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2014年10月 9日 (木)

松宮秀治「文明と文化の思想」(3)

第1章 啓蒙主義の歴史哲学

「文明」「文化」とヨーロッパの啓蒙思想が神の世界支配から離脱して、人間による世界支配の新しい価値体系を構築するために価値基準の指標を明確化した観念である。神による世界支配に代わる、人間による世界支配とは、人間が神の被造物とされていた世界観を放棄して、自らが世界の創造者になるための新しい世界観を提示していくことである。別の言い方をすれば、西欧近代が宗教的、禁欲的な世界観から離れ、人間性の解放のための理念的な指標として設定したのが「文明」「文化」という価値観念だった。

人間性の解放とは感性と情念の解放であり、欲望の解放である。キリスト教に限らず、すべての世界宗教は禁欲と情念、感性の抑制と固有のタブーを基礎としている。個別宗教における聖職階層と一般信徒の分離が制度的に定まってくると、禁欲も両者間で差異化されるが、いずれの宗教の禁欲も聖職者の苦行的禁欲の実践内容が制度化されるようになる。聖職者層の苦行的な禁欲は、本能的欲求の否定と現世否定の思想を統合し、心身の欲求を統一的に抑制することで宗教的理想を実現する手段としていくことである。霊と肉を分離させる二元論的な傾向の宗教ほど禁欲的性格が強いのは、聖職者層の禁欲が理念的一般信徒(世俗信徒)の中により多く取り込まれているからである。

背俗信徒が聖職者の禁欲実践を世俗生活のなかで実践することはできない。もしそうすればそれは世俗内禁欲ではなく、すでに世俗外禁欲の領域になっているからである。それが西欧の「宗教改革」の理念であったと考えたのがマックス・ウェーバーのプロテスタンティズムの倫理の分析であった。

ウェーバーはキリスト教の禁欲をヨーガ行法や禅宗教団体的な瞑想主義、神秘主義的な禁欲とは区別して、聖職者の「世俗外禁欲」と一般信徒の「世俗内禁欲」という二つの理念型に分けた。彼によればキリスト教の行動的禁欲は、個人を神の意志を遂行する道具とし、持続的な自己統御と自己審査に基づく計画的禁欲生活の組織化ということになる。楽園追放という人間の本源的堕落の克服として実践される中世の修道的禁欲は「世俗外禁欲」とされ、現世にあって世俗的な職業(召命)によって人間の本源的堕落を制御する方向で組織されたものが「世俗内禁欲」であるとされる。

世俗外禁欲であれ世俗内禁欲であれ、本能の抑制、情念と感性の抑圧を含む禁欲からの解放こそが啓蒙の目標であった。宗教的な禁欲は情念や感性の抑圧にとどまらず、人間性そのものの抑圧であるとするのが啓蒙の根本思想である。それゆえ宗教的な禁欲から人間を解放し、人間性を奪回することが啓蒙の課題となる。人間性の奪回とは、人間を肉体的な存在者としても認めることである。

魂の神への回心、神との霊的な交感という高次の霊的法悦ではなく、より低次の五感の物質的快楽、食欲、性欲、物欲という人間の本性的な欲望をも人間性の基本的な構成要件として認めること、これが啓蒙の宗教的禁欲を否定する中核の思想である。ピーター・ゲイのヨーロッパ啓蒙主義の社会史を論ずる『自由の科学』は、この禁欲主義と宗教的神秘主義からの解放を「神経の回復」と名づけた。

啓蒙主義にとっては生の衰退からの生の欲求への回帰を「神経の回復」とすることで、それを人間生存の目標とすることこそが人間性の回復そのものであった。ということは人間は霊と肉との分離という二元論的な存在者ではなく、両者の結合と均衡を求めて努力する存在者であるということになる。宗教的禁欲の対極にあるものは当然、世俗的欲望であるが、その欲望を組織化し、体系化し、方向性を与えるのが欲望の解放、つまり奢侈である。そのため宗教的禁欲から悪徳の代表格とされていた奢侈を哲学的に再編して、啓蒙の徳目のひとつを昇格させねばならない。ディドロとダランベールの『百科全書』の「奢侈」の項目はその実例を示すものである。

そこでは、「奢侈とは、快適な生活をえるために、富や勤労を使用することである」とのべられているが、それは奢侈が単に禁欲から情念や感性や人間の本源的な欲求を解放するだけのものではなく、社会的に組織されるべきものであることを述べている。つまり奢侈とは一個人の幸福と快楽の増大という心理学的次元の問題にのみとどまるのではなく、社会的な富の形成、労働の組織化、産業の整備、知識と諸技術の発達等と係わりあう社会学的次元の問題だということである。

ここで論をさらに進めるために、少し補足しておかねばならぬことがある。それは『百科全書』の「奢侈」の項目がいう奢侈という語の用語法と啓蒙時代のこの語の一般的用語法のことである。それはこの時代の重商主義の経済学的用法と重なり合うものであるが、それは財産の蕩尽や浪費を意味するものではない。それは特定の個人、王侯とか大貴族とか特定の富豪への富や財宝の集中とその眩惑的、眩示的浪費のことではない。『百科全書』や啓蒙主義者のいう「奢侈」とは、いつの時代においても偽善的なモラリストたちや禁欲主義者の格好の批判の対象とされてきたものであるが、それは「富をえたいという欲望と、その富を享楽したいという欲望は、社会が始まって以来、人間の本性のなかにあるから、また、これらの欲望はすべてのおきな社会を支え、富まし、活気づけるものであるから、また奢侈は一つの善であり、それ自体はなんら悪を為さないものであるから、したがって哲学者や、君主のように、奢侈をそれ自体として攻撃すべきではない」ということになる。

ここまでくると啓蒙主義時代の「奢侈」の概念が一般的な用語法での浪費や蕩尽的消費とは違って、土地中心の農産業から商工業中心の産業革命資本整備の基礎的用件となることが理解される。これは視点を変えればアダム・スミスの『国富論』の産業育成論に繋がる論点をもつものであり、20世紀に至ってのマックス・ウェーバーとヴェルナー・ゾンバルトの資本主義間の起源論争にまで持ち越される論点を含んだものである。

ともあれ啓蒙主義の「奢侈」論は、宗教的禁欲主義の否定に終始するだけではなく、人間の欲望の解放を産業振興理論と結び付けるものだったのである。いうなれば奢侈とは人間の社会的進歩と国富論、人類の最大多数最大幸福という功利主義的な主張が結合する結節点に置かれた概念だったのである。別な言い方をすれば「文明」「文化」の概念は抽象的な理念ではなく、産業、通商、国家富強、国民の幸福度によって測定され、またそれを目標として進展することで国民全体の幸福が促進されるのが「文明」である。そして精神的・内面的幸福を安定させ、それを物質的幸福や人民の都会的洗練、マナーの向上、倫理的完成の方向へ進展させるのが「文化」ということになる。

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