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2014年11月

2014年11月30日 (日)

菱田春草展(8)~第4章 「落葉」、「黒き猫」へ:遠近を描く、描かない

Hishidafallsiga菱田は病に仆れ、療養生活を余儀なくされます。その後、病に小康を得たことから制作を再開します。その際に、菱田は色彩研究に替わる新たな課題として距離を掲げ、自宅周辺に広がる雑木林をモチーフに追求し始めたといいます。展示の説明では、菱田自身の言葉が引用されていました。“それにつけても速やかに改善すべきは従来ゴッチャにされて居た距離ということで、これは日本画も洋画も同様大いに考えねばなるまい。自分もこれまで始終このことは注意していたつもりだが、この大切な法則がややもすると絵の面白味ということと矛盾衝突するところから、ついそれの犠牲となってしまう「落葉」にもそうした場面が多かった、決して頭からこの法則を無視したわけではなかったのであるが”(引用は不正確)この引用に対して、菱田は“距離”と“絵の面白味”を相反する要素としてとらえていたと解説されていました。菱田の言う“距離”とは奥行きのことであり、絵の面白味”とは平面性とか装飾性を指すと言われているようです。それは“距離とはすなわち写実のことであり、春草は、画面の中の距離感が却って絵の面白味を損ねることがあると考え、画趣(面白味)を出すために距離感つまり、奥行きを犠牲にした。「落葉」は、遠近法的な写実空間を描くことを超克しようとして誕生した、装飾的絵画空間への知的挑戦であった。”という考え方や“距離の法則という空間の奥行きを表わすことと、絵の面白味という絵画としての構成や装飾的な効果ということの間の矛盾をいかに調和させるかということが、「落葉」の連作において大きな課題として追究されていった”という解釈があるといいます。つまりは、奥行きを感じさせる立体感と平面的な装飾性という、ふたつの相反する方向の板ばさみにあって、いろいろ試してみたということでしょうか。このような議論があるということを踏まえながら、作品を見て行きたいと思います。

Hishidakodati_2菱田は「落葉」という共通のタイトルで、数点の作品を連作のように制作しました。今回の展示では、それらを一堂に集め、まとめて見ることができました。その中で、まず連作の最初に描かれたと考えられている「滋賀本」(左図)と呼ばれる作品から見て行きましょう。この滋賀本は他の一連の作品と比べると印象がまったく違ってきます。それは「落葉」というタイトルでありながら落ち葉が描かれていないことが上げられます。「落葉」というタイトルからは、連作の他の作品がそうであるからと言うことでもないでしょうが、秋の紅葉で葉が落ちるということをまずは想像します。したがって、紅葉するような広葉樹を中心とした雑木林で、葉が落ちてしまっているが故に、遮るものがなく秋の陽が差し込んでくる明るい森の姿です。しかし、ここで描かれているのは杉という紅葉しない針葉樹の林です。短絡的かもしれませんが、私には、このことから菱田は落葉というタイトルは後でつけたもので、もともと落葉とか紅葉を題材として描こうとしていたのではないと想像するのです。では何を描こうとしたのか。それは、この作品で描かれているものを見れば一目瞭然で、木立、あるいは林だったと思います。敷衍していえば、木々が生える林が広がっているさま、です。これは、私の勝手な妄想ですが、菱田の描く作品は風景が多く、伝統的な日本画にあるような花鳥画というような花や鳥だけをピックアップして描いた作品は少ないのです。あったとしても、風景の中においた姿を描いているとか、その中でも風景画広がっているのと対照的に鳥が描かれていることで、逆に風景の広がりが印象深くなるとか、風景の中で鳥や動物がアクセントとなっているのです。また、菱田(と言うよりは日本画)の人物画がことごとく精彩が感じられないのは、人間が一つのまとまりとして有限の完結してしまったものだからではないか、と思われます。その代わりに「水鏡」のように現在の姿と後世の朽ち果てた姿を両方表わそうとした時間的な広がりを含ませた場合に作品は生き生きとしたものに変貌していました。このことから、菱田の作品には時間的であれ空間的であれ、ずっと広がっていくものに対する志向が底流にあったのではないか、と私には思われるのです。そして、眼病を患った闘病生活のなかで、視力が失われていくという画家として生きていけなくなるということを迫られ、残された時間が僅かしかない中で自分の画家としてのアイデンティティを考えたときに、広がりを描くという志向性を自覚したのではないか。そして、それを自分なりに作品に定着させるために選んだのが山水の風景でもなく、川や海でもなく、木々の生える林という題材だった。それは、「朦朧体」に代表されるような面として空間を捉えることや、空気や光を描くという西洋画的な方法論に頼ることなく、線描による日本画の伝統の体系の中で、日本画的に表現するという姿勢でいけば、林のなかの樹木その他のパーツの配置や描き方で、ということを選択することに行き着いたのではないか、と私は想像します。それは、先立つように制作された「秋木立」(右図)という作品が、この作品と同じように杉林を題材としながらも、こちらは杉林の一部の光景を切り取ったにとどまり、この作品のような広がりを感じさせない違いに見ることができると思います。「秋木立」で杉の生える地面が奥へ向かってせり上がっていくように描かれているのは、画面の上方を遠方とする伝統的な日本画のおやくそくの構図を利用としたためと説明されています。さらに奥に向かって徐々に色調を暗くしています。しかし、広がりという点でみれば、「秋木立」の描き方では斜面に見えて、その斜面の地面が観る者の視野を遮ってしまうため、木々の間に広がる空間がなくなってしまい、閉じた印象になってしまいます。これに対して、「落葉」では「秋木立」の斜面という立地を平地に変えようとします。そのために奥の方の木の根元の位置を画面の下にずらし、背後になにもないスペースが生まれました。そこに広がりが生まれる余地が生まれたと思います。しかし、今度は逆に「秋木立」に感じられた奥行感が薄くなって、平面的な印象が強くなってしまいました。

2014年11月29日 (土)

菱田春草展(7)~第3章 色彩研究へ:配色を組み立てる(2)

Hishidakubi_2私は、どうしても近代以降の日本画の人物表現には物足りなさを感じてしまうのです。菱田の場合も例外ではありません。そもそも人の外形を描けていないし、人が物と同質のものとして描かれて、そこに例えば、表情とか個性とか人に特有の、これは西洋的な近代主義的な人格の考え方がベースになっているからでしょうか、そういう人格が描かれていないことに、物足りなさを禁じえないのです。菱田の場合もそうです。例えば、「賢首菩薩」という作品。西洋の油絵の量感を求めているわけではないのですが、人物としての存在感がないとうのでしょうか。3人の人物の顔かたちは、とりあえず描き分けられているのは分かるのですが、それは夫々の人物存在を表わしているというよりは、装飾的な要素として、つまり、顔の表情も一種の装身具のようなステイタスにあるようなのです。3人の顔かたち描き分けられているのですが、3人の瞳は同じなのです。まるで少女マンガの少年キャラクターで使われるようなパーツを使いまわしているように見えます。人の表情のキーとなる瞳が、このように一様なので、それをとりまく顔かたちをどんなに区別させても、たんなる区別にしかなっていないのです。この作品は、展示の説明によれば、帰国後の菱田の色彩研究がもっとも先鋭的に表われた作品であるということです。そのような色彩研究の成果という点から、この作品の特徴を見ると、従来の日本画にはない“鮮やかな色彩を、筆触を強調しつつ僧の衣装や掛布に色とりどりに散りばめたところにある。賢首国師(上中央の椅子に座った人物)の袈裟には、刺子の模様に青色と橙色による補色対比も組み入れられる。この刺子の模様はきわめて細かい点を連ねることで描かれており、近づいて見れば補色の関係から鮮やかに見え、離れると視覚混合が生じてまわりの暖色系の色面となじんで見えるという特徴がある。他の色面に模様を細かく描きいれたのも、同様の効果を狙ってのことであろう。”という説明からは、菱田の妥協の姿勢を感じ取ることができると思います。これは、私の偏見によることなのでしょうから、意見が分かれる人も多いと思います。それは、菱田らが、そもそも岡倉天心に引っ張られるように新しい日本画を創作しようとしたのは、西洋絵画のインパクトに対抗するため、いわば当時の日本という国家が西洋列強から自国の独立を守るために、その西洋の先進的な技術を軍事や経済で導入していったのをなぞるように、線描中心の日本画に西洋絵画的な立体を二次元に移植するだの面として物を描くだのといった絵画の構成まで踏み込んで、いわば根底から見直そうとしていったのだと思います。その端的な表れが「朦朧体」という描き方、というより画面の見方なのではないでしょうか。しかし、国家的なプロジェクトである文明開化は西洋の技術や学問が体系化されていたことを考慮せずに、末端の技術をつまみ食いするかのような導入を、いわば促成栽培のようにやろうとしました。「和魂洋才」という言葉に表われていたように。その矛盾を突いたのが夏目漱石の一連の小説で、その板ばさみにあう若いエリート知識人たちを描写してみせました。このときの菱田も同じような板ばさみに遭っていたのではないか。海外に渡り、西洋絵画を現地で目の当たりにして、その拠って立つ基盤に触れ、西洋絵画の思想的な体系の中に様々な技法が位置づけられているのに気付かされた。そこで、つまみ食いするように技法を盗んでいくことの意味と、西洋絵画とは別の日本画の思想とその体系に目を向けざるを得なくなったのではないか。よく海外に出て、はじめて日本に目が向くといいますが、そこで日本画に対峙することを迫られて、「朦朧体」のような西洋絵画的な思想を日本画の体系に持ち込むことに葛藤を覚えたのではないか。それを突き詰めて生まれてくる絵画が果たして日本画といえるのか、そんなことを菱田が考えたかどうか分かりませんが、ただ、それまで過激に伝統的な日本画に対抗するような姿勢であったのが、ここにおいて明らかに伝統的な日本画の枠の中で、小手先の西洋技法の導入によって新奇な味を出していくという方向に転換しているように、私には見えてなりません。それが違った意味で表われているのが「林和靖」(左図)という作品だと思います。

Hishidarin_2中国の宋の時代の詩人、林和靖は景勝地であった西湖のほとりで梅を愛で鶴を飼って暮らしたということで、この作品以外にも、菱田は題材として取り上げているようです(右図)。この作品での林和靖は、画面左端の鶴の方を向いているため、作品を観る側には半身に近く背中を向けた状態になっています。しかも画面の中では左端の鶴と対照するように右下に位置させられています。この作品での画面の中心からは外されているということです。ここでの林和靖の存在は画面の中での構成要素の一つ、ワンオブゼムに過ぎなくなっています。菱田は、風景画のなかに動物や鳥を手前に配して、風景の広がりと対照させて、風景の広大さを表現することを屡々やっていますが、この作品では、それが動物や鳥ではなくて人間に替わったにすぎないという位置づけです。とくに林和靖は半身で見る側からは後ろ姿になっているので、まるで、観る者と画面の中の風景を仲介するような位置になっています。菱田は鹿を配した風景を何作が描いていますが、その際の鹿のポーズが尻をこちらに向けていることが多いのです。何を言いたいのかというと、人間も鹿も同じような位置づけになっているのです。そして、この作品での林和靖は、他の菱田の人物画にあるよりはずっとリアルというのか西洋絵画的な人間の外観になっているように見えます。これは、林和靖という人物ではなくて、人間の男性の姿を中国の衣服を着せて描いたという感じです。この作品では、その林和靖いる手前と、その林和靖が眺めている鶴の飛んでいる中景と、その間に空白のような空間をおいて薄くぼんやりと影を描いている岩山の後景とに、大きく三つの場面に分けて、奥行きと湖の広がりを見ることができると思います。あえて言えば、その静かな風景と、その一部になっているような林和靖という人物の存在の穏やかさを、人物そのものというのではなくて、林和靖が居る風景全体として感じさせるものとなっている。つまり、人間が画然と自然とか環境とかと境界分けされているのではない、西洋のキリスト教でいうような人間が精神を持っているが故に自然とは区別されるべき特別の存在である、それ故に精神を有する自我として、その格を描かなければならないというようにことからは、解放されているのです。そんな精神などなくても、周囲の環境のなかに在って、それらをひっくるめて、ある種の存在として提示されてしまう。人をその周囲とパッケージとして提示しているということです。それゆえに、これを人に限定させることもなく、猫でも可能になるということになります。この方向は、極めて限定されたものとならざるを得ず、日本が新たな展開にはなりえないものでしょうが、菱田という画家個人の個性としてなら十分に見合うものだと思います。この後、菱田は若くして亡くなりますが、もしかして、彼が長生きして、この方向をもっと突き詰めて行って、さらに展開させていけば、新しい考え方の日本画の体系が作られたかもしれません。この後、菱田は療養生活に入り、早すぎた晩年にはいり、これまでの試行を整理してまとめる方向に換わってしまい、新たな展開をしなくなってしまいます。Hishidarin2


2014年11月27日 (木)

菱田春草展(6)~第3章 色彩研究へ:配色を組み立てる(1)

菱田は横山大観らと1903年から数年間、インドや欧米に外遊に行ったそうです。そこでの経験を契機に色彩研究に向かっていくといように解説されていました。そのことについて、作品を見ていく前に少し考えてみたいと思います。それまでの日本の画家は海外に出かけるということを考えていなかったと思います。鎖国の世の中でしたから、当たり前のことで、伝統的な絵画は中国絵画や長崎から漏れ伝わってくる洋画を大名のような上流階級の一部の好事家が珍重していた程度だったのではないかと思います。だから、画家たちは海外ということが視野の中にはなかったこと思います。それが、明治維新になって、逆に文明開化になってしまった。そこで、西洋の文物が堰を切ったように一気に入り込んでくる。その中には西洋絵画もあったのだろうと思います。そのなかで、絵画に関して危機感を強く抱いた一部の人々がいた。何か、幕末期の志士たちに重なって見えるところがあります。その志士たちの中でも、高杉晋作といった人々は、日本を西洋の列強から守るためには、先進国であるこれらの国の軍事や技術を積極的に学ぶ必要があると考え、自らも海外に行くことを望んだ。菱田の海外への遊学は、その志士たちから30年経って、絵画の分野で同じようにことをしていたように、門外漢の私からは見えます。実際のところは、日本にいて日本美術院の運動が周囲との対立やら経済状況やらで袋小路にはまり込んで、海外に逃げるように出かけたというところではないか、と想像しています。

Hishidaeveningそれはまた、明治維新が西洋列強に追いつけ追い越せを合言葉に富国強兵に努めた挙句が太平洋戦争だったように、一種の自己否定から始まるということは危うさを秘めていたのではないかと思います。菱田の作品を、これまで見てきた印象も、こういうものを、このように描きたいというといろからスタートしたのではなくて、お手本にしていたようなものではダメと否定するところから、これではないものという追求の仕方をしているように見えました。その際に、伝統的な日本の絵画ではない、西洋の絵画というのは「隣の芝生は良く見える」ようなものとして、一種のエキゾティックな魅力あるものに映った。伝統的な絵画に対して危機感を抱かせるものでありながら、それだけにです。しかし、西洋絵画は確固としで表現や技法が体系付けられシステム化されているので、その一部をいいとこ取りしようとすると、結局は逆に堅固な体系に組み込まれて、「ミイラ取りがミイラになってしまう」それだってあると思います。そのような危うい綱渡りのなかで、一つの試みとしてあったのが「朦朧体」ではなかったか。それは、日本画の「描く」という発想から「塗る」という発想のへの転換を内に含むものであった。「描く」のが線であれば、「塗る」のは色ということになるでしょう。このときの色は、「描く」という日本画で使われていた色とは、意味合いが異なってくるはずです。それは「描く」日本画では、線が中心となって構成されて、色はそれに付随した位置づけとなりますが、「塗る」という場合には、色が中心となって画面が作られることになってくるわけです。それだけ色が前面にでてくることになるので、色そのものが、これまでとは違ったものが求められてくる。いうなれば、色彩研究ということは「朦朧体」を試みたことから、ある意味必然的に導かれたことではないかと思います。それを、海外に出かけて、西洋絵画の色を、日本の気候風土と違う異質の光線のもとで実感してきたことも大きく原因しているとおもいます。

Hishidaevening2「夕の森」という作品があります。実は同じタイトル、同じ題材の作品が2作品あって、その両方が展示されていました。ひとつは1904年という外遊中に制作されたもの(左上図)で、もうひとつは1906年という帰国して色彩研究の中で制作されたもの(左中図)です。この2作品を比べながら見ていくと、菱田の色彩研究ということの一端が分かるのではないかと思います。まず、1904年の作品は、色彩が抑制されて水墨画のようです。これは外遊という長期間出かけるさいに絵の具や道具を持ち歩くには制限があったため、また、外遊先で盛んに作品制作をしたために、ふんだんに絵の具を使うことができなかったためもあったでしょう。水墨画のように濃淡の陰影を朦朧体の手法で、夕日にぼんやりとかすむ森林を背景に、鳥の群れ飛ぶさまを墨で一羽一羽をくっきりと強調するように描き、対照を際立たせています。ここでは、色彩よりも濃淡が重視されています。これに対して、1906年の作品は、全体が茶色の色調になって、薄暗くなってくる中で夕日の光線と、その夕日を浴びて映える木々を色で表わしています。その木々の一本一本が場所により夕日の当たり方が異なってくるのをそれぞれに茶色のグラデーションで描き分け、しかも影となる部分には鮮やかな青色が用いられています。この青色は写実的なものというよりは、基調となっている茶色との対照効果をうまく生じさせるために意図的に使われたものであると思います。茶と青は暖色と寒色の補色関係の一つであることを利用したものでしょう。これによって、影が黒一色で1904年の作品のように暈しの効果で融けるように全体が盆焼くとしてしまうのではなくて、影がひとつの輪郭を作っていて、森の木々が影の青によって一本一本が独立して立っていて、その一本一本が折り重なるようにして、森の置くに続いている重層的な森の風景が表現されていると思います。そこに、森の奥の厚みとか奥行きを想像させるものとなっています。また、それぞれの木についても、そのなかで陰影をつけられているので、それぞれの木の厚みも表現されていて、その折り重なる森の厚みが二重、三重に想像できるようです。さらに、小さくはありますが、くっきりと鳥の姿がえがかれたことで、そのくっきりとした姿が前景のように感じられて、森の厚みを一層のものとしています。この、1906年の作品は、朦朧体の手法というよりは面で表現することと、色彩の試用によって、空気遠近法のような効果をだして、夕日の光線と、それに映える森の広がりを凝縮して表現しているように思います。

Hishidaspring「春丘」(左下図)という作品。“黄緑色の野に咲くピンク色の花に、白雲を浮かべた水色の空。鮮明な色彩が印象的な作品である。加えて、花の部分には、油彩の点描のように筆触を残して絵の具を重ねている。黄緑色と補色の関係にあるピンク色を厚く重ねることで、鮮度を引き出す試みであろう。緑色の丘にピンク色と橙色の花を配した「躑躅」(右図)も、同じ関心をもって制作されたといえる。”と解説されています。この「春丘」にしても「躑躅」にしても、「夕の森」にしても、菱田が色彩の実験を重ね、その効果で表われてくる新たな表現の可能性に、喜々として勤しんでいる様が見て取れると思います。たとえば、日本画の余白を生かすという一般的に言われていることも、これらの作品では、余白という捉え方ではなく、背景として中心となっている花や木の色彩と補色をはじめとしたなんらかの関係をもった色彩が塗られていて、何らかの意味を持たされることになり、もはや何もない部分としての余白ではなくなっています。このようなことがあって、日本の絵画というものの枠を越えてしまうというように当時の人々にはみなされたとしても不思議ではないと思います。私が、後世の今から見れば、後出しじゃんけんのような卑怯な見方かもしれませんが、菱田の挑戦は意欲あるものと思いますが、ここで生み出された作品と、西洋絵画に属する水彩の風景画に限りなく近づいている、というよりも、これなら水彩画でもいいのではないかと思わせるものになってしまっていると思います。

Hishidatutuji_2


2014年11月26日 (水)

菱田春草展(5)~第2章 「朦朧体」へ:空気や光線を描く(3)

