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2014年10月29日 (水)

松宮秀治「文明と文化の思想」(22)

第4章 「世界史」の思想と世界蒐集の思想

今日では進歩、文明、文化はほぼ一般的な名辞と化してしまい、価値概念の名残を保持しているといえども、それはごく相対的な価値を表わす名辞にすぎなくなっている。それは西欧近代が自己の価値の絶対性の主張を自明とする方向を維持しえなくなった第二次世界大戦期に至って、はじめて生じた概念転換の結果である。だがこの進歩、文明、文化の概念は西欧近代が本質的には呪術的な神学的世界観と反進歩主義的の権威主義的な伝統社会の思想に対する新しい人間中心主義の価値世界を創出しようとする、新しい理念の提示として、絶対的な価値を要求する闘争性を顕にする名辞だったのである。つまりそれは今日の用語の中に置かれているような相対的な価値の指示詞ではなく、自己の絶対性、優位性を確立していくための闘争性を剥き出しにした名辞であり、過去の世界を覆っていた価値体系に代わる新しい価値体系の創出を宣言する革命的な名辞であり、世界変革の要求を顕にした名辞だったのである。

言い換えれば、進歩、文明、文化は今日的な用語法がそうであるような、平和的で友好的なものでもなく、また「異文化」の価値を容認するような寛容精神に溢れたものでもなかった。むしろそれはまったく逆に、自己の「進歩」「文明」「文化」を基準に、世界の他文明、他文化を未開、野蛮、粗野な非文明社会に位置づけ、非西欧社会の思惟体系全体を非合理的で呪術的な思考段階に停滞している世界とみなし、西欧の「文明」「文化」の教導なしには救済の可能性のない世界と断ずる驕慢さそのものに転ずる方向性を同時に併せ持つ語となっていったのである。

西欧の近代価値の集約点に位置する「文明」「文化」の概念は「進歩」の概念を指導軸としなかせら、様々な「進歩」の公準と価値基準を設定しながら歴史世界と人類社会を整除し直そうとする。宗教社会や伝統社会が人間の個人的な運命に至るまでの全世界を支配する神意や天命、摂理という支配、監視システム理論を整備していたように、西欧近代の「進歩」の観念も全世界をその「規準」に則って再整除死、新秩序のもとで新しい世界像を完成させようとする。ヘーゲルの場合、世界史の「進歩」の規準は「自由の意識の前進」が選ばれる。彼は『歴史哲学講義』において、「世界史とは自由の意識が前進していく過程であり、わたしたちはその過程の必然性を認識しなければなりません」と宣言する。

ヘーゲルが歴史の進歩の規準を富や幸福の増大、技術の進歩に求めずに、自由の意識の前進に置くのは、物質的進歩はそのときどきの状況に左右される本質的なものではない進歩であって、精神的進歩こそが実体的で本質的な進歩であるという思想に基づくのである。ヘーゲルが、精神の自由の意識とその実現に「進歩」の規準を置いたのは、その進歩こそが、「理性」の本質的な自己覚醒と本源的な実現を意味するものと考えたからである。ヘーゲルは「自由の意識の前進」と「世界史の進歩」と「理性の実現」の関係を次のように説明する。「理性そのものがなんであるか、という問いは。理性が世界と関係づけられている限りで、世界の究極目標は何か、という問いにつながります。究極自体は、いうまでもなく、実現されるべきものと考えられています。」これはヘーゲルの世界史哲学の中心的なテーゼである。「理性の現実における精神の完全なる実現形態」としての国家」が導き出されてくる最終目標となるものである。彼にとって「世界史」とは諸民族、諸集団、諸国家の加算的な総和を意味するものではない。それは「自由を実現した」西欧近代国家を基軸として整除された「理性的なものの現実化」としての国家の名に値する国家の謂いである。

ヘーゲルの国家観、つまり「国家こそが、絶対の究極目標たる自由を実現した自主独立の存在であり、人間のもつすべての価値と精神の現実性は、国家を通してしか与えられない」とする国家思想は、のち様々の批判と反撥にさらされることになる。このヘーゲルの考えは国家(全体)は個人(部分)を越えた全体的存在として権利を行使しうる存在であるという考えになる。ヘーゲルの国家思想はあらゆる面から考えて、ヨーロッパの近代が求めてきた自由思想に対する反動的な側面を顕在化させたものであり、それはナショナリズムや保守主義やロマン主義と通底するものである。

だがここで問題にしたいのは、ヘーゲルが「進歩」の歴史と捉える「世界史」の構造とそこから導き出される西欧中心主義と西欧優越思想であり、またそれと西欧近代の進歩思想全体とのかかわりである。このことを確認するために彼の「世界史」という観念が導き出されてくる彼の「歴史哲学」という概念の立脚点に立ち戻ってみる必要がある。彼は「歴史」を捉える方法には三つの方向があるという、それは(a)事実そのままの歴史、(b)反省を加えた歴史、(c)哲学的な歴史の三つの捉え方であるという。まず、(a)の事実そのままの歴史とはヘロドトスやツキディデスに代表される歴史記述で、記述された歴史が現実生活の規範や尺度として人々の行動様式の原則を提示するものとなる。(b)の反省を加えた歴史、ヘーゲルはそれをさらに三区分して、①「一民族ないし一国土ないし世界の全体を概観する歴史で、要するに通史と呼ばれるもの」、②「実用的な歴史といわれるものです。過去の遠い世界とかかわるとき、精神は、自分の努力に対する報酬として、精神の活動のなか現在にも通用する何ものかを引き出してきます」、いうなれば現在との関連において過去を捉えようとするもの。③は個別部門の歴史で、芸術史や法制史、宗教史などであるが、それは事実の歴史や通史とは異なって、個別領域という概念化された理念の歴史とかかわる。(c)の哲学的な歴史とは「歴史哲学」のことである。

ヘーゲルにとって「歴史」とは究極的には「理性」の実現過程である。そして理性の実現過程とは人間精神が自らに課する「理念」の覚醒とその理念実現への努力の全過程の認識活動の総体である。したがって彼が歴史における理性の意味を最終的には、「現実における精神の完全なる実現形態としての国家」に求めるのは、歴史を過去に起こった事実の記述とも考えず、また彼が「反省を加えた歴史」という専門的な歴史研究を真の歴史認識とは考えず、理性によって理念化された精神の現実化の過程と考えていたためである。言い換えればヘーゲルにとって「歴史」とは過去の事実でもなく、またその忠実な記述でもない。さらに歴史科学が求める公平、公正な過去の事例の探求でもない。彼にとって歴史とは、人間の最高の理念としての「国家」の歴史の中に求められるべきものである。なぜならそれは個人の意志と集団の意志、つまり個人の主観的精神と共同体の普遍的な公共の精神が統一される人間理性の最高の達成形態、制度だからである。つまり歴史とは彼にとって過去の出来事の記憶手段ではなく、人間の過去の努力が未来の理念達成に繋がっていくプロセスの総体を意味する。

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