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2014年10月23日 (木)

松宮秀治「文明と文化の思想」(16)

第3章 政治哲学の生成と進歩の思想

「文明」「文化」の概念を考えるとき、その最も根本的なことはそれが、「進歩」の観念と連動したものであることを確認することである。「進歩」とは伝統社会の権力神話と宗教社会の権威神話を理性と自由意志という近代の新しい概念によって脱魔術化し、人間社会は人間の主体的な意志と合理精神によって自らが想定する理想を実現しうるという観念である。進歩とはいうなれば人間の運命と能力に対する絶対的な信頼が生み出した、西欧近代の人間信仰の中心「教義」である。その意味で西欧の「近代」とは、人間の主体的な自由意志と理性の普遍性、平等性という教義に立脚した楽観主義的な理想主義といえる。そしてこの理想主義とは人類の運命と能力に対する無条件の信頼によって、人間の自由と平等と精神的、物質的な充足が達成され、権力や権威による被支配、つまり抑圧と服従、さらには物質的、精神的な貧困と社会的な諸悪から解放される方向へ無限に近づくという信仰を基盤としている。これは伝統社会の権威主義的な価値と宗教社会の神聖価値が人間の運命を没落と衰退と堕落の相のもとで捉え、人間の能力を絶対的な超越者の前では無力な存在とするのと対極に位置するものである。つまり近代とは人間と社会を希望の相において捉えるものであるのに対して、前近代の伝統社会と宗教社会は人間と社会を悪と絶望の相において捉えるものである。

前近代の伝統社会と宗教社会の人類史、世界史が没落史観、衰退史観、堕落史観、つまり価値の基範と頂点は歴史の出発点に置かれ、歴史とは終末に向かっての絶えざる下降とする史観に拠っているのに対して、近代の人類史、世界史は人間が自らつくり出した理想へ向かっての、つまり最大多数の最大幸福と最小不幸と最小悪に向かっての絶えざる進歩の過程とされる。したがって西欧近代の「進歩」とは個々人の幸福の増大や欲望の達成方法の進化ではなく、啓蒙主義の用語でいえば人類全体の、ロマン主義の用語で言えば国家あるいは民族全体の幸福の増大と理想達成が目標となるものである。極めて逆説的だが、終末史観に支配された前近代の歴史記述においては個人の運命と能力が大きな歴史的意味をもたされるのに対して、近代の進歩史観においては個人の運命や才能は個別的なジャンル史の中に閉じ込められ、人類史的な世界史の観点から歴史を眺めるとき、個人の幸、不幸は歴史の意味の考慮の圏外に置かれて、全体の歴史の中に埋没させられてしまう。歴史を「世界精神」の実現過程と見るヘーゲルの歴史観にあって、歴史における個人の運命を問うことは、歴史を「屠殺台の歴史」としてみる見方であり、歴史を感傷において捉える見方ということになる。感傷と感情に捉われた反省によって提示された歴史は、それとは原理的に異なる「自由」の実現としての歴史の本質を歴史の究極目的とみる見方から逸脱させることになるものと考えられたのである。

カント、ヘーゲルの「世界史」に集約的に表現される西欧近代の歴史哲学は、本質的には専門化された歴史科学も同じであるが、歴史認識、考察の最終目標を個人の歴史、運命、能力ではなく、人類全体の歴史、運命に置く。言い換えれば歴史認識の目標も方法も人類の文明と文化の発達の認識にその目標が置かれることになる。それは前近代の歴史が絶対的な超越者の意志を体現させる個人の運命の宿命的限界性の確認の中心的な認識目標としていたことと対照的な関係をなしている。言い換えれば、歴史を個人の運命の中に見るのは、超越者の意志、つまり人間に対する超越者の賞罰と見る歴史認識に由来し、歴史を人類全体の運命として見るのは、歴史を人間の主体的な自由意志の成果と見るのである。前近代の歴史の見方は、個人に対する賞罰という善悪の判断を規準にしたものとなっている。それに対して西欧近代の歴史は超越者の介入を排除して、人間の主体的な自由意志の成果と見るのである。この意味で前近代の歴史が判断の真っ只中に置かれたものであるのに対し、近代の歴史は善悪の彼岸に置かれたものといえる。しかし、このような言い方は正確ではない。もっと正確を期すれば、前近代の歴史は歴史的運命の担い手としての個人が法廷と処刑場に立たされることを主眼とし、近代の歴史は歴史の審判の対象を個人ではなく、人類、国家、民族という集団が移行させることを主眼とするものである。別の言い方をすれば、前近代の歴史において、善はつねに神や超越者という絶対者の属性の流出ということが前提とされているので、歴史の審判の場に立たされるものは悪ということになる。それに対して近代の歴史は善悪は超越者の意志とは無縁なものとされてしまうので、善のみが人間の主体的な意志の選択の成果として人間的価値称揚の規準とされ、悪は相対化される。近代の歴史において善と悪は同一の基準や尺度によって判断されるのではなく、別個の基準や尺度によって判断され、測定されるものとなる。神に代わって人間が神の位置を占めることになった近代にあっては、自由意志が選び取った近代的価値が善として絶対化されるのに対して、悪は相対化され、絶対的な悪は存在しなくなってしまう。

西欧の近代化とは人間を神格化する思想全体のことである。つまり、キリスト教の思想体系とそれによって構築された価値体系に代わる新しい価値体系を創造しえた。その新しい思想体系と価値体系とはキリスト教の絶対的な価値である神に代わって人間を神の締めていた絶対的位置に置くことに成功したためである。人間を神に代わる位置に据えるとは神を相対化するといことである。それは同時にそれらを無力化することでもある。キリスト教の思想体系と価値体系が相対化され無力化されることとは、単にキリスト教の思想体系と価値体系が相対化、無力化されるだけではなく、キリスト教以外の全世界の宗教思想も同時に相対化され、無力化されることである。そしてまたそれと同時に宗教思想やその価値体系と連携してきた権威主義、伝統主義的な政治体制の思想体系と価値体系も相対化され、無力化されるということでもある。新しい思想基盤が創出してくるのは新しい価値体系である。その価値体系はそれまでの神聖価値であった神の価値の絶対性を人間に移行させることである。伝統的な権威社会において絶対的な善を宰領していたのは神であり超越的な絶対者であったが、絶対的な悪、根源的な悪を宰領するのは悪魔であり、悪霊であった。近代思想と近代価値が神と絶対者を相対化するひとは、同時に絶対的な悪や根源的な悪をも相対化することであった。

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