Hishidaousyoukun「王昭君」という作品は、重要文化財に指定された代表作だそうです。中国前漢の時代に匈奴の王に後宮から女性を差し出すことになり、最も醜い女性を肖像画により選別することなり、その結果選ばれたのは絵師に賄賂を贈らなかった美しい王昭君だった。この作品は、その高潔な王昭君が匈奴の王に嫁す、別れの場面を描いたものだそうです。左に少しはなれて立つのが王昭君だそうです。“20人を超える女性たちに色とりどりの衣装をまとわせ、華やかな画面を作り出している。ハイライトをほどこして量感を表現するが、巧みな暈しが滑らかな質感を生み出し、独特の夢想的な雰囲気を醸していることは見逃せない。女性たちの肌も薄い磁器を思わせるほどに精緻だ。いわゆる「朦朧体」の試みがもたらした実りのひとつである。”と解説されていました。しかし、私には、そのようなこの作品への評価にもかかわらず、この作品の面白さが分かりませんでした。それは、解説にあるような効果はたしかに否定できません。しかし、何のための効果かというのが分からなくて、つまり、空っぽなのです。どういうことかと言うと、平板でのっぺらぼうなのです。この作品の主役は高潔な悲劇のヒロイン王昭君であるのでしょうが、その女性が主役になっていなくて、20人を超えるその他大勢の女性と横に並んでいるだけなのです。王昭君とその他の女性を描いたのではなくて、美女競演で多数並べてみましたというとか見えないのです。それは、人物が厚みをもった人間として描かれていない。もっと言えば、人間が主体的に描かれていないということです。だから、このような場面であれば、送り出されるヒロインである王昭君だけでなく、送り出す側の様々な思いがそれぞれの表情や態度にでて重層的なドラマを作り出して、そこに画面の厚みを自然と作り出すことが期待できてもいいはずなのです。そうであれば、画面構成はもっと奥行きのあるものになったと思います。そもそも、「朦朧体」は“リアル”で立体的な画面を日本画のなかに作り出そうする手法として試行されたものだったのではないか。それが、平板な画面で細部の質感を効果的に見せるための装飾となって、ハマるものとなってしまっている、と私には見えます。それは「朦朧体」という手法を換骨奪胎して、一つのテクニックとして伝統的な日本画に取り込ませてしまうことに他なりません。それは妥協、もっといえば退行ということになりかねません。ここでの菱田は、私には夏目漱石の小説「こころ」で逃げるように自殺してしまう先生の姿に重なって見えてしまったのです。

これは、菱田個人だけに原因があるというよりも、当時の日本の社会の在り方とかそういうもの、とくに日本画に限って言えば、岡倉天心らが中心となって始まった「日本画」という運動が、西洋からの文明開化のインパクトを受けて、日本の絵画に対する危機感が動機になっていることがあったのではなかったのか、と思います。当時としては、しようがないことで、百年以上経た時限の異なるところで、私のような無責任な人間が見下すような言い方をしているようですが、この運動をみると、迫り来る西洋の文明開化に対抗して、西洋文明でない日本のものを守る、そのためには従来の伝統的な日本画ではだめで、そうでない新しい伝統を作っていかねばならない。というような否定からスタートしていて、こういうものをやりたいという理念がなかった。その結果、ああでもない、こうでもない、というように選択肢をどんどん狭めてしまって袋小路に陥った。その一方で、こちらから否定するということは、否定されたほうからは否定され返されるということで孤立していくことになっていった。さらに、否定の方向は最終的に自らに返ってくることもなるわけで、自らの土壌にたいする懐疑というのか、自分たちのやろうとしていたことに対する根本的な懐疑となって返ってくるはずです。そういう葛藤が菱田にあったかどうかは分かりません。もし、それがあったすれば、自分の描こうとしているのは日本画であり、その日本画とは果たして何であるのかという問いかけがあったと思います。菱田自身、伝統的な日本の絵画には飽き足らないという思いはあったと思いますが、それは日本の絵画としてであって、日本の絵画そのものを否定する気持ちはさらさらなかったと思います。種々の原因で周囲から追い込まれるような状況に陥った中で、自分たちのやっていることが日本画であるとしたら、日本画とは一体何かという問いかけがあったとして、その中で自分の足元を見直す作業があったとして、その中で、退行的に見えるかもしれないが、原点をもう一度ということで、恥も外聞も考えず制作したのが「王昭君」であった。だからといって、さまざまな試みをしてきた菱田には、伝統そのものの日本画を描くことはできなかった。そういう作品として「王昭君」という作品を見ることができるのではないか、と私は思います。これは、私が独断と偏見で勝手に見た感想です。資料や事実の根拠は全くありません。

Hishidalady_3人物画としては、「霊昭女(端妍)」という作品。中国、唐の時代に隠者の娘であった霊昭女は、自らも禅を修め、竹籠を編んで売り、父母に孝養を尽くしたとされ、古くより禅宗の画題として用いられ、図像としては少女が竹籠を下げた礼拝像風に描かれることが多いものだそうです。ここでは、背景を一切省き、霊昭女のみを対象とした画面構成とされており、崇高な印象を感じさせ、画風は没線主彩によるものであるが、霞をもちいて空間を造成してゆく方向ではなく、澄んだ色彩を用いた主彩画的なものとなっていると解説されていました。背景と人物との関係とか、暈しを多用してところとか「王昭君」と似ているところが多い作品です。ただ、こちらの「霊昭女(端妍)」の人物は比較的外形の輪郭をはっきりさせている分だけ、はっきりとした感じで、暈しによっつ付けられた陰影が人物に立体感を感じさせるようになっている、これはあくまで「王昭君」との比較による相対的なものですけれど。表情は、前回見た「水鏡」に比べて、むしろ無表情になった印象です。この作品に表情を読み取れない私のセンスが鈍いのかもしれません。菱田に限らず、近代以降の日本画は人物表現が一種の癌のように大きなネックとなっていて、西洋絵画に対抗するにしても人格をもった自律した個人として存在感をもった人物というのはうまく描けていない、少なくとも私は成功作というのを見たことがありません。菱田の場合も、決して成功したとは言える作品がありません。人物を描いても、風景の一部のパーツとして扱うというのが、菱田の場合は妥協的な解決策だったのではないかと思います。そうであるにしても、愚直なまでに挑戦していく姿勢には、頭の下がる思いがします。

2014年11月25日 (火)

菱田春草展(4)~第2章 「朦朧体」へ:空気や光線を描く(2)

Hishidaautamn「秋景」(上図)という作品は翌年に描かれたものらしく、画面の上半分は“朦朧”としています。この少し前に制作された橋本雅邦の「白雲紅樹」(右下図)とモチーフや構図がよく似ているので、菱田の「秋景」の“朦朧”としているところがよく分かると思います。いわゆる“朦朧体”については一般的には、日本美術院で岡倉天心が横山大観や菱田たちに空気、光線といったものを描く方法ないかと示唆したことに応えて、画面に置いた色を空刷毛(絵の具をつけない刷毛)で暈すという手法を考え出した。その効果を最大限に活かすため、伝統絵画においてもっとも重視され、かつ、自身も日本画の価値のひとつと認めてきた筆線や筆さばきを手放すことなった、というのが教科書などで述べられていることではないかと思います。もし、このことが真相であるとすれば岡倉はそもそも空気や光線を描く方法を問いかけたのでしょうか。岡倉がこのような問いを発したのは、従来の日本画に空気や光線を描く方法がなかったからでしょう。ということは、そもそも従来の日本画は空気や光線を描くことがなかったからです。日本画でも西洋絵画でもおなじように写実ということを言いますが、日本画の場合は“見たまま”を描くということで、西洋絵画の“リアル”ということとちょっと違うと思います。例えば、光が物体に当たれば陰が生じます。それを“見たまま”に描くということは、陰でものの色がかわったという表面の変化を写すことになります。これに対して、“リアル”ということは物体が立体であり、そこに一方向から光が当たれば当たらないところに光が届かず陰になるということを、つまり、物体が立体であることゆえに陰が生じることを描くことになります。そのためには、単に陰を描くだけではなく、陰をつくりだす光も描く必要が出てきます。それは、間接的な陰を描くことで光を示唆することもあるでしょうが、通常は見えてこない光を描く対象にする必要が生じてくるということなのです。ここで、“朦朧体”の件に話を戻せば、岡倉天心が空気や光線を描く方法を問うたということは、従来の日本画の“見たまま”ではなくて、西洋絵画のような“リアル”を日本画に取り入れようとしたことに他ならないのではないか、と私には思えます。それは、日本画が日本画であるべき根本的な画面のつくりに対する根源的な問いかけ、あるいは変革の求めに他ならなかったのではないか、だからこそ権威をはじめとして当時の日本画の関係者が本能的に“朦朧体”への拒絶反応を示したのではないか、と勝手な想像をしてしまいます。

Hishidahougaiさて、作品に戻りましょう。このようなことを考えながら「秋景」と「白雲紅樹」を比べてみましょう。滝の位置が左右逆ですが、秋の紅葉のなかで画面の横に滝を配して、岩石と水流と紅葉を対照させて際立たせているという趣向で両者は似たところがあります。しかし、全体として「秋景」の印象は画面が完結しているというのか、その中で濃密な印象があります。これに対して、「白雲紅樹」はもっと開かれた感じと言いますか、サラっと淡白な印象があります。言い過ぎかもしれませんが「秋景」には実際に岩がせり出して深く切り込んだ谷の薄暗い中で岸壁のゴツゴツした感触を目の当たりにしながら滝の流れ落ちる爆音が聞こえてきそうな画面になっています。その下半分は西洋絵画のように隅々まで彩色されて描きこまれています。実際に、私は展覧会場で、この作品を見て、菱田の描写力に感心してしまった、しばらく見入っていました。この展覧会では重要文化財に指定された菱田の代表作と言われる作品も展示されていましたが、そんな作品よりも、このような作品の方が菱田の描写力の凄さが実感できると思います。でも、これだけの描写ができて、西洋絵画の手法を取り入れることができたのに、なぜ菱田は日本画にとどまり続けたのでしょうか。この「秋景」のようなリアルに接近した作品を描くことができのたであれば、西洋絵画の油彩画に転向してしまった方が、この方向性をさらに追求できるはずです。しかし、菱田はそれをしなかった、あるいはできなかったということです。それは、芸術上の理由だけではなく、様々な事情が絡んでいるのだと思いますが、ここで日本画家であろうとしたのが、菱田という画家の個性と、彼の長くはない画業の苦闘に表われているのではないか、と私には思えました。それは、あえて一般論化してしまえば、西洋の先進的な文明を導入した当時のエリートたちが、それでも日本人であろうとし、あるいは日本の伝統的な環境の中で西洋的な文明との間で板ばさみになったに重なるのではないか、と思われたのです。夏目漱石が小説を通して終生追求していったテーマでもあることです。今回の菱田の回顧展の展示をみて、このような日本と西洋の狭間で右往左往する軌跡として、彼の作品の推移を見ていました。

Hishidachild「菊慈童」という作品です。この作品をみると、菱田の、あるいは“朦朧体”の限界がはっきりと表われています。画面の中心であるべき菊慈童が風景の中に埋もれてしまいそうなのです。そして、全体の風景画リアルに描かれている中で、中心の人物である菊慈童だけがリアルでないのです。今まで述べてきたことによれば朦朧体というのはものごとを“見たまま”ではなく“リアル”に描くための手法として考えてもいいのではということでしたが、そもそもこの作品では人物は“リアル”に描こうという意図は最初からなかったとしか見えません。立体的な厚みとか重量感をもった立体として捉えられず、従来の日本画の平面的な捉え方で外観をつくって、それに対して装飾のように陰影を付け足したようにしか見えず、存在感が薄いのです。それは、画面全体の中で菊慈童のサイズか小さくて目立たないということ以上に、存在感が希薄なので目立たないということなのです。それに比べて、背後の紅葉した森林や水流が色彩を淡くしてあっても“リアル”ら描きこまれているために菊慈童が存在感で勝てなくなっているのです。それ故にでしょうか、菊慈童には輪郭線が引かれて、背後との境界をはっきりさせています。その必要があったのです。私の勝手な妄想ですが、この作品に、私は西洋画の“リアル”と日本画の“見たまま”との間の相容れない間の狭間にあって、どっちつかずに追い込まれて苦労している菱田の姿が見えてきてしまうのです。

ここで、「菊慈童」という作品に対して視線を変えてみることにします。この菊慈童というのは、中国の古代の時代に罪を犯した周王(穆王)の侍童が、幽谷山奥の地に流され、孤独の中で四季の山川草木に身を委ね、風月水土を暦として過ごす慈童。その慈童が野の菊露を飲みつつ、永遠の若さを保ったという故事に基づくものだそうです。そうであれば、画面全体に秋色が広がる中央のやや下に立つ菊慈童があまりに小さく描かれるのは、リアリズムというよりは、たった一人で深山幽谷に暮らす孤独感をシンボリックに表現するためのものだった、という見方もあると思います。仮に、菊慈童を大きく描いて、背景を消し去ってしまったとしたら、人物の表情に寂しげな思いを表わすことはできるでしょうが、その置かれている尋常ならざる状況まで表現するには至らないでしょう。菱田は、そこで紅葉が広がる風景の中で、独りポツンとその風景と一体化するように立つ姿を描いた。そして、物語を表わすのと、菊慈童のシンボリックな姿を際立たせるために、微細な部分を描き込んだ。例えば、小川のところどころに咲く菊、慈童の頭の飾りの菊、その手に持つ手折った菊、そして着物の模様の菊と、それらすべてが菊慈童を際立たせための演出としての効果をあげているのです。これは、前回の「水鏡」のところで若干触れたラファエル前派の手法とも相通じるところがあるということもできます。菱田は、この後、風景の広がりに対して人間や動物を対比的に置いて、風景の広がりと手前の人間なり動物なりとの二項対立の構成を用いることが多くなります。同じ会場で展示されていた「高士望岳(荘重)」などもそうです。これらを見ると、苦し紛れに見えなくもないのですが、日本画の平面的な画面世界の中で、それとは異質な立体的な奥行きを対立させずに画面の中に落ち着かせようとする一つの解決策を見い出していく糸口を見つけようとしていたのが分かります。

2014年11月24日 (月)

菱田春草展(3)~第2章 「朦朧体」へ:空気や光線を描く(1)

菱田は東京美術学校を卒業したのち嘱託教員となって学校に残りますが、岡倉天心が退職するのに伴い日本美術院の創立に参加したといいます。その時期に、岡倉の発言が発端となって、横山や菱田らの画家たちが競うように試みたのが朦朧体という手法というのが、歴史で習ったことです。ここでは、その時期の作品を中心とした展示がなされていました。

Hishidakanrin_2「寒林」という作品から見て行きましょう。ちょうど岡倉天心の後を追って東京美術学校を退職した頃に制作されたものらしいです。前回に見た「水鏡」の翌年になりますが、まるで対照的なように、「水鏡」は線の表現に重点を置いて様々な線の表現を試みている、パステルカラーのように淡い色彩を様々に配置して色彩の関係による効果を試みているのに対して、「寒林」輪郭線をなくし、モノクロームにして色彩効果をなくしてしまっています。まるで正反対の方向性の作品をたった1年の間に連続するように制作するということは、菱田という人は節操のない人なのか、それとも自らの方向性を掴めていなくて迷いの中にいたのか、どちらかです。「寒林」というタイトルで中央に猿の親子を配しているけれど、山水の水墨画のような静謐で枯淡な印象はなく、冬の冷気のなかでの張り詰めたような凛とした森閑さという世界ではありません。画面全体の描き方が日本画の省略により余白を生かした余韻のあるものではなくて、どちらかというと西洋絵画のような隅から隅まで描きこむような濃密な画面になっているのです。それが濃密さで迫ってこないのはモノクロームにしてあるためだろうと思います。それで、前年の「水鏡」と一見対照的なこの「寒林」には、菱田が西洋絵画の手法を取り込もうとしたという点で共通点があるのではないかと思います。「寒林」では前景の岩石が配置された川原のような風景と後景の森林の描写が稠密に描きこまれ、後景の森林は遠近法的な遠くになるに従って小さくなる描き方をしています。また、輪郭線を用いないというのは西洋絵画の油絵では絵の具を図面に重ねていって下絵の輪郭線が見えなくするのを表面上真似ているように思えます。いわばこの「寒林」という作品は西洋絵画の手法を実際の絵画制作で試してみようとした作品だったのではないか、と私には思えます。これは、明治維新の新政府が富国強兵のために殖産興業を推し進め、そのために当時の先進技術である西洋の技術をベースである科学とともに急いで取り込もうとした文明開化という動きに、よく似ているように見えます。文明開化は先進的な西洋の学問や技術を取り込もうとしましたが、和魂洋才といわれるように表面的な技術という上澄みを性急に取り入れようとしたもので、後に夏目漱石がその矛盾をテーマに多数の小説を執筆しています。それと同じようにことは、菱田にもあって、西洋絵画の表現技法をテクニックとして勉強して、試そうとしたといえると思います。だから、この「寒林」は何も油絵の具を使っていないということではなくても、西洋絵画の技法を使っていても、そうは見えず、一風変わった日本画となっているということです。たとえば、遠近法的な描き方をしていても画面構成が奥行きのある空間を平面に置き換えるような設計がされていないことです。端的なのは線遠近法的な描き方をしていても消失点がはっきりしない。消失点とは単に遠近法を描くための基準点というだけでなくて、立体である空間を見る際の焦点、視点です。いわば風景を見る主体の自意識です。それがはっきりしていない。つまり、主体が確立されていないのです。ここでの画面は、見えているものを効率的に配置するということで、誰かが何をどのように見たということは、描かれていません。それはまさに和魂洋才であって洋魂ではないのです。敢えて言えば、菱田の精進によって個々の樹木や岩石の表現が西洋絵画のテクニックを十分に租借してそれなりのものとなっているために、西洋絵画と日本画との狭間にあるような過渡的な独自性の煌きを持ち得た作品となっている、と私には見えるのです。

Hishidamisasino_2「武蔵野」という作品は、「寒林」のようなモノクロームではなく彩色が施されていますが、構成とか内容は良く似た作品です。前景のすすきと後景の遠く富士山をのぞむ草原のひろがりのあいだにアクセントとして鳥を配しているという点です。風景画は西洋絵画では風景そのものだけを取り出して描くというのは歴史画や宗教画に比べて歴史の浅いもので、それほど確立していなかったのに対して、日本画では花鳥画の確固たる伝統があって、その伝統の上で途上にあって体系が固まっていなかった西洋画の風景画の技法をつまみ食いするように利用しても、日本画の画面に置くことができたのでしょう。人物画であれば、前回に少し見た「拈華微笑」のような、およそ無残としかいえないほどみっともない結果に陥ることはありませんでした。それは、ちょっと脱線しますが、西田幾多郎が言っていたように日本語という言語が、英語のような西洋言語のような主語ではなく述語が中心に出来上がっているからと言えるかもしれません。つまり、この「武蔵野」の画面で言えば、ススキが見える。鳥が見える。富士山が見える。…というように…が見える。と列記できて、見えるのはそこに描かれているものです。ところが、これを英語のように言い直すと私がススキを見る。というように見る主体である私がないと成り立たないのです。つまり、画面にあるものは見えたものではなくて見る主体が必要になるので、画面に見えるものがあるのではなくて、私がこの画面を見たということになります。もっというと、私が画面をこのように見たということは、画面は私の見る視点によって構成されるということになります。これは、世界は神様が意図をもって創ったということに通じることになるものです。だからこそ、西洋絵画では画面の空間構成ということが重視されるのです。画面というのは一つの世界であり、そこには意図があってつくられたものであるという前提があるわけです。ところが述語を重視して、これがある、あれもあるという、主語の重視する立場からは意図がなく無定見のようなものになっているのです。だからこそ、日本画の風景画には融通無碍なところがあって、西洋絵画の技法をパッチワークのように部分的に取り入れても画面が成立してしまうのです。そのため、菱田の試みも人物画では「水鏡」のような例外を除いて無残な結果となったのに対して、風景画ではそれなりに見ることのできる作品を残すことができたと思うのです。

2014年11月23日 (日)

菱田春草展(2)~第1章 日本画家へ:「考え」を描く

Hishidamizukagami菱田の習作期からデビュー当初の作品です。ここでは「水鏡」という作品を観てみましょう。一見では、天女が水面を眺める様子を描いたように見えますが、実は“天女もやがては衰える”という“天女衰装”の「考え」が描かれているといいます。天女が衰えるというのであれば、憔悴した面貌とか薄汚れた衣服とかいった衰相にして、観る者にダイレクトに伝わるようにするというやり方があります。その方が、観る者には分かりやすい。しかし、ここでの菱田は天女の美しい姿はそのままに、水に映る姿を濁った色調でかき消して、さらには色が移り変わってやがて枯れる紫陽花を添えて、遠まわしに暗示しようとしたといいます。なんともはや回りくどく分かりにくいものです。この「考え」について、菱田自身は“西洋画で言えばここによい景色があるとすれば其の色を其のままに出そうとする、日本画では其のよい景色を観て色々に考える其の考えを描くのだろうと思う、つまり画家自身の考えを描くのだろうと思う。”と語っているそうです。西洋画の写実に対置して日本画の特性を「考え」と捉えたということでしょうか。この菱田の語ったことは、おそらく岡倉天心の思想を忠実に反映させたものなのでしょうが、ひとつの理念先行の姿勢が垣間見ることができると思います。その理念の底流には、菱田自身の言葉からもうかがえるように西洋絵画への対抗意識、つまり西洋絵画が写実であるから、それ以外のところで「考え」というものを持ち出して独自性を主張しているのです。ここに、私には、このグループの、ひいてはこの日本美術院のグループによって先導され形成されていった近代日本画の不安定なアイデンティティが透けて見えるような気がしてなりません。そもそも、確固とした自信があれば、西洋絵画など意識せずに独自にやっていけばいいのです。それがへんに西洋絵画を意識して、あっちはどうだから、こっちはそうでなくてこうするんだ。などというのは相手の土俵に乗ってしまっているわけで、喧嘩であれば、戦う前に勝敗の帰趨は決まってしまっているのです。私は、「反抗」という言葉を思い出しました。定型的に権威への反抗とか若者の反抗などという使われ方をしますが、この反抗というのはそもそも反抗する対象である権威に寄生するような行為で、権威に対して否というだけの行為で、権威がなくなれば消失してしまう脆弱なものです。菱田のいう「考え」というのは、果たして西洋絵画がないところで成立するのか、私には甚だ疑問です。ただ、当時としては、それだけ外圧としての西洋絵画に対する危機感が強かったのでしょう。

