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2014年10月 7日 (火)

松宮秀治「文明と文化の思想」(1)

序章 人間が世界の支配者へ

「文明」「文化」という二つの概念は西欧近代がそのプログラムを始動させるため、はじめは怖々ながら、次第に明確な確信をもって提示した革命的な価値観念であった。「文明」「文化」の両概念が共に革命的であるのは、両概念が人類史上初めて伝統社会のすべての価値体系を見直し、それまで存在していなかった価値体系を創出するために案出された画期的な思想を表明する概念だったからである。

「文明」「文化」の両概念がもつ画期的な思想とは、人間が世界の支配者、主導者、管理者になるべきであるという考え方である。今日のわれわれからすればそのようなことはあまりに当然すぎて、改めて強調されること自体が不思議に思われるが、歴史的に見れば、この考えこそが他のいかなる思想よりも革命的なものであった。なぜなら西欧の「近代」社会以外に、世界が人間によって変革できるとも、また人間によって支配され主導されうるものと考えた時代も民族も存在しなかったからである。西欧近代以前において人間は神の被造物であって、主体的な意志で世界の進行に参与しうる存在ではなく、近代以前の西欧キリスト教時代にあっては人間の自由意志という概念自体が存在しなかった。

したがって「文明」「文化」が、人間の主体的関与によって世界が変革され、支配され、主導されうるという前提で成立しうる概念であるとすれば、それは人間が神に代わって人間が世界の形成主体となるということは、人間が世界の新たな創造者となることである。人間が世界の新たな創造者となるということは、人間が神を殺し、葬送し、鎮魂の儀式を行うことであり、人間が「世界史」の設計者となることで、「普遍史」としての神の世界設計を無化し、人間が主体となる「世界」を新たに設計していくことである。

この意味で「文明」「文化」とは、人間の行動すべてを神の意志とは無縁な、人間の主体的意志の産物とみなそうとする思想のプログラム設定のために案出された概念である。西欧近代以前のどの世界もまたどの時代も、神や超越者という絶対者の意志を超えるいかなる世界を想像することさえできなかった。つまり、そこでは世界の進行、人間の運命はすべて神の御心や天命といった超越者の意志のなかで決定され、予定されたものとして、人間の主体的意志とは無関係なものとされていた。

「歴史」は神の摂理、恩寵の中で予定調和的に決定された時間の進行のことであって、人間の主体的意志が関与する余地のないものであった。「歴史」が人間の主体的意志の産物とされるためには、神や超越者という絶対者の関与を排除する機能を始動させうる「文明」「文化」という概念の創出が必要であった。

「文明」は進歩の観念と結合して人間が生み出す技術的、科学的成果という方向をとりながら、人間社会の物質的豊かさを促進させる価値の総称として伝統社会の宗教的価値に代わる価値観念体系となっていく。それに対して「文化」は人間の精神的、内面的な成果とより多く結びつく方向で、人間の道徳的向上、人間性の増進、情緒的豊かさ、知的向上、教養の拡大を目指す人間的活動の成果全体を意味する概念となっていく。

だが「文明」と「文化」は辞書的な説明のように、前者は外面的な技術や科学的な成果、後者は内面的な精神的、人間的な成果と截然と区分してしまうべきではなく、むしろ両者を相互補完的で、意味の互換性をもつ概念と捉えるのがより適切である。今日の一般的な語の用法では、「文明」は進歩主義の観念とされ、「文化」は保守主義的で、歴史主義的な観念とされ、その概念区分もかなり明確になってきているように思われるが、往々にしてそう考えられているような対立概念ではなく、その歴史的な用法から身ともそれは相互補完的な概念であると同時に、つい近年までは意味が複合し、用語上でも意味の互換可能性をもつもので、明確な概念区分が困難な語であった。

18世紀にはほぼ同義語で、また相互補完的で、意味の互換性をもっていた「文明」と「文化」が、19世紀末から20世紀初頭、それまでのイギリス、フランスの「文明」の成果が圧倒的に優勢の中で、「文明」概念が「文化」概念を吞み込んで、文化価値が文明価値に圧倒されると、文明が両概念の代表概念の役割を果たしてくる。我々にとって最もわかりやすい例をあげれば、日本の近代化は「文明開化」の標語のもとに、福沢諭吉によって代表される「文明」概念が、「文化」概念を内包させ、大正教養主義の出現まで「文化」概念を育成させることがなかったことに相当する。20世紀に入ってドイツの「文化」概念の拡大にともなって、「文明」と「文化」は並立概念となりながら、両者は概念混合を加速させ、ほぼ同一概念と意味の互換可能性を強めていった。

しかし、20世紀の科学技術文明の批判拡大に伴って、「文明」がその進歩主義的な側面への信頼を失うことで、保守主義的で、歴史主義的な「文化」の内面的・精神的な側面との対立が顕在化してくるようになる。それによって両概念は概念分化がはじまるが、その概念分化は必ずしも概念対立に至るものではない。

「文明」と「文化」はそもそも対立概念なのか、それとも同一の意味が別の言葉で現わされた同義概念なのか、あるいはきわめて近似した概念であり、対立というよりは相互補完概念なのかというのが出発点にあった問題である。本書は「文明」と「文化」をあまりにも対立概念としてしまう考え方が、両概念のもつ歴史的な意義と価値を見誤せるものであるという考え方から、とりあえずノルベルト・エリアスのような「文明」と「文化」の根本的対立、さらには進んで「文明」が先進国民(民族)の自意識の表明であり、「文化」は後進国民(民族)の対抗意識つまり物質的、技術的には差をつけられているが精神や道徳価値においては優先しているという自意識の表明であるという考え方をひとまず背景に後退させることから再出発を目指すものである。

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