会進歩を促進させ、またその社会進歩を人間価値の拡大に転換させる力を持つに至る。

奢侈や贅沢や浪費という人間の経済的活動は禁欲的な精神主義の価値観から見れば、虚飾・虚栄という非人格価値の領域に貶められるものであるが、世俗主義という社会価値の次元においてはまったく新しい価値領域を開拓するのである。

禁欲的な精神主義のもとでは負の価値しか与えられない野心、虚栄心、名誉心までもが世俗主義のもとで正の価値に転換されるばかりでなく、もっと積極的に「共同体の精神」の必須条件にまで高められてくる。なぜそうなるのか。禁欲主義、清貧主義、精神主義にとって欲望の否定の結果得られる霊的人格の獲得と精神の豊穣感と満足感は、高い価値目標となり、社会規範としても推奨に値するというより、至高目標、至高善とされるべきものであるが、欲望や情念の解放を目指す社会にあっては、それはきわめて片鱗の私的領域の善とされるだけで、社会的な価値目標とはなりえない。世俗社会にあっても、清貧、高潔、求道的人格は、個人的倫理価値として賞賛に値するものには違いないが、それが共同体の精神的な価値にはなりえない。そよりも、野心、虚栄心、名誉心は後ろめたいものとされることはなく、また、奢侈に後ろめたさを感じない人格がより高い社会的価値をもつことになる。

『百科全書』が「奢侈」を啓蒙の徳目の最大級の価値のひとつに高めようとするのは、欲望の解放・情念の解放こそが世界を人間中心の思想へ変革するための最も有効な手段であることを明確に洞察していたためである。「勤勉」や「誠実」「刻苦勉励」という徳目ではなく、「奢侈」が世俗価値の徳目の筆頭に置かれるのは、それが場合によっては個人的な悪徳へ転化される危険性を孕むものであっても、社会集団の共同体的な価値としては、個々人の悪徳をも償って余りあるほどの社会的徳目を有しているからである。また奢侈はそれだけで単独に育成されるべきものではなく、野心や虚栄心や名誉心と結合することでより強大な社会的価値を生み出す方向において解放されるべきであるとされる。

『百科全書』の時代、「文明」と「文化」の概念はまだ概念形成の緒についたばかりで、後代におけるような概念成熟を果たしていないが、『百科全書』の中心思想は、世界は禁欲的な欲望抑圧を脱し、新しい人間中心の価値を構築していくべきであるとする。そして世俗的価値とは「文明」と「文化」の価値軸で整序されるべきであるということである。

奢侈、野心、虚栄心、名誉心の結合が共同体の欲求として容認されることは、社会が最大多数の最大幸福を目標に「文明」の進歩という思考軸にそって社会を宗教価値ではなく、人間価値で再編成し、さらには、社会の進展をつねに先取りしながら社会設計を行っていくことをも意味する。このような思想は、20世紀の用語法を用いれば、「資本主義の精神」あるいは「企業精神と利益欲」というものに置き換えることができる。もちろん前者はウェーバーの用語であり、後者は存バルトの用語であるが、それはともに18世紀に存在しなかった「資本主義」という経済学の用語内に取り込まれた概念となってしまっている。だがこの奢侈の概念、さらにはそれらとの結合において近代の世俗主義の特定の価値概念を形成する、野心、虚栄心、名誉心は、経済学という特定のジャンルの枠内に押し込めてしまうことのできないものである。それらすべての個別的な概念は西欧近代の資本主義思想の構成要件となりうるものではあるが、それを経済学的な述語の枠組みだけにとどめ置くことのできない、より広い近代主義の思想との結合が考慮される必要のある概念である。

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