Mireofiriaそしてまた、西洋絵画が写実であるという言い方についても、おそらく自分たちの「考え」ということを際立たせたいがゆえに、意図的に単純化されたという操作があったように思えます。例えば、美しい女性を描いて、それが朽ちていくのを象徴的に描いた作品として、この「水鏡」の半世紀前にイギリスのラファエル前派の画家ジョン・エヴァレット・ミレイの制作した「オフィーリア」という作品があります。この作品も水に関係し、その周囲に添えられた花や草が象徴的な意味づけをしています。だから、一概に西洋絵画は写実とは言えるわけではありません。むしろ、「オフィーリア」の方が画面の中でひとつの世界を構築して完結して見せているといえるわけで、それには十分に考えられていないと不能なことは明白です。これに対して「水鏡」の場合には、画面だけで完結しているとはいえず、この内容を口頭で説明したり、解説を加えないと「考え」が伝わらない舌足らずの感じを拭えません。これは、物語絵巻のように何枚もの連作の一部のような感覚では内科という気がします。だから、これ一枚だけで完結させる画面構成になっていない。あえて言えば「考え」が足りない、ということになります。ただ、西洋絵画で表現されたものの厚みとか質感とかいったものは、たしかに日本画にはなかったものだと思うので、それにはじめて触れたという人々には圧倒的なリアルに迫ってきたように感じられても不思議はないと思います。そのリアルに対抗するためには、リアルでない想像に逃げたということを考えてしまいます。それだけ、「水鏡」という作品は表現として弱い、といわざるをえません。

他方、菱田は、上述の語りの中で線描の重要さについても述べています。西洋絵画で表現された質感とか毒々しいほど鮮やかな色彩に対して、日本画の側は為す術もないように感じられた、それゆえに線描ということに自らの独自性を逃げるように見い出していったのが、菱田の語る線描の重要性ということなのではないかと思います。たしかに天女の髪の毛や眉の繊細な線や天女の被っている透明なヴェールの透き通るような線などを見ているとすごいと言わざるをえません。部分的には確かにそうなのですが、他方で天女や周囲の紫陽花の輪郭を形作っている線は無機的で単に書割の境界にしか見えません。つまり、表現的ではないのです。もし、かりに彩色が鮮明に色分けされて書割の区分がはっきりできるようであれば、これらの線の必要性はなくなってしまうのではないかと思えるほどです。同じ線でも髪の毛とか衣服の模様などのような線自体に意味づけがされていたり、線として存在しているものには、作品の中でもかなりの配慮がされていて、その線はなくてはならないものとなっているのです。これは菱田だけのことではなく、横山大観などでは必要性が感じられないどころではなく邪魔にしか見えないことになっていますが、私には近代日本画におしなべて感じられるものなのです。だから、(ここで少し脱線しますが)日本美術院グループが生み出したとされる「朦朧体」という線を使わない手法は、実のところ線が邪魔であることを当事者たちは自覚していたのではないか、などという妄想をしてしまうのです。閑話休題。

Hishidasyaka_2散々、悪口を並べてきました。ここまで読まれてきた方は、このような罵倒に近いような悪口をわざわざ並べるのなら、むしろ最初から無視してしまって、採り上げなければいいと感じられたと思います。その通りですなのです。そこまでして、この作品をとりあげたのは、上述のようなことがあってもなお、どうしても採り上げたいものがあったからです。それは天女の顔です。それは、旧来の日本画の戯画化されたような省略表現にはない、かといって西洋絵画の肖像の人物像とも違う顔になっているのです。仏画がベースになっているのかもしれませんが、個人の顔を写生したのではない、天女という理想の女性の「考え」を人間の顔の形で表現したものに見えました。水面を見下ろす顔に、ごくわずかに表情を与えて、具体的に悲しいのか戸惑っているのか観る者に窺い知ることはできませんが、仏様のような悟りきった無表情ではなく、こころを動かされたことだけは分かる微妙な表情を浮かべているのは分かります。それを見下ろしている顔の角度と、下を見ている瞳、そして奥まった閉じている唇のかたちなどの全体の雰囲気から感じ取れるように描かれています。それは写実とは違った意味で存在感のあるリアルさとなっていると思います。菱田は、この作品と並んで展示されていた「拈華微笑」では釈迦とその弟子たちを類型的で戯画的な何とも存在感のない挿絵のような描き方をしていたので、人物を描く方法論を会得していたわけではないと思います。そのような中で「水鏡」の場合は、天女という実在の人間とは違う想像上の存在ということもあってなのでしょうが、例外的に実体を感じさせるリアルなものとなっていると思います。

2014年11月22日 (土)

菱田春草展(1)

これもまた用事で都心に出たついで、ちょうど始まったばかりで、日本がビッグネームではあり、混雑が予想されるので、今のうちならと、これを機会に寄ってみることにしました。しかし、始まって間もないというけれど、そこそこ人出があって、混雑というほどではないけれど一つの作品の前には数人が必ずいるという状態でした。かといって、ゆっくり見ることのできる余裕もあったので、いいときに見ることができたと思います。

Hishidapos主催者のあいさつでは次のように述べられています。“菱田春草は、長野県に生まれ、東京美術学校に学びました。岡倉天心のもと新時代の日本画をめざし、筆線によって精神性を表わそうとした初期、筆線の表現力を手放したいわゆる「朦朧体」の時期を経て、背景表現を抑制した装飾的な画風を打ち立てました。『落葉』、『黒き猫』は近代美術史上の名作として広く知られています。”

一応、近代日本画の有名画家としてあり、そのなかで新しい点を展示に加味させようと試みているだろうなということは、分かるような気がします。いろいろな調査とか分析とかをしている最新の研究の成果が反映しているらしいのですが、それが展示の章立てとか、展示の順番などに反映しているらしいです。ただ、それで画家や作品のイメージにどのように影響するかは、私には分かりません。

さて、このところ歴史の教科書などでお馴染みの近代の日本画のビッグネームたち、横山大観下村観山といった日本美術院グループ、あるいは竹内栖鳳速水御舟といった人々の展覧会を観てきましたが、そのネームバリューのわりには“こんなものか”という落胆まじりの感想を受けたものでした。これはきっと、私が日本画に疎いが故だと思って、いくつかの展覧会にも足を運んでみました。それらは概して“たいしたことはない”という落胆以外の何ものではないものでした。とくに、日本画のひとつのウリであるときいていた線がつまらない、というのか配慮が感じられないものでした。描かれている線を見ると興ざめしてしまい、とりわけ線で囲まれた人物が絵として自立していないという印象でした。いわゆる絵画芸術というような観点でみると、日本画というのは絵画の範疇に入らないのではないか、画面という完結した世界でひとつの世界を完璧に構築するというものではないのではないか、と思うようになりました。しかし、昨年末にひょんなことから狩野探幽の展覧会で様品に触れて、その圧倒的な線のバリエイションとリアリスティックな写実描写を駆使して画面をマニエスティックと言えるほど恣意的に構成して世界を構築してしまうという驚異的なものを見つけ出してしまいました。それに比べると、それまでに観てきた日本画家たちとの差は、私の中では歴然としたものです。しかしながら、例えば横山大観などの日本美術院グループに対する解説には旧来の伝統墨守で創造性を欠いた粉本主義として狩野派の絵画作品は激しく批判されているのが常です。しかし、作品を見比べると私には圧倒的に江戸の狩野派の祖ともいえる探幽と大観とは天地ほどの格差があると思われるのでした。当然、大観は探幽の足下にも及ばない。その線において、描写力において、何よりも作品制作に対する狂気とも言える執着において、そう感じています。しかし、その狩野派を激しく批判したのは大観たちです。そこには、作品のあり方以外の意図的なもの、いってみれば戦略的なものがあったのではないか、と今は思っています。日本美術院の主張していることを考えてみると、明治の維新政府が迫り来る列強の圧力に危機感を強くもって、富国強兵を推進していったのと同じようなものが日本美術院の主張や作品に観られるのではないか。それは、旧来の支配層が明治維新というクーデターによって交替してしまったことによってパトロンが退場してしまったであろうことも関係しているのでしょう。明治の政治的、社会的風潮の中で、旧来の画家たちは生きていくために、何らかの新奇でも示さないことには、旧来の芸術的な教養蓄積を持たないあらたな顧客層に対して、あるいは外来の目新しい競合に負けてしまうことになる。しかし、かつての探幽ほどの圧倒的実力もあるわけがない、そこで戦略として旧来の権威を批判して目立ってみせる、競合相手を貶めて相対的に自己を優位にもっていく。今でいえば、戦略的な宣伝ということになるでしょう。

そのような視点に立つと、この展覧会では近代日本画の代表的な画家として評価されている菱田春草ですが、私には岡倉天心という理論家に引っ張られたということもあるのでしょうが、その画業が否定からスタートしているように思えるのです。横山大観もそうなのですが、典型的なのは伝統的な権威である狩野派を粉本主義として批判して、そう言ったからには狩野派的ではないものを目指すことで自作を差別化していくというようなことです。有名な「朦朧体」という技法にしても、黒船である西欧文明の洋画に対抗しようとして油絵の西洋絵画ではできないこととして絵の具の滲みや暈しを多用して差異を強調してみせてオリジナリティがあるように見せる、というものではなかったか、と考えられてしまうのです。それは、現代のグローバルな競争が激しい経済社会において経営戦略を駆使して競合するライバルを出し抜こうとするサバイバル・ゲームを繰り返している企業のあり方とよく似ているのではないか、と思わせるほどです。これは、私がサラリーマンとして長く暮らしている偏見から言っていることなのかもしれません。

実際の作品と離れたところで戯言が長くなりました。それでは、個々の作品に触れながら印象を述べて行きたいと思います。なお、さきにも述べましたように、展示の章立ては新しい視点でなされているということで、つぎのように為されていました。

第1章 日本画家へ:「考え」を描く

第2章 「朦朧体」へ:空気や光線を描く

第3章 色彩研究へ:配色を組み立てる

第4章 「落葉」、「黒き猫」へ:遠近を描く、描かない

では、作品を見て行きましょう。なお、いつものように、これからは画家に対しては菱田というラストネームに呼称を統一します。

2014年11月21日 (金)

美術展について書くことについて(2)

先日、ブログ上のお友達から辛口という批評をいただきました。このまえアップしたミレーに対する記述で“下手”などと勝手なことを書いていますので、それも否定できません。しかし、例えばミレーの展覧会について、ミレーという画家の伝記的な事実や展示されている作品ラインアップは調べれば分かることです。また、個々の作品についての解説なら、主要な展示作品であればホームページで解説されています。現物にではないにしろ、作品の画像をネットで見ることもできます。そうであれば、ブログに重複するように書く必要はないでしょう。しかし、人がわざわざ展覧会のことを読むためにブログを訪問するのは何かしら展覧会について書かれているのを読みたいからではないか。その時に、調べれば分かる情報以外で、展覧会のことで書くことができるのは、私はこのように見たという現象の記述しかありません。とりたてて、私はブログを訪れる人にサービスしようとして、そのために書いているわけではありませんが。

もとより、私には美術史や画家、絵画作品に関する知識を持ち合わせているわけではないし、自分で絵筆を握ったこともないし美術の専門的なトレーニングを受けたこともありません。ですから、美術に関する情報を発信などできるわけがありません。そこで、現時点での私の知っている限りでのものを総動員して、作品をこのように見たというのを記述してみることを試みているわけです。ミレーを“下手”というには、作品について、このように描かれているからというのが記述されていてはじめて成り立つものです。そうであれば、“下手”と言っている私の見ている上手下手の基準が明らかになるわけであるし、ひいては、とこに私の作品の見方が透けて見えてくることになるはずです。多分、そうなれば、昨日紹介したバッハのパルティータにおけるアンドラーシュ・シフの演奏のように、それまで聴こえていなかった音が、視点を移すことで聴こえてくることができる。ミレーの作品に対して、変化球ではあるかもしれませんが、異なった視点で見るということを提供することができることになる、と思います。絵画について記述するということは、音楽とは違い、ブログではその作品の画像を貼り付ければ、その画像を参照して検証しながら読むことが出来るという大きなメリットがあります。だから、付け焼刃の焦点のずれたことは書けないという真剣勝負です。しかし、その一方で、大胆なことを書くことも可能になっていると思います。

そんな、蓄積も何もないところから始めた展覧会に関する記述ですが、書き進めていくうちに、私自身の絵画の見方とか嗜好などを自身検証できてきました。自分のことなので、とくに意外なことを発見したとかいうことはありませんが、はっきりと、自分はこのように見ているということを具体的な作品に則して明確に自覚することができるようになりました。そして、自分でも興味深かったのが、それが私自身の興味の発展を促すことになったことです。自分で言うのもなんですが、私の絵画に対する好みは偏向していて、抽象画とロマン派の風景画、そしてマニエリスムに限定されていました。画家で言えば、モンドリアン、ロスコ、マレーヴィチ、フリードリッヒ、ポントルモといった人たちです。しかし、残念なことにこれらの人たちの作品はモンドリアンを除いて日本で作品をみることはほとんどできません(最近はロスコをコレクションしている美術館があるそうですが)。そのため、以前は展覧会を見に行くのは年間で1回あるかないか、でした。ところがブログに展覧会のことを書くようになって、自分の絵画の見方を自覚できるようになると、その見方は私の好む画家を見るのにマッチしているのでしょうから、その見方で、好みの画家を見るとどのように映るかということを楽しむ余裕が出てきました。そのため、展覧会に出かける頻度が急に増えてしまいました。

それまで、文章を書くということは学生時代の課題レポートのような、情報を集めインプットして、それを整理し、じぶんなりの考えをまとめたものをアウトプットするもの、と思っていました。しかし、このブログで書いている展覧会は記述は、まずアウトプットしてしまったものと言う事ができます。出すべきものがあって、はじめて出すことができると思っていたのが、まず出してしまうと、そのうちに出すべきものが見えてきて、それにあわせてインプットするものが見えてくるという、いままで考えていたこととは逆方向の動きがあって、それが可能であるということが分かりました。

これは何か、大発見のように書いていますが、日常的なコミュニケーションのことを考えれば当然のことです。まず、自分をアウトプット、つまり胸襟を開いてこそ、相手とのコミュニケーションを始めることができるからです。会話に困らないように情報を集めることなんかよりも、まずは、「こんにちは、はじめまして」と話してしまえばいい、ということです。私の場合、ブログで展覧会のことを書き始めたのは、まさにそういうことだったと思います。

実際のところ、展覧会に出かけて、展示されている作品を見ているとき、ブログに書こうとして、そこで情報とかネタを集めたり、感じたことを書き留めたりということは一切していません。会場ではブログに書くことは考えないで、好きになった絵をよく見るようにしているだけです。もっとも、好きになった作品は、いつまでも見ていたくなるものですが。で、とくに、このように書こうとか構想等はなしに、書き始めてしまうのです。書くというアウトプット行為を、とにかく始めていくうちに、次第に書くことが定まってくるのでした。

このようなことを始めて2年ほどになりますが、これを続けているうちに、最近焦点を絞るようになってきたと自分では思い始めています。それは、自分でこうしようと意識しているわけではありませんし、展覧会場で作品に接しているときに、追求しているわけではありませんが、ブログに書いているうちに、画家の物語を自分で自然とつくろうとしているようになっていると思います。それは、画家がなぜ特有の描き方をするようになったのか、自分なりのものを、作品に表われているものを読み取ることと、自分の妄想だけを根拠に、自分なり仮説を考えてみようとするという焦点です。例えば、ミレーはどうして農作業や農村の情景を描くことになったのか、とかです。これは美術史とか証拠資料などとは無関係に作品を見る私が納得するためだけにストーリーを作り、それで作品を楽しもうという試みと言えます。これは、ブログに書くというアウトプットを続けることによって、作品を見るということが変化しているということに他なりません。自分でいうのも変ですが。

そして、このことを続けると、これからまた、何か変化が起こるのか、まるで他人事のようですが、私自身楽しみにしています。

2014年11月20日 (木)

美術展について書くことについて

このブログでは、私の日々の雑事で考えたことや展覧会の感想、そして読んだ本のメモを書き込んでいます(そのため雑然としてしまって、全体として雑多なゴミ箱をひっくり返したような捉えどころのない印象となっていると思います)。この中の展覧会の感想を書いていることについて、少しく述べたいと思います。

最初にこのようなことを書くのもどうかと思いますが、もともとは視覚的なものが好きだったというわけでもないのです。例えば小説を読んでいると景色の描写が事細かに書かれている部分などは面倒くさくなって読み飛ばしてしまって、ストーリーの筋を追いかけてしまうタイプです。だからミステリーなどは犯人のトリックの仕組みの説明が、どうしても景色の説明のようになっているので読んでいる途中で面倒になってしまうことが多く、一部の例外を除いてミステリーを読むことは、ほとんどないと思います。また、以前に山登りのことを長々と書きましたが、それを読んでいただけると気がつくと思いますが、私は山の魅力を景色とか高山植物とかいった視覚的なこととして積極的に書いていません。私の場合は、絵画のようなものよりも、むしろ音楽のような時間的に流れるようなもの─小説も筋が流れる─へ嗜好が向く傾向がありました。

それなら、展覧会よりも音楽について書けばいいのではないか、と言われればその通りです。実際に、ブログを始めたことは音楽の感想を書いていましたし、最近もポツリポツリとジャズのことを書き始めています。ただその時に、いつも思うのは音楽を記述することは難しいということです。しかし、それが音楽について書くことの面白さでもあるのは確かです。実際に、ライブに出かけて、一緒に聴いた友人たちと後で感想を語り合うと、互いに違った音を聴いていたことに気づき、その話から自分の聴いていなかった音を発見するということが良くありました。とはいえ、このようなことは、互いに相手をより知り、各人がどのような音楽の聴き方をするのか知悉していてはじめて成り立つようなことなので、ブログのように不特定多数の私の聴き方を知らない人に理解してもらえるような文を、なかなか書けなかったというのが正直なところです。

これは、音楽の分野ではありませんが、映画の分野で淀川長治という天才的な映画評論家がいて、この人は映画の作品を一つ最初から最後まで全部語ることができてしまうという稀有の人でした。このひとりの語りを聞くと、私が見た映画でも、いかに多くのシーンや細部の描写、あるいは巧妙な伏線の仕掛けなどをいかに多く見逃していたか、あるいはキャメラのアングルによる空間の取り方にどんな意味があったのかなどを知らしめてくれるのでした。そのようなお手本があったせいもあるのでしょう。また映画というもののとくせいもあったのでしょう。映画ファンの語りというのは、例えば、こういう話の運びが合って、こういうシーンがあって、ここで主人公の女優がこんな仕草をこのように撮って、その背後に映っている窓の外に自動車があるとないとで、このような意味合いを持たせて、こういう効果をあげているとか、そういう話ができるのです。それを音楽で同じように話すのはとても難しく、こういう音があってというよりも、ここは悲しいとかロマンチックだとか音楽そのものから離れてしまうのです。

展覧会のことを書くことについて述べようとして、別のことを長々と書いていますね。そこで、本題に戻ります。絵画について書こうとすると、音楽のように演奏された音は流れて消えてしまうのに対して、絵画は消えないで存在しているという大きな違いがあります。だから、私が、ああだこうだと記述しても、当の絵を画像なりで見ることができるのです。それで、というのでもないのですが、一度書いてみることにしました。だから、このブログで展覧会や絵画作品について書いていますが、それは音楽や映画を語るやり方で書いている、と言えるものなのです。フッサールという19世紀の哲学者は現象を説明することはできないが記述することはできる、というようなことを言っていますが、音楽とは、まさにフッサールの言う現象そのものと言えます。例えば、クラシック音楽の作曲家でヨハン・セバスチャン・バッハという人がいます。バロック音楽を集大成して、その後のハイドンやモーツァルト出現を準備したという西洋音楽史の上では重要な人とされています。彼の鍵盤楽器作品にパルティータという舞曲集があります。6曲の曲集のうちの第1番の組曲のフィナーレは左手で奏でられる分散和音が速い速度で回転するようなフレーズに乗って、右手でわずか2つの音で構成される単純なフレーズが繰り返される曲です。これは軽快でリズミカルに曲のフィナーレというように聴いていました。これをアンドラーシュ・シフというピアニストは、右手の弾かれる2音のフレーズの繰り返しを繰り返しのたびにアクセントに変化を付けたのです。その結果、この繰り返しが最初は問いかけで、つぎが回答というような掛け合いのように聞こえてくるようになったのです。それを追いかけると、たんに軽快なリズムでおわるということから、掛け合いによるドラマを聴き取ることができるようになったのです。そうなると軽快に気持ちよく曲を終わるというだけにとどまらず、掛け合いの変化を楽しみながら、まるで男女の会話を聞くように最後は大団円を迎えるというように曲の性格が変わってくるのです。これは、シフというピアニストがフレーズのアクセントに変化を付けたことを聴きとれるか否かによって、曲の聞こえ方がまったく違ってくるということなのです。また、展覧会から逸れてしまいました。音楽を記述するというのは、こういうことです。うまく伝わったかどうか、分かりませんが。絵画作品をみるということにも、このような音楽を聴くというのと、似たようなことがあるのではないか、と音楽好きので、そういう音楽を聴くというアプローチ方法しか知らない私は、そのように思いました。それで、絵画作品について、私はこのように見ているというのを記述しようとしたわけです。

少し長くなってしまっています。迂回ばかりで本題がなかなか進みません。まどろっこしいばかりですが、とりあえず、ここまでで、続きは後日ということにします。

2014年11月19日 (水)

ジャズを聴く(19)~ケニー・ドーハム「クワイエット・ケニー」

ジャズの名盤案内などという雑誌や案内書を繙けば、「静かなるケニー」のジャケットの物憂い写真と「渋い」とか「リリカル」とかいうイメージが先行する。マイナー好みの日本人ジャズマニアの間では人気がある人ということだ。実際、ケニー・ドーハムが活躍した時期は、クリフォード・ブラウンとマイルス・デイビスという二人のトランペット奏者の強い影響のもとにあったといい、その影響から離れて独自の位置にいた数少ないトランペット奏者がアート・ファーマーやケニー・ドーハム、ブッカー・リトルといった人々だったという。といっても、自分の世界に閉じこもってひたすら渋かったわけではない。スタートはジャズメッセンジャーズでビ・バップの最前線にいたわけで、後にビ・バップが行き詰って来るとジョー・ヘンダーソンと組んで新主流派と称される作品を遺している。しかし、強烈な個性で、存在が派手だったわけではなかった、というのが「渋い」イメージを作るのに貢献した、ということではないか。

ドーハムのトランペットはクリフォード・ブラウンのような伸びやかで輝かしいトーンではなく、派手さはないが、角の丸い滑らかで美しい音色であった。スーッと伸びるというよりは、悪く言えばふらつく。だから横のつながりであるメロディはよく流れる。だから、速いパッセージを見事に吹きこなすというより、バラードに真価を発揮する。テクニック的にもクリフォード・ブラウンやリー・モーガンのようには行かない。もう一つの特徴として、リップ・コントロールが巧みで、音色やニュアンスを自在に操ることで、深みと陰影をその音色に加えて、独特のトーンを持っていた。ドーハムのプレイは中音域を中心に動きの少ない、比較的音を少なくして装飾を抑えて。メロディを大事にすることで、分かり易い印象を聴き手に与えることができた。そこで、ちょっとしたリズムのズレが音色の陰影を引き立たせ、それらが一体となって「リリカル」という印象を与えるものとなっている。

一方、ドーハムは曲作りの面でも優れた才能を示し、オリジナル曲のテンポは変化に富み、譜割やコード進行などでユニークなものとなっているという。

 

Quiet Kenny   1965年3月録音

Jazdorh_quietLotus Blossom

My Ideal

Blue Friday

Alone Together

Blue Spring Shuffle

I Had The Craziest Dream

Old Folks

Mack The Knife

 

Art Taylor (Arthur) (ds)

Kenny Dorham(tp)

Paul Chambers (b)

Tommy Flanagan(p)

 

ジャズの名盤案内などでは人気の名盤になっている。ケニー・ドーハムの「渋い」とか「リリカル」という衆目のイメージを決定づけたといえるアルバム。ドーハムのワン・ホーンの編成。とはいっても、最初の有名な「Lotus Blossom」はスロー・バラードではなく、このアルバムはバラード集ではない。シンバルにベース、ピアノが加わったリズムが先行し、線の細い硬質な音で入ってくるトランペットはアップテンポで、“静か?”と戸惑うこともあろう。ドラム・ソロも入る。そのドラムは抑えているのだけれど、音的には結構前に出てくる。それがトランペットと時に絡むようなのだが、掛け合いはあるものの、煽るわけではなく、ドラム・ソロも派手なことはしない。決して、激しくはならないところが、抑制されているからこその、感情が内に秘められたような芯の強さを感じさせる。次の「My Ideal」はテンポをぐっと落としたバラードになる。ドーハムの吹くトランペットは一転して柔らかく、茫洋としたものとなり、まるで夢の中で鳴っているような音で、優しく包み込んでくれるようだ。1曲目からの、この転換で続いて聞いていると否応なく引きこまれてしまう。4曲目の「Alone Together」では、ドーハムのトランペットの線が細くなり、繊細で憂いを帯びたトーンになってしまう。あまり流暢と言えないプレイで、リズムに対して後乗りで、悪く言えばもたついた感じが、ここではかえってブルーな雰囲気を生み、慈しむようにトランペットを吹いているような印象を与え、温かい音色と相俟って、マイナー好みにはこたえられないものになっているのではないか。そして、バラード・ナンバーの間にはスパイスのようなハードめのナンバーが配されていて、全体のバランスをとっていて、対称的にバラードを引き立たせている。5曲目の「Blue Spring Shuffle」でのベースとドラムスとのソロの掛け合いだけを取り出してもカッコいいものだ。しかし、こういうナンバーでも全体として抑制されたトーンは統一されていて派手になることはない。6曲目「I Had The Craziest Dream」になって明るい曲になるが、落ち着いた音色にトランペットが変わり、このアルバムでは、ドーハムのトランペットの音色の変化が、まるで録音を操作しているか、同じ日に続けてプレイしているとは思えないほど。最期は、軽快な「Mack The Knife」。これは、ソニー・ロリンズが有名な『Saxophone Colossus』のなかで「Moritat」という曲名に変えてプレイしている曲。軽快さではロリンズの方が勝っているし、アドリブの展開でも、あっちの方が明らかに上だけれど、このアルバムの締めとしてみれば、軽快で落ち着いた感じという点で、ピッタリとハマる。聴き比べると両者の個性の違いがよく分る。全体として、「静か」というタイトルに普通に期待すると、ちょっと違うのでは、と思うことがあると思うけれど、聴いているうちに分ってくる、というアルバムだと思う。

 

2014年11月18日 (火)

生誕200年ミレー展─親しきものたちへのまなざし(5)~第4章 大地・自然

ミレーという画家は、バルビゾン派などというレッテルで学校で習い「晩鐘」や「落穂拾い」などの浩瀚な代表作のイメージが先にたって、農民画家というように見られがちということで、私もそういう先入見を持っていました。実際のところ、ミレーは農村出身ではあるものの、農業を放棄し都会で画家の修行をした「都会人」であり、全作品が400点と言われる中で農作業を描いた作品は100点に満たないと説明されています。今回の展覧会では、ミレーを、「人間と大地・自然との営み」の1年のサイクルをつぶさに描いた画家というように捉えているといいます。四季折々の移り行く自然の姿と緊密に関係づけながら、大地を耕し、種をまき、牛や羊を放牧して育て、森を守りながら後にその恵みに与る人間を描いた、と言います。

Millettaneとにかく作品を見て行きましょう。「種まく人」という作品です。ミレーはこの題材を何点も制作していて、山梨美術館にあるものとボストン美術館にあるものが有名なようです。この作品は、それらの前に制作されたもので、サイズもひと回り小さく、後の作品に比べると大胆さもほどほどという印象です。有名な作品ということですが、まず、私は、この作品をみていて何が書かれているのかよく分からない作品でした。というのも、このように画像で観ると、そうでもないのですが、実際に作品を観ていると、鈍い色彩で描かれていて、もともと輪郭をはっきりと描く人ではないこともあって、しかも全体が日陰に入っているかのように、どんよりした空の下でほの暗い状況で、さらにくすんでしまっているというようなことが相俟って、全体にぼんやりとして描かれているものの形がはっきりしないのです。抽象的な絵画のように、最初からもののかたちを歪めたり、かたち自体を描くことをやめてしまった絵画ならば、その画面をみて感覚的にかんじたり、あれこれ勝手に想像したりできます。この場合、そういう作品にはかたちのないということを明確にうちだしたり、色彩を前面にあらわしたり、そういうものとして提示してくれます。これに対して、このミレーの作品では、何かしらの題材(こういうときは主題というのでしょう)が呈示されているらしいのは分かるのですが、その呈示されているのが何なのか、こちらには分からないというようなのです。かろうじて、どんよりと暗い空の下で、斜面のようなところで一人の男が立って、なにかのポーズをしている、よく観るとそのようにみえる。それが私には精一杯です。題名が「種まく人」というので、これが種をまくということなのか。当時のフランス農業では種をまくというのはどのようにやられていたのか、そもそも分からないし、そして、何よりも描かれている画面からは男がどのようなポーズを取っているのかは、よくよく凝視しても判然としません。

このことから、私には上で説明されているような「農民画家」とか「人間と大地・自然の営み」というような画家としてミレーを捉えるということは難しいと思っています。そうであれば、もっと見易く描いてもいいのではないか、と私には思われるのです。このような「種まく人」の描き方をしているのは、ミレーという画家に特徴的な描き方によることもあるのですが、それ以上に意図的なものを感じるのです。ものの本に依れば、種をまくというのは聖書にも記述がある「種まく人」のたとえ話(例えばマタイ伝第13章)で、ある人が種をまいたうち、ある種は道端に落ちて鳥に食べられ、ある種は石地に落ちて枯れてしまい、よい地に落ちたものだけが成長してたくさんの実を結ぶ。その種まく人というのは神の比喩で夕方に良き土地に教えという種をまいている。そのような象徴的な比喩があった。そうであれば、種まく人が個人と特定できるように農夫とはっきりと分かりすぎてしまうと、神の象徴性が感じられなくなる。また、種をまくという、いまだ神の教えが受け容れられていない暗い無明にちかいという状況をあらわすには、相応の暗い画面にする必要がある。ということは、農作業を描くということは、手段であるわけです。そのことから、ミレーが農村や農作業そのものに魅力を感じたとか、農民として共感をもって描いたといえるのか、どうもそのようには私には思えません。

Milletpusanただし、このような絵画の対象を選択肢として見い出したのはミレーのオリジナリティであろうことは否定するつもりはありません。絵画の修行をするのは都会でなければならないはずで、そこで修行したのは都会出身者のみとは限らないはずで、ミレーと同じような地方出身者、農村出身者がいなかったはずはないと思います。そこでなぜ、ミレーだけが、このようなものを描けたのか。単にミレーが農家の出身ということだけではないのではないか。そこに、ミレーという人の持っていた、色彩感覚の鈍さというのか、よく言えば渋好み、作品がどんよりとして見栄えがしないという作風が関わっているのではないかと思います。また、描写もそれほど巧みとは思えない。ましてや社交的な卒のなさとも縁がなさそう。そうであれば、肖像画家やパトロンから注文を受けることの競争に勝てる可能性は極めて少ない。だからこそ、ミレーは競争の激しい都会を離れて田舎に逃げ出したのではないかと思います。田舎であれば、現金収入は少なくても、何とか食べて行ける。そしてまた、そこで絵を買って入れるのは地方都市のブルジョワであったと思われますから、その人々に分かりやすい、あるいはその人の現状、例えば地方に住んでいることを称揚してあげる内容のようなものを題材にするというマーケットニーズ。そして、一方、渋好みの作風で都会の華やかな世界に適合したものは描けない、しかし、田舎の農村のくたびれたような風景は、逆にキリスト教の「貧しきものは幸いなり」的な視点で称揚するように描くには、ミレーの作風はむしろ適合しているように考えられます。たまたまそうなったとか、結果としてそうなったとかいうことによるのでしょうが、ミレーという人が作品の対象の選択肢として農村とか農作業が視野の中に入っていて、そういう要素と結び付いたのが、結果としてミレーのよく知られた作品を生み出していくことになったのではないか。そこには、16世紀のオランダ絵画の間接的影響とか、写真の出現とか様々な要素が絡み合っているのかもしれませんが。少なくとも、ミレーの絵画を受け容れるような人々が存在し、それをミレーをどのような経緯か分かりませんが、認識したということなのではないかと思います。これは「種まく人」を見ていて、勝手に私が想像したことで、資料の裏づけとかそういうものはありません。

Milletotibo「落穂拾い夏」という作品です。“収穫された麦が、大きな積み藁の形に集められている。この土地の豊かさを象徴するかのような積み藁を背景にして、3人の女たちが大地に落ちた穂を拾っている。収穫物の一部は、土地を持たない貧しい人々に分け与える目的で、「落ち穂」として大地に残された。この習慣は土地の所有者が大地の恵みを占有するのではなく、貧しい階層の人々と共有するという一面において、農村共同体における慈愛に満ちた習慣として捉えることができる。”と説明されています。旧約聖書申命記には“あなたが畑で穀物の刈り入れをして、
束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。”という一節があるそうです。またルツ記には、まさにそのようにして貧民に施しをする物語が記されていると言います。だからというわけではありませんが、ミレーは、ある種の宗教画あるいは道徳的なストーリーを盛り込んだものとして、その題材を今までにない現代の農村らしき風景にとったと言えないでしょうか。古典主義の大家ニコラ・プッサンがルツ記の物語を描いた「刈り入れ人たちの休憩(ルツとボアズ)」(右上図)と比べてみると、ミレーの作品のくすんだ色調が一種のもの悲しさを漂わせているのが分かります。また、プッサンの作品は牧歌的な性格が強く、貧しさとか哀れさという要素は感じられず、近代的な目で見れば古代の絵空事のようにも見えてしまうのに対して、ミレーの作品では現代風であるがゆえに、感情移入しやすいものとなっていると思います。プッサンとは違って、ミレーの作品では落穂拾いをする3人の女性に近づいて、クローズアップするように画面に占める面積を大きくとって、それ以外の背景は明瞭に描くことをしないがゆえに、3人の女性に視線が集まり、3人の女性を中心に作品を見つめることとなり、観る者が思い入れをしやすい画面になっています。ミレー独特の鈍い、くすんだ色調が3人の女性の服のくたびれた貧乏くさい感じにちょうどぴったりと合っていて、顔の表情を細かく描きこまないことで、観る者に想像させることを促し、そのために観る者が画面に主観的に関わることになってくるわけです。

Milletsheep「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」という作品は山梨美術館に所有されているということもあって、比較的よく知られた作品ではないでしょうか。ミレーの作品は有名な「晩鐘」もそうですが、夕暮れの薄暗く、徐々に暗くなっていくにつれてものの輪郭がぼんやりと闇に溶けていく状態を描いたものが目立つように思います。この作品などは、その典型的なものです。同じ、薄暗い状態でも夜明け前の、これから明るくなる状況を描いたものは、この展示ではありませんでした。そこにミレーという画家の好みというか、夕暮れのくすんだ感じ、あるいは夜という闇に向かっていくところの方にある種の傾向があるのかもしれません。ここまで見てきた3点の農村を描いた作品は、それぞれサイズは大きいものではなく、小品か、それより少し大きいという程度です。ブルジョワの家庭のプライベートな空間で、多少の教訓も感じられるという意味合いで、あまり邪魔にならず飾られるというのにはちょうどいいのではないか、と思えます。

2014年11月17日 (月)

生誕200年ミレー展─親しきものたちへのまなざし(4)~第3章 家庭・生活

この展覧会では、農民の姿を英雄として描いた「農民画家」としてのミレーという見方ではなく、「人間」ミレーの姿に焦点をあてて見直してみた時に、ミレーの作品の根底にあるものとして改めて浮かび上がってくるものは、家族や身の回りの人々に対する慈愛や望郷の念など、人が誰しも思い描く普遍的な思いであるとして、それを「親密性」というコンセプトにシンボライズさせて、前面に打ち出して展示を構成させている、そこで章立てしてまとめられたのが、この展示ということになるのでしょうか。

 

Milletcock「鶏に餌をやる女」(左図)という作品です。農婦が右側の家から出てきて庭に飼われている鶏に餌を与えている姿です。参考として、アルベルト・アンガーというスイスの画家が同じ題名で同じ題材を扱った作品を残しています(右下図)ので、ミレーの特徴がよく分かると思います。両者は構図も良く似ているのですが、微妙な点が違います。まず背景から見て行きましょう。両作品とも右側に家の建物があって、農婦はそこから出てきたように描かれています。しかし、アンガーの場合は背景全部が建物の壁になっているのに対して、ミレーの場合は建物の壁は場面中央左で切れて、その奥の空間、農地がはるかに覗いています。ミレーの場合は、これによって奥行きを見て取ることができます。さらに右側の建物の壁の描き方が極端に近いほど強調された遠近法で、奥行きをさらに印象付けています。これによって、餌やりをしている農婦が立体的に浮き上がってくる効果を生んでいます。さらに、餌を啄ばむ鶏の中で、置くに離れた2羽を置いてことさらに小さく描くことによって遠近感の強調を補強しています。この離れた2羽の鶏を配置することによって観る者の視線の方向を奥の空間に誘導し、その奥の空間と農作業をしている男性に導いているのです。これに対して、アンガーの農婦は立体的に浮き上がるというよりは背景の一部となって、全体の餌やりの光景のパーツとして構成されているようです。その違いは農婦の立ち位置の違いにも表われています。アンガーの農婦は画面中央に描かれています。これに対して、ミレーの作品では農婦は中央からやや右側にずれて描かれています。そのため中央はある種の空間となっています。それは、ひとつには上述の効果で視線を導かれた奥の農地で作業している男性と、遠くと近くで離れた空間であるが画面で向かい合うようなかたちになり、それを観る者に分からせることになります。これは、ひとつには奥の男性と手前の農婦を対向させることによって奥の男性に対して農婦が力強く映るという効果を生んでいることをあげていいと思います。しかし、それ以上にミレーはどうしてこのような構図にしたのかということで、じつは農婦を中心から右にずらして位置させて開いた中央の単に地面しか描かれていない空間を介して奥の男性農夫と向き合うようになっている、この真ん中の空間こそが、この作品の中心ではないのか、そう私は思います。何も描かれていない、いわば空虚ですが、私にはミレーはここに向けて、人物の配置だの、奥行きを強調した空間構成だのをしているように思えます。ここで、ここで参考にしたのか、今回は展示されていませんが有名な「晩鐘」という作品です。この作品では、中心をはさんで男女が頭を垂れて祈る仕草を描いています。実は、この「晩鐘」と同じように、この「鶏に餌をやる女」の男女は中心に向けて向かい合い頭を垂れているのではないか、と思われるのです。つまり、ミレーは農作業とか農家の生活を写すのではなくて、それに仮託して祈るという行為、つまりは宗教的なものを描いていたのではないかと、私には思えます。

Milletcock2_3それだからこそ、ここでの主役である農婦はアンガーの作品のように誰か分かるように写実的に細かく描写されるのではなくて、ミレイの特徴的な丸い造形で輪郭を靄がかかったようにぼんやりとさせて明確にしないことで、特定の個人をさすことなく人を一般的に表わすようになります。これは中世のイコンにも似た一種のパターン化と私は考えます。それが証拠に、この「鶏に餌をやる女」と同じような構図、構成で題材となっている行為とか舞台を変えた作品をミレーは何点も描いています。今回の展示でも、「子どもたちに食事を与える女」(左下図)という展覧会ポスターでも使われた作品もそうですし、「バター作りの女」も変形されていますが当てはまります。「ミルク缶に水を注ぐ女」は対向する人物はいなくなっていますが、おなじような構成です。

Milletbansyoそして、これらの作品で祈りの対象となるのは神様ということになるのでしょうが、この神様というのは伝統的な宗教画にあるような崇高で超絶的な神というのではなくて、もっと身近な存在であるように思えます。そのひとつは、これらの作品のサイズは様々であるとはいえ、1mにも満たない小さなものであることがまずひとつです。教会に飾られるような宗教画は大画面で見る者を圧倒し、畏怖の念を起こさせるものですが、これらの作品は小さくて、そういうことは起こりえません。そして、これらの作品で描かれている人々は神を仰ぐように見上げているのではなく、下を向いて祈っています。これは勿論、神の前で頭を下げているのでしょう。それだけではなくて、作物の恵みをもたらす大地への感謝というのか土俗的な信仰の名残のような身近な存在としての神様に感謝と祈りを捧げているように、私には見えました。「鶏に餌をやる女」で鶏に餌を投げ与えているのは、同時に恵みの大地に感謝の捧げものをしてもいるのではないか、これは穿ちすぎではあるかもしれませんが、この農婦の間近に空虚な中心としての祈りの対象となる神の空間をおくことで、それも故なしとはいえないと思いますし、それだけに神というものに「親密性」を与えることによって、作品を成立させることができた、と私は思います。

Milletchild_2さらに、画面を正面からの視点ではなく斜めからの視線で捉え、構成を左右対称にして均衡をはかるのではないものにしているということは、客観性を持たせるのではなく、主観的な性格を与えているように見えます。つまりは、農村の生活風景として、改めてひとつの完結した世界を画面に構築するというよりは、ピンナップ写真のように主観的に断面を切り取ったようなティストを与えるために、ある程度意図的につくられた視点と構図ではないか、と私には思われます。それは、従来の歴史画や宗教画のような余所行きのあらたまった画面とは違うし、かといってリアルな写実とも違う、農家の自然に生活らしさをミレーが、いかにもそれらしく、しかも農家に行ったことのないパリという都会の人にも見やすいようにつくった絵画世界だったのではないかと思います。それは、一種のノスタルジックなユートピアというのでしょうか。例えば、現代の日本において昭和30年代の東京オリンピックを日本が元気で希望に満ち溢れていた時代であるかのように、当時生まれていない若い人々までもが“昔は良かった”とでもいうように見ている。そういう異世界をミレーの農家を描いた作品は、結果として作り出そうとしたことになったのではないか、と私には思えるのです。その世界がリアルにフランスの田舎の農家の生活を写実したものでなかったからこそ、アメリカや日本でミレーの作品が受け容れられた。これは、もともと故郷というものを最初から持てなかったアメリカの人々や国を挙げての近代化政策で伝統的な農村を否定的に見ることを強いられた日本のエリート層にとっては、手頃な代替物としてうまくフィットすることができたのではないか、と想像できます。そこでは、ぼんやりとした描法や画面構成の不均衡さは、むしろノスタルジックなユートピアの幻想性として、人々の想像を邪魔することのない好ましいものに映ったのではないでしょうか。そして、身近なものとして神に祈るというのは、近代化され科学的な志向がいきわたろうとする風潮に敵対することなく、その渦中の人々の心の隙間に入り込むことを可能とした、とくにノスタルジックなユートピアに惹かれるような人々に対してはなおさらです。ただし、このようなことをミレー自身が意識して、それを意図的にやったということではないでしょう。それは、即品が制作された後に、尾鰭がついていってのことだろうことです。

Millettaneさらについでです。この「鶏に餌をやる女」の餌をやっている農婦のポーズは、「種撒く人」のポーズとそっくりです。だから、ミレーは明らかに、構図とか、ポーズとか、題材とかを使い回しして作品を制作しているのが分かります。

ミレー自身は、パリではやっていけず故郷にもどったはいいが、肖像画家として生きる道は閉ざされてしまう。たしかに、妻をはじめとして家族や親しい人の肖像を描くことによって、自らの特徴を自覚して、それを生かす方向というのがありえることに気付いたのではないでしょうか。ここで、どのような経緯でミレーが農村や農家を描くようになったのかは分かりません。しかし、結果として、そういう題材がミレーの特徴的な描き方が欠点とならない可能性のあるものだったことは確かです。そこで、ミレーの作風も件の肖像画から変化していきます。そのひとつが、肖像画では1人の人物を描くことであったのを2人以上の人物を、しかもその人物たちの織り成す関係を描くことになった点です。この兆候は、ミレーの妻を描いた肖像画にも生じていたと考えられます。それは、モデルである妻と制作者であるミレーの関係が作品に表れてきていたと考えられる。肖像画というのは言ってみればモノローグのようなもので、モデルの人物が大ホールの聴衆を前に講師となって講演をするようなものです。しかし、ミレーの描いた妻の肖像画は、ミレーと妻の対話のようなものになっています。それが絵を観る者にとっては、ミレーに代わって絵に対峙するわけで、そこで話しかけられているだけでなく対話をしているような親密性を感じることになります。その対話を画面の中に持ち込んで、画面の中の人物たちにそういう動きや表情をさせる形になっています。それが画中で人々が向き合う構図だったり、客観性を感じさせないバランスをはずした構成だったりであるわけです。そこに、これまで欠点て思われていた自身の特徴を個性の表れとして生かすことを方法論としてつくりえた、と言えるのではないでしょうか。

2014年11月16日 (日)

生誕200年ミレー展─親しきものたちへのまなざし(3)~第2章 自画像・肖像画

ミレーは職業的な肖像画家として120点ほどを残したそうですが、そのうち他人を描いて収入を得ることができたのは半数にも満たないそうです。展示の説明では、ミレーの肖像画は、親愛なる人々へのオマージュや友人への感謝の記念といった性格が強く、まず妻、そして家族、友人というように、その出来も親愛の度合いが左右している、とされていました。この美術展のコンセプトである「親密性」が肖像画に現れている、ということでしょうか。

Milletcity_2これは、視点を変えれば肖像画家としてスタートしたものの注文があまりなかったということではないでしょうか。本来ならば、肖像画の注文に応ずるために家族や友人の肖像を丁寧に描いている時間の余裕など取れないほうが画家として成功だったはずです。後にミレーは農民画家として方向性の舵を切ってしまうことによって肖像画を描くことはなくなって、元肖像画家という言い方を展示ではされていますが、これとてもミレーは肖像画としては生きてゆけなかったということの裏返しではないかと思います。つまり、肖像画家としてはミレーは失敗してしまったということではないのでしょうか。今回の書き方はかなり画家に対して辛く当たっているようです。しかし、例えば、「シェルブール市長ポール=オノレ・ジャバン」と題された肖像画です。シェルブール市からの注文によって描かれたこの作品に対して、市議会は受け取りを拒絶したそうです。ミレー本人はモデルであるジャバン氏を知らなかったということでハンデはあったかもしれません。それをも加味しても、それ以前のこととして、この肖像をみていると威厳ある市長の肖像という感じがしないのです。この人物は“とっちゃん坊や”に見えて、むしろ滑稽に映るのです。その大きな理由は顔と全身のバランスです。顔が不釣合いに大きく、しかも重過ぎるのです。それに対して首が小さく襟の大きさがやたら目立つし、中央下の手はまるで子供の手の大きさです。そのためもあって着ている服がお仕着せのように浮いてしまって、“馬子にも衣装”のような似合わない状態になってしまっています。そして、全体として色調が暗く、もっと人物に照明が当てられてもよさそうなものと、思ってしまうのです。そして、ミレイ自身がモデル本人を知らないのであれば、補助的に象徴的な物品とか、業績を背景に書き加えてあげればいいのに、そのような配慮も為されていません。それで、なおかつ市議会が主張していたのはシャバン氏に似ていないということです。このような作品が出来上がってくるというのであれば、肖像画の注文が来なくなるのは当然のことではないかと思います。

Milletprofileono_2いい意味でも、悪い意味でもこの作品にはミレーの特徴(限界)がはっきりと露呈しているように私には思えます。その大きな点は対象との距離感の取り方が上手くできていないということです。だから、全体としてモデルを画面の中にどのように位置づけ、どのようなコンセプトで描いていくかという構成が出来ていない。だから全体のバランスが考慮されていないように見えます。逆に対象との距離感がないということになれば、それはこの展覧会のコンセプトになっている「親密性」というように映ることになるのでしょう。それは、この作品でも顔の表情には結構力が入っていて、それがアクセントとか強調の閾を越えてバランスを欠いてしまっている印象を与えています。つまり、全体を考えずに気に入ったところに描写の力が入ってしまうところです。その一方で、その他のところは手抜きが明白に分かるような描き方なのです。そしてまた、とくに小物などの肖像にちょっとした装飾となるようなパーツとか衣服と肌の質感の違いのような細かなところを描きこんで効果を生む技術がない、もしくはそんなことをする配慮がないということです。ミレーという画家の作品全般に言えることですが、精緻な筆遣いということはまったく見られません。それはミレーができなかったのか(多分こっちだと思います)、そういうことをする気がなかったです。そして、鈍い、くすんだような色調です。

Milletbedonoジャバン氏の肖像は、私の見るに肖像画として失敗作だったのではないか、一方、上で述べたような特徴がジャバン氏とは逆に良い方に出たのがミレーの親しい人々、とくに最初の妻であるポーリーヌ・オノを描いた作品であったと思います。ミレーという画家は対象をリアルに写実するという志向はそれほど強い人ではなく、自身の描き方の特徴である角をとった、丸みを帯びた表現で描いてしまうところがあります。それが、モデルであるポーリーヌの容貌にうまく適合しているのが第一と言えます。比較的小さな顔(今でいう小顔)であるのが控えめに映り、貴婦人のような白粉をぬった白い柔らかな肌ではなく、化粧気のないすっぴん幾分か浅黒いが、若さと屋外で磨かれたような肌の生き生きとしたつやが日頃勤勉に働いていることを表わし、小顔に比例したような小作りの顔の造作と決して豊満ではないがふくよかな曲線で構成された、繊細な感じの目や鼻が素朴な愛らしさを演出して見せています。そのような、ポーリーヌの顔が他の部分とのバランスを欠くほど力が入って、いつもミレーではありえないほど精緻に描きこまれています。例えば、小さいながら凛とした細い鼻筋は、少しばかりの赤みがお全体に繊細な印象を与えていますが、ミレーの肖像で、これほど決然と鼻筋をくっきりと描いているものは、少なくても、この展示の中にはありませんでした。そして、れが、クローズ・アップのような効果を生んでいます。女性アイドルのグラビア等によく見られる顔に焦点を絞って、他の部分をボカしてしまうことで、見るものの主観的な視野になっているかのような錯覚を与えているのに、よく似た効果を生んでいるのです。この展覧会のコンセプトである「親密性」は、ここから生まれる効果もひとつの原因ではないでしょうか。どちらかというと、派手な顔立ちとはいえないポーリーヌの例えば鼻の線の繊細さなどは、このようにクローズアップしてあげないと目に入ってきません。その意味で、実際のポーリーヌがどのような女性であるかは分かりませんが、着飾った肖像画とは一線を画した、新たな方法によって彼女の美しさを観る者に印象付ける作品になっています。

それは、「親密性」というよりは、対象への感情移入と言った方が適切なのではないかと思います。理性的に画面を構成して客観的に完成度の高い、まとまりのよい作品を仕上げる、というよりは、多少のキズが生じてもこれだけは大切というところに集中して、それを強く打ち出すことによって作品を見るものに、強く訴えかけようとする、そういう傾向です。その強い訴えかけが、ミレーの場合には「親密性」という現われ方をしているのではないか、と私にはポーリーヌの肖像画を見ていて感じられました。

Milletdogポーリーヌの肖像以外でも、「犬を抱いた少女」という作品でも、丸い造形で単純化し、輪郭を明確に画することをさけて、靄がかかったようにぼんやりとさせることによって、写真のような写実的な画像とは違って、子どもに対する潤んだような視線で見つめるときの焦点のボケのような効果を生んでいます。つまり、親しいものが少女を見つめるときに、愛しいといった感情を交えずにはいられないような、いわゆる目を細めるときに映るであろう主観的な姿を結果として画面に現わさせている、と言えるのではないでしょうか。その時に、画面の少女が画面の外側である観る者に視線を向けているのが、親しく微笑みかけてくるような印象を与える結果となります。この作品を観る者は、そこで主観的な思い入れ、あるいは共感ともいえる感情を生み出すことになるでしょう。そのときに、画面構成がバランスを欠いているとか、描写が精緻でないとか、技量的な欠点は、あえて言えば、どうでもいいことになります。さらに言えば、そういう整ったものについて回る、完璧さゆえの一種の冷たさを免れている、“あばたもえくぼ”というような、不完全であるがゆえに却って愛おしい、という効果を生んでいる、というと言いすぎでしょうか。

決して天賦の才能に恵まれていたとは言えず、描画の技量に秀でていたというのでもなく、センスも鈍い凡庸な画学生の一人、つまりはその他大勢に埋もれてしまうような画家であったミレーです。彼は、ここで、凡庸で下手であるがゆえに、それを逆手にとって、中心地パリで活躍する画家たちとは差別化し、上手下手とは異なる尺度で人々に観させる作品のきっかけを、ここで掴んでいたというと、かなりストーリーを捏造しているでしょうか。ここでは、捏造ついでに、この時点では、ミレー自身は無意識で、そのことに自覚はないし、この作品だけの一発屋で終わってしまうおそれは多々ありました。

2014年11月15日 (土)

生誕200年ミレー展─親しきものたちへのまなざし(2)~第1章 プロローグ 形成期

Milletnudeman修行時代ということでしょうか。全体としてみると、勉強しているということで、この時点から突出していたという天才肌の人ではないということが分かります。多分、絵を描くのが好きで、また田舎の農家の暮らしから逃げたいというような若い気負いがあったと勝手な想像をしてしまいますが、田舎の農村では周囲の中では絵が巧みだったことを頼みの綱に、修行を始めたというのではないか。先生について学び始めたのはいいが、田舎の天才もパリに出てくれば凡庸な生徒でしかなかった、というところだったのではないか。そこで、田舎の農民によくある鈍重ともいえる粘り強さで修行に耐えていた(蔑視的な言い方です)という印象です。余計なことを述べているかもしれません。

「男性の裸体習作」として展示されていた作品。作品というより、それ以前の習作でしょう。ここに、有り余るほどの才能の煌きを見つけることは出来ません。凡庸というべきか、拙さをほほえましいとみるか。後年のミレーの作品からの視点で、どうこう言うのは穿ちすぎかもしれませんが、全体に大雑把で細かく描きこむことはしていないとか、頭がバランスを欠くほど大きいとか、そのようなことはこの時点のミレーに対して言うほどのことでもないでしょう。

2014年11月14日 (金)

生誕200年ミレー展─親しきものたちへのまなざし(1)

1年前に肺を患い入院加療して以来、久方ぶりの経過検査で、多少の不安もあって構えて望んだが、あっけなく終わり、拍子抜けすると同時に、ほっとしたものだった。それで、一気に緊張が解けてリラックスしたのと、中途半端な時刻に検査が終わって、時間が余ってしまったので、ちょうど始まってまもないミレー展に行ってみることにした。場所は府中市美術館という、職場からも、仕事上での外出先のついでに寄るのも中途半端な距離で、アクセスも便利とは言えず、わざわざ出かけるほどのことでもない、位置にあった。ちょうどいいということで、あえて行って見ることにした。

Milletposミレーの回顧展といっても、ジョン・エヴァレット・ミレイではなくて、ジャン・フランソワ・ミレーの方である。ジョン・エヴァレット・ミレイの方は、ラファエル前派などのグループを含めて何度も見に行ったし、ここでも何点かの記載があると。私にはジョン・エヴァレット・ミレイの方は比較的近しい画家であるのに対して、今回見に行ったジャン・フランソワ・ミレーの方は、名前だけは聞いたことはあるものの、疎遠にしている傾向の画家であったので、改めてどのような画家であるのか見てみる良い機会となったというわけです。

さて、ジャン・フランソワ・ミレーは、農民画家というかフランスの田舎バルビゾン村というところで農村の風景やそこで作業に勤しむ人々を描いたということで「落穂ひろい」とか「晩鐘」などいった代表作が日本ではことのほか人気が高い画家ということで、平日の昼間、しかも郊外の、必ずしも交通の便がよいとはいえない美術館にもかかわらず、かなりの拝観者がいました。しかも、展覧会は始まったばかりの時期で、人気のほどがうかがえると思われます。学校の教科書にも作品が載っている画家なのでよく知られた画家であることは確かで、しかし、それだけで、それ以上のことまでは良く知らないというのが、私の現状でした。

展覧会の主催者のあいさつでは、ミレーについて次のように紹介し、この展示の趣旨を述べています。“ミレーは、19世紀まで絵画の主題とはなりえなかった現実の農民の労働や生活の様子を見つめ、自然のままに描くことで、荘厳な農民画の世界を生み出しました。その背景には、フランス初の風景画派の誕生の地となったバルビゾン村の自然豊かな制作環境があったことは言うまでもありません。しかし、ミレーの作品理解のためには、ノルマンディーの海辺の寒村で過ごした子供時代の記憶、9人もの子どもを慈しみ見守り続けた父親としての姿も思い出す必要があります。幼い頃から育まれた自然に対する畏敬、祖母から教育を受けた身近な者への慈愛が、ミレー作品の根幹を成しているからです。本展では、初期から晩年までのミレーの画業を通観するするとともに、これまでいわゆる「農民画」の周辺作品と捉えられがちであった、家族の肖像、生活の情景や馴染みの風景を描いた作品にも改めて焦点をあて、画家ミレーの全貌を捉え直します。”府中市美術館の館長は、ミレーについての著作も出している方のようで、自身がミレーに対する思い入れが強いようで、この展覧会に関してひとつの明確なコンセプトを打ち出していて、それがあいさつ文にも窺われます。ただ、あいさつ文では控えめに述べられているので、いまひとつ伝わっていないようです。カタログでの説明を補足的に引用しておきましょう。“本展では、全てのミレー展を見尽くしたベテランのミレー・ファンにも注目してもらえる新しいコンセプトを用意した。それがミレー絵画における「親密性」である。「親密性」とは、一般の美術用語では主にボナールやドニ、ヴュイヤールたちフランスのナビ派の画家の描く対象への心理的な親密的傾向を言う。たとえばボナールの永遠のモデルとなった妻マルトとの愛情生活と、繰り返されたそのヌードのポーズへの執着などがその典型であろう。そして主に絵画の現場となったのは室内と庭である。ミレーの場合、ボナールやナビ派、また印象主義の「親密派」であるルノワールに先んじた妻子、家族、近隣のコミュニティーとの親密な関係を描くテーマ頻出していることは周知の事実と言えよう。これには若い頃の肖像画家としての優れたキャリアが姿を変えて現出しているのである。もうひとつの「親密性」と考えられるのはその造形的な側面である。つまり、その語は画家と対象との共感による距離の近さ、及び構図の親密性をも表わす。たとえばミレーの追随者ジュル・ブルトンやレルミット、ジュリアン・デュプレらの農民画とミレーとのそれを比べてみれば、画面空間の中の対象のヴォリュームが最大限に主張されているのがミレーであって、いわば画面に無駄もなく隙もない。従ってこの場合の「親密性」は、野外を背景にした農民画に顕著に見られる。それはいかにもミレーが農作業に精通し、農民の実在性を大事にしていたかの証である。”“テーマと造形性においてミレー絵画の「親密性」は、同時代のでも古典主義に傾いたコローや社会性を強調するクールベ、また他のバルビゾン派の画家たちにおいても群を抜いている。またミレーの場合、それは親密性のもうひとつの側面である、画面から決して欲求めいたものを発しない慎ましさを基盤としている。”実際の展示については、展示作品の配置や展示方法などで、この「親密性」のコンセプトに従った配慮がなされているようでした。それは単に作品を借りてきて並べるということにとどまらず、展示のコンセプトを読むという楽しみが加わることになって、とてもいいことであると思います。

ただし、私にはミレーの作品に上で説明されているような親密性は微塵も感じられなかったので、こういうのは簡単ではないと思います。

Milletblueonoさて、引用が長くなってしまいましたが、具体的な展示の内容に移っていく前に、私のミレーに対する概観的なの印象を簡単に述べておきたいと思います。参考に、「青い服を着たポーリーヌ・オノ」という作品を見てみましょう。これは、ミーが最初の妻を描いた肖像で、上述の「親密性」をあらわす典型的な作品と言えるものです。展示する側は感涙ものというような意図を持っていたようですが、私には、どこかちぐはぐな印象を受けるのです。全体のバランスが取れていないというのか。女性の髪形のせいなのかもしれませんが、頭部右側の描き方が極端な絶壁頭のように見えてしまうのです。右側の途中でスパッと切れ落ちてしまっているようで後ろ側の厚みが想像できないで、扁平のように見えてしまうのです。そして、頭部と首と身体がバラバラのように一体感が感じられず、それぞれの大きさがちぐはぐです。まるで、頭部、首、身体の別々のパーツがたまたま並べて置かれているような感じです。また、彼女の顔色は土気色というのか肌の輝かしさが感じられず、ちょっと病的な見えます。着ている衣装もタイトルは青い服とされていますが、青ではあるのでしょうが紺にちかいような黒っぽい色に見えます。全体としての色調が沈んでいるというか、くすんでいるというか全体に暗いのです。若い、しかも愛する妻を描いているのですから、全体を落ち着いた色調にしたかったのでとしても、どこかで華やいだ色をつかって、アクセントをつけてあげてもよかっただろうに、そんな配慮はされていません。何か悪口のようですが、親密性云々の前に、ミレーという画家はそういう配慮をしてあけられるだけの技量を持ち合わせていなかったのではないか、と私には展示されていた作品をみて強く感じました。端的に言ってセンスが悪いのです。色彩は、せっかくの絵の具のもともとの色を混ぜしまうことで鈍くさせてしまったり、各色の使い方でも、全体としてどんよりとしたものになって、作品によっては何が何だか不分明な混沌状態になってしまっている。また、個々のデッサンは苦労して修得したのでしょうが、それが全体としての構成で生かしきれていないのです。この展覧会でも、ギリシャ神話の「ダフニスとクロエ」の作品がありましたが、ダサイの一言しか言えないような作品です。そんなミレーが、そういうセンスの悪さという短所を目立たすことなく、むしろそれを長所として生かすことは出来ないかと探したあげく、ようやく見つけたのが農民画というものだったのではないか、バルビゾンの風景には鈍く、沈んだミレー天性の色彩感覚がハマるのです。また、空間構成をがっちりと画面に築くのが苦手なところは対象に迫るように近づくことによって、対象との距離を縮めで主観的な印象を生むことになります。映画初期の伝説で、リリアン・ギッシュという女優の美しさに心を奪われたカメラマンが我知らず彼女に近寄ってしまったことによって、クローズアップという撮影技法が生まれたといいますが、ミレーの場合も対象との距離感を上手く取れないことが幸いしたのではないか、そう私には思われます。つまり、ミレー本人は、それほど頭のいい人であったように思われませんが、結果としてコンセプトが巧みだったことによって限定された技量を最大限に効果的に生かすことで作品を世に知らしめることが出来たひとであったという印象です。

なお展示は、次のように章立てされていたので、それに従って個々の作品を見て行きたいと思います。

第1章 プロローグ 形成期

第2章 自画像・肖像画

第3章 家庭・生活

第4章 大地・自然

2014年11月13日 (木)

松宮秀治「文明と文化の思想」(36)

西欧近代が「文明」と「文化」の双方を相互補完的に必要としたのは、近代が進歩主義の補完物として保守主義を必要としたからである。近代とはその根本に社会変革、技術革新、自由主義経済という進歩主義と密接にかかわる人間活動の新領域の開拓を前提として生まれる社会体制の創出であるが、一方においては現存制度の維持、歴史的価値の保存という変化を欲しない傾向、つまり自然的な伝統主義と進歩主義によって取り残される人間の精神的、内面的な価値を理論的に体系付けることで生まれる、いわゆるマンハイムの「近代的保守主義」が相互補完的に支える社会体制のことでもある。「近代」とは科学技術の進歩と政治機構の改良だけで成立しうるものではなく、人間精神の内面的な充足、いうなれば芸術的、宗教的、教養的な充足という双方向での「進歩」のうえに成立するものである。

いうなれば西欧近代とは啓蒙主義とロマン主義、合理主義と反合理主義、進歩主義と保守主義が一見それぞれに独立した要請をもって相互対立、相互敵対しているようだが、実のところはそれぞれが相互補完的に作用することで、ひとつのまとまりを成している時代のことである。つまり「文明」と「文化」の共存時代である。それは「文明」の外面性と「文化」の内面性が対立的、敵対的に分離して存在しているのではなく、相方がそれぞれに不足している所を相互補完していることで成り立っていることを意味している。これらのことを総合して別の言い方をすれば西欧近代とは、「文明」と「文化」が相互補完的な蜜月状態にあった時期を意味するものといえるのである。

すでにマルクス主義のような進歩主義の極点が保守主義の価値を無化する論理体系を構築することで、「文明」価値の優位性と独立性の道を拓き、また帝国主義的な利害関係のなかでフランスやイギリスのような先進国民国家がドイツのような後進的民族国家の「文化」に対する「文明」の優位性をイデオロギー化することで、さらには人類学や民俗学が「文化」概念の相対化を促進させることで、「文明」と「文化」の相互分離をもたらし、結果的に「近代の終焉」という西欧近代の弱体化と相対化をもたらすことになる。

科学と技術の発展は科学革命や産業革命と呼ばれるほどの成果をあげたに留まらず、科学研究領域の拡大と専門分化をもたらし、技術開発の加速度的進歩は人間生活の全分野において予測を越える恩恵を与えた。だがそういった産業、医療、交通、通信、情報技術などにおれる恩恵的発展は、大量殺戮、大量破壊兵器や爆弾などによって、常にその価値を相殺される側面を持つにいたった。また原子力発電の恩恵もその故障や事故によって相殺されるという側面をも伴うものである。このようにして近代の最大の価値であった「進歩」と「文明」は、当初の楽観主義によって支えられた信頼に疑念が投げられるようになる。それは科学技術の進歩、文明の進歩はかならずしも人間の幸福を増大させるのに貢献するだけでなく、人間の不幸の増大の要因ともなるという認識の発生と浸透でもある。「文明」がこのように楽観的な自己信頼のなかに否定的な自己不信を抱き始めたとき、内部的な価値分裂を開始させるだけではなく、「文化」とも決定的な分裂を生じさせてくる。なぜなら「文化」そのものも自律的な人間の自己展開の産物であるゆえに、「科学」や「文明」の否定的な側面を救済する能力を持ち合わせていないからである。つまり両者とも自己絶対性、自己優越性のみを基盤にして成長してきた思想であるゆえに、内省機能をもたず、価値の相対化によって存立基盤を失うと同時に、自らを成り立たせていた理念を失ってしまうからである。より具体的にいえば、「文明」はアメリカ合衆国やロシア連邦、日本という新興国の胎頭によって、「文明」の独占を維持できず、ヨーロッパの地位低下が必然となったからである。言い換えれば「西欧」と「近代」は等記号で結ばれたものとして、非西欧圏に対して「文明」の理念をもって優越性と指導的位置を維持してきたのだが、その「文明」が非西欧圏においても容易に育成、成長が可能であることが明らかになったとき、「近代」は絶対的な価値ではなく、相対的な価値になってしまったのであった。

「文化」においても同じことが起こった。「文化」も歴史学、人類学、民族学によって相対化を余儀なくされてくると、西欧的、近代的理念の支柱を失い、個々の国家、民族、集団の価値へと分解を開始する。理念価値としての「文化」のエリート主義的な特徴が相対化され、個別的な人間集団の生活様式や習慣といった集団的関心へと分解されていくとき、それは「文明」のように漸進的な自己縮小の経過を辿るのではなく、独自の概念転化で生き残りの道を開拓していこうとする。

言い換えれば「近代」が西欧世界の独占物でなくなり、非西欧圏へ転移されることで、「文明」も「文化」も西欧の独占物ではなくなり、西欧人の絶対的な自己優越意識の徴表概念ではなく、相対的な価値概念となり、歴史学や社会学の学術用語のなかで適宜その意味範囲を規定されるものとなる。本書がこれまで扱ってきた「文明」「文化」の概念は西欧近代が自己価値と自意識の認識のために学術的に規定した概念ではなかった。つまり世界全域のどの時代、どの地域の人間の集団的行動様式にも対応させられてきた文明や文化の概念でなく、まさしくそこから区別されるために括弧つきにされるところの西欧近代のみが独占してきた絶対的な価値概念としてであった。

「文明」と「文化」がこの絶対的価値を失うのは、第一次世界大戦期の英仏の「文明」とドイツの「文化」のイデオロギー対立を契機とする西欧近代思想の分裂、そして戦闘期と第二次世界大戦期に至る西欧の衰退のなかにおいてであった。この西欧の衰退と「文明」と「文化」の絶対的価値の喪失を象徴的に明示してくれるのは、シュペングラーの『西洋の没落』とトインビーの『歴史の研究』である。相対化された文明と文化はもはや括弧付けを必要としない。文明はシュペングラー的な自己縮小とトインビー的な自己拡大というそれぞれ相反するベクトルの方向をとりながら相対性のなかで休眠状態に陥り、夢想状態のなかに過去の栄光をとどめる概念となってしまった。

つまり、シュペングラーとトインビーの「文明」「文化」の概念の相対化とは、それがもはや「ヨーロッパ的伝統の連続性」の指導原理でもなく、ヨーロッパの優越性やヨーロッパの世界支配の正統性を保証する価値概念ではなくなったことを意味する。ただ、それがただちに「西洋の没落」と第三世界の急速な興隆や非西欧世界の優越性や指導性への移行を意味したのではない。それは「ヨーロッパ的伝統」の正当性の嫡子とはいえないが、その庶子として、それを受け継ぐべき権利を十分に主張しうるアメリカやソヴィエト連邦が依然として、「西欧文明」の優越性を継承保持する立場にあったことを意味する。

だが、第二次世界大戦後の「冷戦」状態の進行とその構造は、「世界史」の指導理念と目標を「文明」軸の理念と「文化」軸の理念に分断させてしまった。社会主義陣営は特権的少数者による世界支配「革命」という変革を理念とするために、最大多数の最大幸福を指導原理とする「文明」価値の推進者となり、自由主義陣営は「世界史」が実質的な歴史的実践のなかで築き上げてきた諸国民、諸団体の国家体制、国家伝統の維持を目指すがゆえに、「文化」価値をその指導原理、理念とする立場に立つことになる。このように冷戦時代は「ヨーロッパ的伝統の連続性」を支えた「文明」と「文化」の価値理念が、米ソにまで拡大された「世界史」の理念として、世界を支配し、方向付けする力を保持していた。しかし、その指導原理、理念が、「冷戦」という世界不安構造のなかで、その相互補完性を完全に失い、徹底的な対立関係に置かれる。当初、全人類の解放の導き手とみなされた社会主義が、その「革新」の理念を推進させえないだけでなく、逆に一党独裁という権力維持のみの実践過程のなかで、「文明」理念が最も敵対視した自由の抑圧と専制主義へ転落することで、自由主義体制に敗北してしまった。一方、「文化」の擁護に回った自由主義陣営は、資本主義と国家権益の推進のなかで、社会主義が「進歩」主義から「保守」主義へ急旋回したのと真逆に、「保守主義から「進歩」主義へ方向転換し、グローバリゼーションという金融資本の世界化、貿易の国家間障壁の排除、撤廃ないし軽減、通信や情報伝達の一元化を提唱することで、「保守」主義を「革新」主義的な方向に転換させるという逆転現象を招来させている。これによって「文明」という概念は死語化の方向を辿り、代わって「グローバリゼーション」が「世界史」の指導原理、指導目標のごとき役割を演じる振りをしている。一方、「文化」も「文明」と同様、もはや自己の優越的価値を歴史哲学、政治哲学が領導してきたような価値概念でなく、せいぜい自国の文化財が「世界遺産」に認定、登録されたとき、ささやかな自意識の満足としかならないような矮小な価値概念に成り下がっているか、カルチュラル・スタディーズという学問に整備されてきている。

 

2014年11月12日 (水)

松宮秀治「文明と文化の思想」(35)

「文明」「文化」という概念が本来このようにヨーロッパの独占物であり、西欧世界の非西欧世界に対する優越性の証明のためにつくられた名辞であったものが、非西欧圏の歴史や社会、人間活動の成果にまで拡大、適応されることによって、西欧的価値領域を越えたものになってくるとき、「文明」と「文化」の概念は複雑な概念複合を果たし、概念の多義化を招くことで、両概念の関係の理解を困難なものにしている。この複雑に錯綜してしまった「文明」と「文化」の関係を整理し、さらにはその両概念の関係の変化の諸相と両概念のイデオロギー的特質の同不同を整理してみる必要がある。そのために「文明」と「文化」の概念理解を四つの位相から考えていくことにする。そのひとつは「文明」を「文化」の上位概念とする見解、第二は逆に「文化」を「文明」の上位概念とする見解、第三は「文化」と「文明」は敵対的に対立するとする見解、第四は「文明」と「文化」を同一的、同義的な概念とする見解である。

そしてさらに、文明と文化の両概念の関係が、ヨーロッパの文明、文化の連続性と統一性というイデオロギーとどのように連動してきたのかということをも考え合わせてみたい。この「文化」と「文明」の両概念の関係のありようそのものがヨーロッパ文明の連続性というイデオロギーとも密接に関わり、バラグラフが言うように19世紀歴史学のヨーロッパ的伝統の連続性という学説として、次に掲げる三つの歴史学イデオロギーと深く関わっているものと考えられる。ひとつは、西欧近代の歴史的な起源をギリシャ・ローマという古典古代の合理主義的精神と人間主義のヒューマニズム思想に由来する「進歩」精神の文脈のなかに見い出そうとする「ルネサンス・イデオロギー」である。ふたつめは、真の西欧近代精神の起源をゲルマン人の「自由」精神に求める「ゲルマン・イデオロギー」である。三つ目は、西欧近代精神は近代人の自律した市民意識が、人間社会の新しい存在形態として、主権在民の共和主義的な社会統治機構としての国民国家の完成を目指すか、あるいは市民的な個人としての連合よりも、言語や伝統の共通性に支えられた民族集団の精神的連帯のなかに、人間社会の新しい統治機構の強化を目指すところの、いわゆるナショナリズム思想に基づく「ネイション・イデオロギー」である。

西欧近代が創り出した新たな価値とは、すべてがそれぞれに自立的価値を主張し、それぞれが達成点をすぎると、外からの抑止機能を欠くために、独自の暴走と逸脱の本性を表面化させてくる。西欧近代が創出した「科学」や「芸術」といった価値も価値の自律性を要求し、道徳価値や宗教価値、社会効用価値からの独立を主張し、自己の内的な価値の発展のみを求め、外からの干渉や抑止に鋭敏に反応し、それを極力排除し、自己の価値体系を完結させようとする。その特性は「文明」も「文化」も同じである。両概念がそれぞれに自己の優位性を主張するとき、一方が他方を自己の下位概念ないしは内包的従属概念としようとする。潜在的には概念分化や対立化の要因を内在させていたとはいえ、西欧諸国が帝国主義的な利害闘争を文明と文化のイデオロギー的な思想闘争に転化させていく以前の段階では、それぞれが他方を自己の内包領域に取り込む働きを示し、相互補完性を維持してきていた。

「文明」と「文化」が相互補完性を維持する必要性は、西欧近代が「世界史」という虚構の人類史モデルを創出し、西ヨーロッパ世界にのみ進歩主義的で自由主義的な歴史形成能力を認め、残余の地球上のいかなる地域や国家にも歴史形成能力を認めず、そこに存在するのはただ「停滞」と「隷属」のみで、「文明」や「文化」という人間の自己完成を目指す歴史形成意志が欠如した世界として自己を対置させたためである。言い換えれば「世界史」とは超越的な絶対者の意志の支配を拒否した人間の自由意志が自己の歴史と自らの選択意志で設定した理念や目標にそって世界を変革していこうとする歴史創造の意志なのである。したがって西欧近代の歴史とは過去に起こった出来事や事件ではなく、進歩への意志を持った人間が進歩の目標に照準を合わせた理念を価値規準として過去の人間活動を再整序したものである。つまりそれが「文明」であり「文化」なのである。

したがって「世界史」や「文明」「文化」という概念は本来的には、今日の歴史科学や社会科学が目指すような価値判断を排除し、可能な限り中立的な方向を目指すものではなく、西欧近代の優越性を証明する価値概念そのものだったのである。西欧の優越性を西欧人の空想的な思い上がりではなく、実体的で明証性のあるものにしていくためには、ヘーゲルに代表されるような「世界史」という歴史哲学的な思考によって、「進歩」と「自由」という観念と実体的、実証的な歴史的制度化の軌跡を西欧社会においてのみ見い出していくことが必要であった。そしてその西欧の実体的な優越性を観念的な方法ではなく具体的で明証性のある方法で呈示するために、「文明」と「文化」が西欧近代の人間活動全体を包括する概念が選ばれ、育成されたのである。

西欧近代の歴史思考の革命的な独自性は、人間活動の歴史的変遷に「進歩」という観念を導入したことである。前近代と非西欧世界の歴史観はすべての歴史的な価値規範と価値尺度は過去においてすでに先験的に提示されており、人間活動におれる進歩を想定することも、また進歩に価値を置くという思考も発生させなかったところにその特徴が存在する。

 

2014年11月11日 (火)

松宮秀治「文明と文化の思想」(34)

「文明」「文化」の概念はその生成期にあっては、「世界史」の理念的性格に基づき、文字通り世界全般と人類全体を一応は形式的に前提としていた。しかし、「世界史」が非西欧圏を「停滞」「隷従」世界と規定し、人類史的な発展から排除し、新しい人間価値の創造と自由精神を西欧世界に限定することで、自由の理念を基盤とする「文明」と「文化」を西欧世界の特権的な徴表としていったのである。

たしかに文明も文化もその概念の生成期にあっては、ともに人間の「ふるまい」の洗練化、人間の社会行動におけるマナーの確立にかかわる概念であったが、概念の確立期にあっては個人の行動様式の範囲を越えて、社会集団の生活の全様式の比較とその序列化の指標とされるものになってきた。そしてそれは西欧社会内部の社会集団内部の社会集団の比較、社会集団間の比較、社会集団の価値の序列化にとどまらず、国家間の自意識の優劣比較や先進性の対抗意識を生み出してくる。だが文明と文化の概念が西欧社会内部での諸集団、諸国家の優劣比較にとどまらず、西欧世界と非西欧世界の関係に拡大されるとき、西欧の社会価値が全世界の指導価値となり、西欧が全世界の支配者的位置を要求する正当的な権利を有しているという意識をもったことが、「世界史」の運命を決定してしまった。

文明、文化が今日でも価値概念であることには変わりはないが、しかし、その価値は拡大され、分散化され、ほぼ実体を失ってしまったものになっているが、19世紀末に至るまでは西欧近代が独自に創出した「芸術」「科学」「科学技術」「歴史学」「古典学」「哲学」といった近代の知的営為と、「進歩」と「自由」という理念を指標とした人間社会の道徳的規範から導き出された社会の規範価値とが不可分に結合した概念であった。「文明」や「文化」とは西洋近代が世界史的な過程で自己に与えた名誉であり自負心であると同時に、西欧近代の諸国家が国家間の競争意識において自己の存在意義をそこに依拠せしめた自己価値の概念体系でもあった。

繰り返して強調しておきたいことは、今日では文明、文化の概念が全人類の人間活動や生活様式、慣習やしきたりなどの全体を覆うものとして使用され、さらには高度な人間活動の価値としての価値評価からも解放され、最終的には動物の生活様式とは区別される人間生活全体を意味し、言語をもつ人間すべての生活様式全体にまで適応される概念にまでなってしまっている。つまり、それは社会を構成している人間集団の共通の生活様を意味するものになってしまったが、本来的にはきわめて高い価値概念であり、特定の人間集団のみがそれに達しえた最高の精神的所産を意味するものであった。もっと端的に言えば、それは西欧近代が人間の最高目標として設定した「進歩」と「自由」の理念にもとづいて新たに創出した人間価値であり、原始社会や未開社会、封建的前近代社会、非西欧世界が知らなかった人間価値を提唱する概念だったのである。

言い換えれば、「文明」とは原始や未開に対するアンチテーゼであり、前近代社会や非西欧社会に対するアンチテーゼであり、地域的な閉鎖集団の精神的営為に対するアンチテーゼとしての普遍的で世界的な精神的営為を意味するものであった。また「文化」とは単なる日常的な生活様式とは次元を異にする、精神的、理念的価値の実現であり、哲学、科学、芸術、宗教等民族が生み出した最高の精神的所産を意味するものであった。いいかえればそれは「さまざまの生(生活)」のかたちではなく、「生(生活)以上のもの」としての精神的産物であり、創造的感性や思索的知性が客観的に軽形象化されたものである。もっと具体的に西欧近代化の次元でいうなら、それは「進歩」と「自由」の理念を歴史的に形象化して行く「ルネサンス・イデオロギー」と「ゲルマン・イデオロギー」の共有財産化であり、民族を国民の自負心の理念的な指標とする「ネイション・イデオロギー」の共有から生まれた西欧世界の自己主張によって生み出されたものである。

 

バラクラフは「転換期の歴史」において、「ヨーロッパ的伝統の連続性」という虚構を指摘する。バラクラフはヨーロッパ的伝統の連続性、西ヨーロッパ文化の統一性と西ヨーロッパ文明の連続性を19世紀の歴史科学の成果として、そのひとつの「学説」と考えた。言い換えれば、彼はそれをランケからアクトンといった19世紀の専門歴史学がつくり出した「学説」として問題にしたのだが、それは彼の考察をはるかに越えて専門歴史学の範囲に留まるものではない。広大で、深い根を持つ問題だったのである。それは西欧近代がキリスト教の世界年代記にもとづいた神的な「普遍史」に代えて人間的で、世俗的な「世界史」を創出していく過程で、西欧世界の起源をどこに求めていくかという問題と、「世界史」を成立させることのできる歴史的原理として何を設定するかという問題に帰着するものである。キリスト教的な「普遍史」の歴史を動かす原理とは神の摂理である。神の摂理とは神が自ら創造した被造物を救済へと導く永遠の計画を意味し、人間の行動の意志もその摂理の範囲内に含み込まれているが故に、またさらに人間の自由意志も行動の自由も普遍史的な視点からは、神の計画の中に含み込まれてたものであるがゆえに、本質的には存在しないものであり、被造物の立場からすれば、大いなる予定調和の中で規定された運命を受諾することを意味したのである。それに対して「世界史」とは人間が自らの自由意志で、自らが設定した「進歩」という理念に向けて自己発展の精神を涵養していくプロセス全体を意味する。

「進歩」と「自由」の理念が存在せず、「停滞」と「隷従」にとどまる非西欧世界は、「文明」や「文化」価値に結び付く歴史的伝統を形成しえなかったというのが、「世界史」の観念の成立の前提であった。バラグラフはさらに批判を一歩進めてヨーロッパ文化の統一性やヨーロッパ文明の連続性をギリシャ・ローマ世界と接合させようとする試みだけでなく、新たにそこに「キリスト教文明」という要素を付け加えようとする試みをも批判する。

このようなバラグラフの見解によれば、啓蒙主義の歴史哲学が創出した「世界史」とは、人間が自己の「自由」を自然権と考えることで、自由の意識を拡大させ、自由の意識を実現させうる社会状態を「文明」の段階、「文化」の段階と規定しえた歴史意識の産物であったということである。したがって啓蒙主義の歴史哲学の構想の中では、「文明」と「文化」は西欧近代のみが独占しうる特権であり、価値観念体系であった。ところが19世紀において専門化していく歴史学は、「文明」と「文化」により大きな栄光と威厳を与えるため、「西欧近代」を生み出した先行する時代にまでこの両概念を適応させていったのである。それがバラグラフのいう「ヨーロッパ文化の統一性」「ヨーロッパ文明の連続性」という「学説」を生成させてきたヨーロッパ・イデオロギーあるいはヨーロッパ・ドグマというものであった。

2014年11月10日 (月)

松宮秀治「文明と文化の思想」(33)

伝統的社会にあって人間は社会秩序の中で職能的な義務を果たすだけでよかったが、近代社会では職能的義務に加え、社会全体の理念的な方向付けにも参加しなくてはならない。伝統社会では身分という分割された範囲内で、社会全体の秩序とは直接的に連動しない部分的役割を遂行するだけで社会気役割を果たしえていた。たとえば戦争に際しても兵役義務を負わずに済んでいた。しかし近代社会では人間は社会全体の問題への関与が要求される。ということは伝統社会にあっては身分的に構成されていた社会的特権が平準化され、万人が社会秩序の維持に均等化された義務を負っていなければならない。社会全体の問題に均等な義務を負うということは、伝統社会におけるような身分的に分与された関心だけにとどまっては、社会全体の問題に対処しえないということである。社会全体の問題に対処しうるためには、職能的な社会対応ではなく、全体的社会人、つまり「市民」として社会に対応していくということである。

人間が伝統社会の身分的な職能人から市民に転換するということは、人間が全人格的な存在として相互に対等の関係で社会全体の「理念」の完成のために共同の義務と責任を負っていくことである。市民という存在の成立をポジティヴに評価すれば、それは人間という存在を身分的な拘束から解放し、人間を対等で自由な存在にしたことであるが、ネガティヴな評価をすれば、形式的には社会理念の共同の推進者の位置に押し上げておきながら、実質的には伝統社会の身分的差別以上の、より深刻な階層的差別に人間が陥らせたことである。近代社会、市民社会は自然権という観念体系のもとで、生命権、財産権、職業選択の自由、法の下での平等、言論の自由という総合的な権利を保証されながら、財産、社会的地位、教育や知性の差による、伝統社会以上に複雑な差別を生み出し、それを助長させる要因をつくり出すといえるのである。

近代社会とは人間が職能的知識のほかに、社会の理念を理解する学識を要求される社会である。なぜなら近代とは社会がそのときどきに求める「イデー」を理解する能力と関心が社会的成功にとって最も必要とされるからである。近代社会とはその意味でも「イデオロギー」支配の時代なのである。別な言い方をすればイデオロギー支配とは、社会がそのときどきに求める「イデー」をイデオロギー化、つまりイデーを学識化して、集団や組織に所属する者たちが社会を支配することである。近代社会とは、思想家が「イデー」を見つけ出し、政治家、官僚、学識者がそのイデーをイデオロギーとして組織し、現実化していく社会である。経済人がこれに加わりうるのは、政治家、官僚、学識者を自らの活動領域内に取り込みうる範囲内においてである。社会主義や共産主義国家がコミュニズムという理念を組織化し、現実化した共産党の一党独裁に陥るのは必然であったし、天皇制国家イデオロギーを軍国主義イデオロギーへ再組織しえた軍部と右派知識人が戦前、戦中の羅本の政治体制を独裁支配しえたのも、近代イデオロギー支配の必然の産物であった。同様、近代が少数の成功者層と多数の脱落者層を形成していくのも近代のイデオロギー社会の必然の帰結なのである。なぜなら近代とは「イデオロギー」の支配者が世界史の支配者となり、それに参画し得ない者たちは世界史から脱落していく存在となるからである。

伝統社会にあっては、社会構成は身分的なヒエラルキー構造に則して組み立てられていたものが、近代社会では理論的には身分的階層は廃棄され、社会の全構成員たる「市民」が対等の関係で社会理念の完成に関与していくものとされるが、実質的にはその市民階層を突き抜けた特権的な上層階級と市民段階からドロップアウトしていくという上下二層への段階に分極化して投げ込まれることになる。近代社会が理論的には平等な市民社会によって構成されているという建前をとっていくのは、そもそも「市民」という概念自体が近代社会の民主主義的、共和制的理念から発しているものであり、その理念の理論化が近代社会のイデオロギーであったということからくる必然の結果である。「市民」とは、理論的には伝統的な権力構造における臣民と平民という身分的規定から解放され、また宗教的な権威社会の被造物という規定から解放され、自律的な意志を持った独立人として、人間的には自然権に由来する個人の「自由」意志に覚醒し、社会的には歴史の「進歩」に共同参画するという意識を共有している人々を意味する。

近代社会内ではこの「進歩」と「自由」の理念の実現を阻む存在が旧体制として批判され、この理念を理解し得ない者たちは、啓蒙され、教育され、文明(文化)化されるべき存在と考えられる。西欧社会にあって近代化とは、この「進歩」と「自由」という二つの中心的な理念をいかに思想的に自己の内なるものにしていくかという「近代イデオロギー」形成過程を意味する。それは逆説的ながら人類とは普遍的に同一の存在であるという超歴史的な規定と価値を新たに与え直されることで同じ価値を享受しうるという理論的な建前としての「近代イデオロギー」の確立過程のなかに置かれることになる。つまり再び人間存在の本質は歴史的に規定されるという歴史主義的思考によって達成されてくるという理論の鋳型のなかで作り直された存在になる。西欧社会が東洋社会と決定的に異なるのは、「自由」という観念をギリシャの共和制の理念から引き継いだという「ルネサンス・イデオロギー」とそのもうひとつの源泉であるゲルマン的自由という虚構された観念を自己の内在的な資性とすることで、「ゲルマン・イデオロギー」を歴史的実体とすることに成功した歴史哲学的な「世界史」を虚構しえたことである。

東洋蔑視論と西欧優越論の論拠と論理構成がどのようなものであったか考えてみたい。それはまずはアジアの停滞とヨーロッパの進歩、つまり一方の非歴史性と一方の歴史性という信念に由来する。停滞と進歩を分かつものは自由の意識の覚醒と有無にある。東洋にあっては専制主義が自由を抑圧し、西洋にあっては共和制と民主制が自由の意識を育成し、拡大させる。だがより本源的には、東洋が自然の豊かさのなかに埋没し、専制政治のもとにあっても、服従を代償とすることで生存を保持しえるのに対して、西洋は苛酷な自然との闘争の中で、自己の力だけを頼りに闘争精神の気性と状況を改変していこうという進取の気性、つまり「自由」と「進歩」を育んできたというのが、東洋に対する西欧の優越意識の基本をなしている。つまり専制支配に対する服従と自然や状況への適応のなかで、変革と進歩の意識を喪失した東洋世界は、いうなれば「先天的奴隷人」的な状況を甘受している存在である。

ヘーゲルやミシュレに代表される1830年代以後のヨーロッパの歴史哲学の「世界史」とは、このような西欧の優越意識の完成形である。この西欧の自己優越意識は武力や軍事力といった科学技術力の優位によって後押しされたものであったとはいえ、本質的には「近代精神」の確立を通じての西欧人の自己意識と自己価値の発見に由来するものであった。それは西欧の啓蒙主義思想によってもたらされた宗教社会と伝統社会の権威主義的な思考から脱却し、新たに人間精神の自律性の自覚に由来する社会の内部革命であったが、その社会枠が西欧内部にとどまらず、西欧圏を越えて世界規模へ拡大されてくると、西欧世界の自意識は西欧内部の問題への対処という範囲を越えて、非西欧世界を視野に入れた対外的な問題への対処という、より広範囲な自意識の形成が必然のものとなってくる。それはアルプス以北に限定されたヨーロッパ世界を地中海世界圏と結合させること、つまりゲルマン世界とラテン世界を地理的に一体化させるだけではなく、歴史的にもギリシャ・ローマを完全にヨーロッパの内部世界とする作業である。つまり、これが「ルネサンス・イデオロギー」と「ゲルマン・イデオロギー」の結合である。

このふたつのイデオロギーを支えている中心的なイデーは、「進歩」と「自由」という理念である。そしてこの「進歩」と「自由」という理念発達は確かに非西欧世界に比べて圧倒的に不利な西欧世界の生存環境や条件との闘争に由来するとされる「自主独立精神」と関わるところの多いものではあっても、この理念を西欧世界の自意識にまで育てあげていったのは、東洋世界や大航海時代以後に新たに視野に入ってきた非西欧世界の自然の豊饒な生産力に蓄積された富や伝統の豊かさに対抗する自己のアイデンティティの拠り所の形成であった。西欧人の「西欧」とのアイデンティティを理論的に保証しえたのは「市民」という意識の成果であった。民族移動期からどうにかメロヴィング期、カロリング期によるヨーロッパの政治的統一の方向性を見い出したとはいえ、その政治的な独立基盤も弱く、文化的には「異教」であるキリスト教に依存することで精神的結合を果たさざるを得なかった西欧世界が精神的にも文化史的にも東洋世界に対抗しうるだけの自意識を確立していくためには、ギリシャ・ローマの古典古代の歴史と精神、さらにはキリスト教と歴史的伝統を自己のものとしていかなければならなかった。このことによって西欧は「自由」と「自然権」という社会生活上の生存の保証を得ることができた。そしてこの生存の保証を自己の権利の基盤にしえたのが「市民」であった。

 

2014年11月 9日 (日)

松宮秀治「文明と文化の思想」(32)

私たちは一般的に言って学問というものは客観的で公平な認識を目指すものと考えている。いうなれば、学問研究とは極力主観的な価値判断をおさえ客観性を目指すものであると思い込んでいるのである。いわゆるウェーバーの「価値自由」概念の一般化によって、社会科学や人文科学といった研究者の個人的経験や価値判断が入り込みやすい分野では、経験的事実を客観的・科学的思惟で整序することで、主観的価値判断の領域を可能な限り排除し、普遍妥当な真理へと近づける努力がなされるべきであるという考え方である。言い換えれば、存在するものを研究する経験科学は、存在するものをかくあるべしという理念的な指標で判断すべきではなく、存在するもののもつ普遍妥当な客観的真理の発見を目指すのが、科学的な「価値自由」の到達目標であるということである。したがって科学が科学としての任務を遂行していくのは、認識を歪める価値判断を積極的に排除していくべきであるとする。この概念は日本語では価値自由とか没価値判断とか価値判断排除とかさまざまに訳されてきているが、その概念は十分に浸透しているので、私たちは学問研究、つまり科学と認知される分野の活動を客観的真理の探究活動と考えることに慣らされている。したがって私たちは経験諸科学がその成果として公表するものを客観的事実として受け止めるのである。

西欧近代にとってはまさしくギリシャ・ローマ世界と同化することが第一義的な関心となり、それを実践することが意識的にも無意識的にも近代的価値創造の基礎となったのである。しかし、こういったギリシャ・ローマという古代回帰の精神は西欧近代の諸理念と矛盾しているように思える。なぜならルネサンスの人文主義によって再発見された古代価値も17世紀の「科学革命」によって、古代の自然観、宇宙観の限界がすでに乗り越えられてしまったし、また同時期の「古今論争」によっても、ギリシャ・ローマという過去のうちに真理を求める神話ははっきりと否定され、古代崇拝神話は崩壊してしまっていたからである。

それにもかかわらず18世紀末から19世紀に至って再びギリシャ・ローマが西欧近代の人文諸科学の中心的な関心の対象となってくるのはなぜだろうか。言い換えれば大航海時代のいわゆる地理上の諸発見の時代に拡大する世界を実感し、知的関心からそれに対応して外に向かって拡大を開始しながら、18、19世紀という近代の隆盛期にヨーロッパの知的関心はなぜ内向きとなっていったのかという問題である。航海者や征服者たちが求めたのは異国の財宝であったし、宣教師たちが見い出したのは呪術師や魔術師を畏怖する未開人と偶像崇拝と迷信のなかで理性を失っている異教徒と半文明人のみであった。世界は西欧世界を除いては、「進歩」と「文明」と「文化」とは無縁な存在であり、西欧によって教導されるべき存在であるという思想と信念が彼らの知見に反比例して確固たるものとなってきたのである。

啓蒙時代の初期、文明人に優るとされた「善良なる未開人」なるものは、西欧人の知見の拡大と深化に反比例して姿を消していき、それらは単なる「未開人」となって、人類学や民族学という新たな知的関心の対象にされてくる。代わって現れるのが人間の理想像としてのギリシャ人である。西欧社会が17世紀の古今論争において、いったん確認した古代人にたいする近代人の優越という確信が18世紀に至って再び逆転し、古典古代の思想的意義の再評価と理想化へと転換するのは、政治的に分裂したヨーロッパの諸国家を文明的・文化的統一体として再構築し、「世界史」における西欧の役割を新たに規定していきたいという要求に由来するのである。

宗教改革とそれに続く宗教戦争はヨーロッパの宗教的・政治的統一を崩壊させ、教派間対立だけでなく、国民国家や領邦国家を成立させた。その結果として、国家はさまざまな信条が共存しうるだけの多数でなければならないが、同一の「進歩」という理念においては相互補完性を失わないだけの同一目標から平和共存の国家関係を信奉しなければならないという思想が一般化し、それが当時の思想の中に確固たる地歩を占め、ヨーロッパ諸国間の「勢力均衡論」の思想を行き渡らせてくる。これと同時にヨーロッパに多数の国家が存在することは、東洋的専制とは異なった、ヨーロッパ的な自由主義思想の発展に多大な利益をもたらすという思想を行き渡らせることになる。いわゆる東洋的専制や国家を超える「帝国主義」、つまり「普遍的王政」への批判が国民国家や地域国家の存在の正当性を確信させるだけでなく、王政の宮廷政治化、華麗で豪華で贅沢な典礼や祝祭によって視覚化される政治手法に対する批判が、新たな民主制や議会主義の思想を浸透させてくれる。宮廷的で華美な典礼主義に対する市民的な倫理主義がヨーロッパの「文明」に対する批判として「善良な未開人」、つまり健全なる未開を称揚する。

だがこの未開と文明の評価の逆転、つまり啓蒙の時代批判が大きな成果をあげてくると、ここで分裂したヨーロッパの精神手統一性への新たな希求が生まれてくる。それは西欧文明と文化の一体性を保証するものであると同時に、国民国家や地域国家の精神的統一性とも離反しないものでなくてはならない。いうなればかつてキリスト教が果たしていた精神的役割に代わるべきものでなくてはならない。啓蒙主義が時代批判のために利用してきた「善良な未開人」はその批判的役割を十分に果たしえたが、啓蒙思想が信奉してきた単純な「進歩」観念の再考を促すものであった。それは「理性」とは普遍的なものではなく、歴史的に規定されるものという歴史主義的な思考の成立を意味するものであった。

初期啓蒙主義は伝統社会や宗教社会の非歴史主義的な思考を打破するために、「理性」の進歩という観念を措定してきたが、社会の現実批判と歴史主義的思考を進展させていくなかで、「理性」という概念が人間の歴史的規定性を表現するのに適切なものではないことに気づき、人間の歴史的規定性を表わすのによりふさわしい「精神」の概念をそれに代えていった。啓蒙の歴史思想は歴史記述の真の対象超越者の意志としての偉大な国家の盛衰や偉大な王や英雄の運命の叙述から、「時代の精神」や「国民の精神」といった精神の歴史の叙述へと転換されなければならないという考えである。

このように啓蒙主義とロマン主義の時代にまたがる西欧の歴史意識は、政治史や事件史的な関心から離れて、人類史と国民史という二つの領域の人間精神における変化のプロセスに向けられてくる。啓蒙主義の「世界史」もロマン主義の「国民史」も共に、西欧近代の人間精神の「進歩」の理念を継承しながら、過去のいかなる時代に自己の精神を接合させるかによって、自己の歴史的使命を確定し、思想的な立脚点を確定していく。歴史とはいかなる時代の歴史であっても、歴史の操作という過去の支配によって現在の支配を正当化し、保証していくための手段へと転化させられるものであるが、西欧近代の歴史哲学における歴史の支配が非西欧圏の地域や時代の歴史と異なるのは、過去に正当性の根拠を求めるだけではなく、「進歩」という理念、つまり理想的な未来像を歴史的正当性の立脚点として設定していることである。西欧近代がギリシャを単なる歴史的過去としてだけでなく、未来の理想像を結び付けえたのは、東洋的停滞の対極として歴史的進歩のモデルへ再転換させたかったからである。

ギリシャが宗教改革後における分裂したヨーロッパ諸国家の統合の理念ともなり、それぞれの国家の自尊心や自負心の支柱となりえたのは、また「世界史」の理念の目標ともなり、「国民史」の精神の補強となりえるのは、西欧人の観念的な創作物であるギリシャが西欧近代の「進歩」の理念と「文明」「文化」の内包価値をすべて備える存在として再解釈されたからであるといえる。「ギリシャ精神」の評価と受容は西欧諸国内でもそれぞれに温度差ともいうべきものが存在し、また「古典古代」の概念も純粋にギリシャのみを単独に抽出したものに収斂させるか、ギリシャとローマ世界を精神的な同族として一体的に評価していくのかの違いが存在する。しかし、19世紀末に至ってはギリシャの優位は西欧世界全体の共通認識となると同時に、西欧世界全体がギリシャ精神の共同の継承者という意識を共有していくことになる。

2014年11月 8日 (土)

松宮秀治「文明と文化の思想」(31)

言い換えれば西欧はギリシャ・ローマ世界と自己を結び付けることで、東方世界に対する西方世界、西欧世界に対する非西欧世界という世界史像を創造することができたのである。18世紀の西欧近代思想によって、ギリシャはその本来の東方世界と地中海世界から切り離され、西欧世界の創始者の地位を与えられ、また東方の古代帝国の専制と停滞世界とは異なった原理に立つ民主制と進歩を原理とする新しい世界の出発点とされたのである。

西欧近代はギリシャを自己の歴史圏内に取り込むことで、「世界史」を完全に自己の独占物とすることに成功した。なぜなら18世紀以前には非西欧世界、特に東方世界、オリエント世界は異教瀬書いであったが、「世界史」から除外されてしかるべき世界ではなかった。例えばヴォルテールの『諸国民の風俗と精神について』やその序論の『歴史哲学』におけるように非西欧世界も厳然たる「世界史」の構成要素として扱われ、その歴史的発展も西欧世界と対等の比重をもって扱われていた。それがギリシャが西欧の歴史圏に取り込まれると、非西欧世界は「停滞社会」とされてしまい、そこから歴史的発展という概念が奪われ、非歴史社会とされてしまう。言うなれば東方世界とは変化を受け付けない世界であり、極度に保守的であるために新しい思想や生活様式を受け付けようとしない世界にされてしまったのである。当然そこには物理的な時間の推移はあるし、出来事の連鎖は存在する。だが、そこには「歴史」は存在しない。なぜなら歴史とは人間存在の様態、思想を変化させる動的な刺激と作用、言い換えれば「進歩」の概念を生み出す作用因だからである。

非西欧世界が停滞社会として西欧世界の進歩社会に対置されることで、そこから「歴史」が奪われてしまう。言い換えればそれは非西欧世界が「世界史」の展開への関与の資格を奪われた存在となってしまったことを意味する。非西欧世界は「世界史」の圏外の付随的な存在として、歴史学的な対象から外されて、民族学と社会人類学、文化人類学の対象とされてしまうのである。「世界史」とは文明と進歩を独占する西欧世界の特権的占有物である。民族学や人類学は「世界史」から切り離された周辺社会や非西欧社会の非歴史性や種族的特質への差別的関心から生み出され、裏返しされた優越意識の産物である。いうなれば「世界史」とは文明と野蛮のディスクールであるが、「文明」と「進歩」が特権的に語られるときは、世界史のつまり歴史学的なディスクールとなり、非西欧世界が差別的な関心で語られるときは、「野蛮」と「未開」のディスクールとなる。

西欧近代がギリシャを「世界史」の実質的な出発点に措定することは、すでに述べたように東方世界、オリエント世界を「世界史」の前史とすると同時に「西欧世界」の外縁的存在とすることを意味する。これは西欧近代がキリスト教の「普遍史」を排除することで、ヘレニズムと西欧を結合させようとする思想的な要求でもあった。したがって、このような思想から生まれてくる西欧近代の諸科学は「ギリシャ」にその出発点を求め、自己の理念的な範型をギリシャ精神のなかに見い出していこうとする。自然科学の仮説と観察と実験をギリシャ精神から引き継いだものとし、政治学、法学という社会科学は自由と民主制という理念の発生をそこに求め、歴史学、芸術史学は進歩の理念の発生と「文明」「文化」の理念の実質的規範の成立をそこに求めようとする。

言い換えれば西欧近代は自らが創り出す近代的諸価値の源泉をギリシャに求めようとするのである。それは彼らが創造していく近代価値の源泉がギリシャにすでに存在していたというより、彼らが創出した価値をギリシャに逆投影したという方がより適切である。たとえば「進歩」という歴史的な理念価値は、ギリシャによって与えられたもというより、西欧近代が自ら創り上げたものをギリシャに逆投影させたものである。なぜなら、そうすることで「西欧」という地域的価値は普遍的な「世界史」的な価値に昇格させられるからである。西欧近代の「世界史」的な価値、言い換えれば非西欧世界に対する優越価値と自己中心価値を理論的に構築し、その価値を保証していったものは、西欧近代の個別的専門諸科学であるが、それぞれの諸科学が自己の価値の中心軸にしていったものが、ギリシャであり、古典古代という理念であった。とくに人文諸科学は単にギリシャを価値の中心軸とするだけでなく、研究の出発点と帰着点をギリシャという「古典古代」の精神の理解に求めていくのである。

人文諸科学は18世紀末までは、萌芽的に専門分化の方向を示しながらも、厳密には未分化状態にあった。古典文献学、比較言語学、古代史学が渾然一体的に「世界史」の科学的基礎付けを果たしていくなかで、西欧近代の人文諸科学の中心軸は歴史科学となっていく。なぜなら「世界史」の根本原理は「進歩」であるがゆえに、歴史科学は人間の精神の進歩とそれを保証していく自由の拡大を跡づけるだけではなく、それらを西欧近代と結びつけ、西欧近代の内在的な原理にまで育て上げていかなければならないからである。言い換えれば「世界史」とは西欧近代がギリシャ精神を自己の内に取り込み、自己のものとしていくなかで、自己の「世界史的革命」という優越的位置を確保していく過程であると言えるのである。西欧近代のすべての思想家、歴史家に共通する信念は、歴史とは歴史的な出来事の連鎖ではなく、歴史的な出来事に意味を与える「進歩」の理念の確認と「進歩」に明確な歴史的使命を与える自由の精神の不断の拡大ということである。

2014年11月 7日 (金)

松宮秀治「文明と文化の思想」(30)

第5章 文明と文化の終焉

「世界史」とは世界のかつてあった姿を正確に再現したいという欲求と意志から生まれたものではない。それはかくあってほしい姿に世界を歴史的に再構成していく作業である。事実が願望に反する場合も当然出てくるが、その場合、その事実を事実として認めるにしても、それは過度に過小評価されるか、あるいは無視され、あたかもなかったもののような不当な処遇を受けることになってしまう。ヨーロッパの中世における科学・技術、学芸におけるイスラムの影響の大きさは、不当に評価され、「12世紀革命」という12世紀のアリストテレスを中心としたギリシャ語文献のアラビア語訳からラテン語への翻訳と学芸の隆盛はあたかも西欧の主体的な活動成果とされ、アラブ人の関与に対する評価は、ほとんど無視に近いか、あるいは行きかがり上の言及にとどまってしまう。また15世紀のコンスタンティノープルの陥落と東ローマ帝国の消滅以後の15世紀から18世紀初頭の北方戦争に至るまでのオスマン帝国の西欧諸国の外交政策に及ぼした影響力の強大さは、ほぼ完全に無視されたままである。ロシアが西欧世界に関与し始めるのは、オスマントルコのそれと役割を交替する形においてであるが、トルコの西欧諸国の外交政策に及ぼした影響力の大きさは、20世紀の世界外交におけるアメリカやソヴィエト連邦の影響力のそれに近いものであった。

歴史とはこのように事実の記録ではなくて、願望の投影であり、自己の正当化と自己価値の讃美と栄光化の意志である。その意味で歴史とはつねに過去の支配を通して現在を支配する武器となるものである。近代以後、歴史は国民が管理するものとなる。例えば、自由主義国家である日本も公式には憲法によって公権力の検閲を排しながらも、公権力の範囲内では「検定」という準検閲的な措置を残しているのは、歴史が本質的には自己の正当性の証明と自己防衛の要求から要請されたものだからである。したがって、歴史が好都合なものは採り、不都合なものは排するか隠蔽するか無視するのは、極めて自然なことである。

西欧近代が出自的には異民族であるゲルマン系諸民族とラテン系諸民族とスラヴ系諸民族を「ヨーロッパ・キリスト教諸民族の複合体」とし、それを「渾然たる一体として、あたかも単一国家のごとく考えられるもの」とするのも、西欧近代の「世界史」イデオロギーの一環である。さらにイデオロギー性の強いものは、ギリシャ・ローマ世界をヨーロッパ史と結合させ、その両世界を「古典古代」という世界史の規範的性格の出発点となし、その古典古代精神の正当な継承者としてのヨーロッパ史を作り上げていく操作、つまり実体的な歴史としていく歴史操作である。本来のギリシャとはオリエント世界の西端に位置するもので、東方世界に対峙する西方世界の最先端ではなかった。アレクサンダー大王の東征も西方世界の東方進出ではなく、東方世界内の事件であった。それを西方世界の東方進出と位置づけたり、あるいは東西文化の融合等と捉えるのは、西欧近代の「世界史」の際立った操作の産物なのである。

その実例として、フランスの大歴史家ミシュレの「世界史入門」を見ることにしたい。この本がいわんとすることは、東方世界に対する西欧世界に対する必然的な優越と西欧世界内におけるフランスの優位性という二重性の優越思想である。このこと自体は驚くに値しない。ドイツ人が世界史を論ずれば、ドイツ人が指導的位置を占め、イギリス人が論ずればイギリス人が指導的位置を占めるのは、西欧近代の「世界史」が、ひとつには東方世界に対する西方世界、非西欧世界に対する晴雨世界の優越、ひとつには西欧世界内における自国の優越という二重の優越性の主張に帰着する思想構造を有しているからである。したがって西欧諸国のうちいずれかの国が思想的な指導権をもっているかではなく、なぜ西欧世界が非西欧世界に対して優越性を主張しうるのか、その思想的な根拠が何かと言うことを考えてみることである。それは西欧がギリシャを自己の内に取り込み、ギリシャとローマをひとつの連続する世界として一体的なものに仕上げ、そして自らもその「古典古代精神」と歴史の正統で忠実な発展継承者に仕立て上げて行ったからである。これは歴史のどの局面において見られる「系図買い」の手法である。それは卑賤な存在であったものが成り上がっていたとき、自己の家系を高貴な家系に結び付けることで、当初の作為性を忘れ、偽装された歴史に自らが酔い、自らがそれを真実と信じてしまう歴史の常套手法のひとつである。いうなればそれは歴史の神話化の手法である。ただ前近代社会の神話化手法が、西欧社会と言う特定地域の神話化という、まったく新しい神話形成手法を用いてきたことである。自己の系譜を他の系譜に結び付けることであるが、それは真実の歴史を無視し、無かったことにしていく作業でもある。このようにして西欧の歴史から無視されたのがイスラム世界とオスマン帝国の西欧世界への関与である。

2014年11月 6日 (木)

松宮秀治「文明と文化の思想」(29)

このように西欧近代の出発点を禁欲の否定と欲望の解放の思想に置くなら、近代主義の精神を資本主義に求め、その資本主義の精神がプロテスタンティズムの禁欲思想に起因するとするウェーバーの禁欲論と矛盾してしまうことになる。彼は近代資本主義の精神をプロテスタンティズムの「世俗内禁欲」に求め、それを中世カトリシズムにおいて組織化された「世俗内禁欲」、つまり個人を神の意志を遂行する道具とし、現世の自然的秩序を否定し、神の意志にかなう秩序を実現するものとしての禁欲に対立するものとした。ウェーバーのいう資本主義の精神とは、人間の歴史とともに古い「営利欲」ではなく、近代資本主義の成立に際してプロテスタンティズムの神学が世俗的欲望に服するのではなく独自の労働観と職業倫理でもって発見した「召命」観から生み出された禁欲的な経済論理ということである。さらにその資本主義の担い手の論理を、一方では資本家の経営論理と、一方では労働者の労働論理に分割しながらも、結局は最終的には西欧資本主義精神の論理水準の高さと道徳的優位を証明しようとする西欧優越主義のイデオロギーに帰着してしまうのである。

西欧近代思想が、「世界」を蒐集する思想、つまりミュージアムの思想であることに気づいたとき、マックス・ウェーバーの思想そのものが最も象徴的な西欧近代思想の表われであることに気づくのである。彼自身の知的関心がなぜ全世界的な範囲にまで拡大されるのか、その関心領域の拡大そのものが、西欧近代の「世界」の蒐集であり、西欧中心主義、西欧優越主義の証明となるものである。世界を蒐集するということは、表面的にみれば西欧人が「地理上の発見の時代」と呼ぶ大航海時代から開始される、未知の領域の「発見」「探検」「調査」を通じて獲得した情報の集積作業と現地で蒐集された人工物、自然物の物的略奪し自己の外にある世界に対する情報の蒐集と外なる世界への認識の拡大を意味するのであるが、もっと本質的にいえば、それは西欧人の自己発見そのものを意味するのである。

すでにたびたび論じてきたように西欧近代の「世界史」とは、キリスト教「普遍史」としての世界年代記でもなく、人類の終末において完結を見る超越的な歴史でもない。それは、超越的な歴史観のなかで神の意志を受動的に引き受けている人間の歴史でなく、人間が自らの主体的な意志で創り出してきた成果によって、世界を再解釈、再整序するプロセスの中で生まれた西欧近代の新しい歴史意識の産物である。この西欧近代の新しい歴史意識とは、別な言い方をすれば人間は自律的な存在であり、人間活動は非合理的な部分を含んではいるが、全体的に見れば合理的で理性的な方向での自己達成を目指すものとする歴史意識である。さらに別な言い方をすれば、それは人間活動、人間の歴史的営為は「進歩」と「文明」と「文化」の概念で捉えられ、判断されるべきものであるという思想に帰着するものである。言い換えれば人間が現にある自己であるのは、先験的に与えられた特性によって拠ってではなく、歴史的に形成されてきた歴史的形成物であるという歴史主義の思想に帰着するものである。

西欧近代の「世界史」は表層的な部分で考えれば、西欧圏が非西欧圏に向かって実質的な支配を拡大すするプロセスのなかから生まれてきた実体的な世界への進出によって形成された概念のように思えるが、それはすでに述べたように原因と結果を逆転させたものである。言い換えれば18、19世紀の西欧近代の新しい歴史思想が「世界史」という概念を強化してしまったので、15世紀以降のポルトガル、スペインの東回りと西回りの大航海が、「地球上の発見」の時代と呼ばれ、15世紀の東ローマ帝国の崩壊とそのギリシャ語圏と知識人のイタリア亡命によって始まる人文教養主義、つまりギリシャ語文献への関心の拡大によってもたらされた思想の西欧圏での開花が「ルネサンス」と呼ばれるようになったのである。言い換えれば19世紀中葉に至るまでの間、西欧世界には「地理上の発見」という言葉「ルネサンス」という概念も成立していなかったのである。西欧世界の非西欧世界への実質的な進出が、世界史を成立させたのではなく、世界史の概念の出現が「世界史」を実体的なものにする作業を開始させたのである。

ということは「世界史」とは実体的な歴史像ではなく、自己の歴史像を形成していくための理念的な目標なのである。「世界史」とは結論的に、また断定的にいえば、自己の歴史を中心に据えなければ成立しない歴史意識である。自己中心主義と中華思想は「世界史」成立の最少の要件である。さらに必要な要件は自己拡大意志と自と他の価値区分、つまり他に対する自己の優越意識である。第三に必須の要件となるのは、文明や文化のような同一の価値規準で他をも判断し、序列化し、評価しうる概念の創造である。西欧近代の「世界史」とはまさにこのような要件を創出することで、例えばヘーゲルやウェーバーの世界史像のような、非西欧圏の文化の矮小化と西欧文化の優越性の証明作業となるのである。「世界史」とは歴史的な実体として存在しているものではなく、観念的に構成された歴史像を歴史的な実体として存在せしめようとする、歴史像創造のイデオロギーなのである。

西欧のこの「世界史」イデオロギーの中核的な概念となったのが、「進歩」の概念である。そしてこの進歩の概念を社会と個人の内面的で精神的な進展と結び付けて行ったのが「文明」と「文化」という概念であった。さらにヘーゲルが人間精神の進歩を自由の拡大の歴史として捉え、ウェーバーがそれを合理主義的志向能力の浸透と、拡大範囲で測定しようとしたのは、「自由」と「合理精神」こそが、西欧圏が非西欧圏に対する優越性の主張の論拠となるものと考えたからである。さらにもうひとつ西欧近代の「世界史」イデオロギーにとって不可欠であったのが、西欧世界の統一的一体性という観念であった。

2014年11月 5日 (水)

松宮秀治「文明と文化の思想」(28)

国家が神格化し、神話化する歴史は二つの歴史である。ひとつは理念としての「世界史」であり、ひとつは神話としての「国民史」である。前者は西欧近代が自己の理念に合わせて一元化されるべき歴史、つまり全人類が西欧近代の価値尺度に合わせて、解放され、幸福に向かって前進していく過程を含んでいる理念としての歴史であり、後者は西欧近代の思想によって宗教に代わる新しい国民祭式の神話として神聖化され、列聖された国家聖人たちによって織り成された国民精神史である。「ミュージアム」はそれ自体が西欧近代の歴史の理念化と神話化の可視化装置、制度であると同時に、自らが近代国家の聖地となる。それはフランス革命によって聖ジュヌヴィエーヴ聖堂が国家英雄の列聖殿としてそのパンテオンに代えられた以降ヨーロッパ諸国が国家記念碑や各種ミュージアムを通じて国家の歴史を神話化し、神聖化していったプロセスに対応するものである。「ミュージアム」とは歴史の可視化であると同時に、歴史の神聖化装置である。それは国民の歴史を列聖すると同時に、それを人類の歴史遺産と位置づけることになる。「ミュージアム」とは西欧近代が歴史を「文明」や「文化」の概念のもとで聖別し、神聖化する思想と制度であるだけでなく、自然を人間の支配下に置く制度でもある。ベーコンの『ニュー・アトランティス』の展示室と礼拝室が、西欧近代のミュージアム思想の祖型を与えている。

「動物園」や「植物園」が正式には動物学ミュージアム、植物学ミュージアムであるのは、ミュージアムが歴史を「文明」「文化」の概念の下で支配したように、動植物をも人間生活の資とすること、つまり自然を人間の支配下に置く思想とそのための装置創出の思想として成立してきたことを教えてくれる。ミュージアムとは「歴史」と「自然」、つまり「世界」を蒐集する思想から生まれたものである。「世界」が蒐集されるとは、全世界が知識として所有されることであり、また全世界が西欧近代が創出した「文明」も「文化」の価値体系によって整序され、分類されることである。全世界が知識として所有されることは、認識する主体の側もそれを可能にするだけの認識化の能力の精度の高さが要求されるということを意味する。認識する側の認識の制度を高めるために必然的に、あるいは意識的に開拓していった認識方法が「科学」的方法であり、その方法を基礎に展開、発展させたのが、西欧近代の専門諸科学の分化と独立である。

自然が蒐集されるのは、珍奇物のもつ珍しさや稀少価値ゆえではない。自然が蒐集されるのは、それが人間生活にとって役に立つという有用性のためであり、また自然そのものを知りたいという知的認識活動、知的好奇心そのもののためだからである。対象への知的関心と諸特性の認識への衝動こそが蒐集の出発点となるものである。その意味で「動物園」「植物園」も含めた「ミュージアム」の祖型としてのベーコンの『ニュー・アトランティス』は、動植物や鉱物のみならず、自然現象や天体運動まで含めた広義の自然の解明、つまり自然の利用、自然の人為的操作としての自然支配を目指すものである。そしてその基礎にあるのが、自然を人間の認識の対象として蒐集するという蒐集の制度化である。蒐集とは、よく言われるように人間の本能的な衝動や行為ではなく、社会的に整備された制度である。蒐集とは集められる対象物を特定の価値尺度で整序し、特定の認識系のなかで体系づけ、分類する活動である。蒐集物が私的所有物として社会から隔離され、人々の視線から隠蔽されると、それはコレクションではなく、私有物としての私的財産と位置づけられるものになる。コレクションとはそれが発展的に制度化されるためには、公開展示されることで共有価値化されなければならない。コレクションは展示されることで私的な価値を越えた社会的価値を獲得する。そしてその価値が共有されることで社会の価値となり、その価値への信奉がコレクションを制度化させ、ミュージアムという制度を生み出していく。ベーコンが「ミュージアム」の制度化と思想の祖型を与えたというのは、これらの考え方を提示したという意味においてである。

要約すれば、「ミュージアム」は「世界」を蒐集し、それを情報として集積することを通じて、それを所有、支配することである。別の言い方をすれば世界は同一の価値尺度で蒐集され、解釈され、情報として集積されることである。つまり世界が一元的な価値のもとで整序され、彼らの価値体系に取り込まれることで存在意義が与えられるのである。こうなれば事物は存在が確認されることではじめて存在が認められることを意味する。ベーコンのこの方法を彼自身の言葉に則して言えば、世界が「イドラ」の支配を脱して「実験」という実証的方法によって正確に認識されるべきだということになる。彼によればすべての人間は先天的にか後天的にか、知的偏見を受け継ぎ、自分ではそのことに気付いていない。それが「イドラ」である。このイドラを克服して、世界を実証的、実験的に認識する方法を発見していくことが、ベーコンの課題であると同時に、西欧近代の世界認識の新たな課題となる。

「歴史」が人間精神の進歩として捉えられることと「自然」が科学的精神によって捉えられるということに共通するのは、両者が共に人間欲望の解放、つまり欲望の肯定の思想基盤においてはじめて生成しうるものであるということである。言い換えれば西欧における前近代精神の克服への意志、つまり「世界」を神聖価値の支配に委ねるのではなく、世俗価値の支配に委ねるべきであるという思想の出現をもってなされたものだということになる。この文脈でベーコンの科学思想と「世界」蒐集思想を改めて考えてみるとそれはのちのベンサムによって定式化される「最大多数の最大幸福」という功利主義的世俗主義の要求を先取りしたものであることが明瞭になる。そしてさらにはそれは近代の産業革命の思想と資本主義の開花の予告となっている。

2014年11月 3日 (月)

松宮秀治「文明と文化の思想」(27)

近代国家とは何かという規定は様々な方向でなされうる。たとえば憲法によって主権が制限され、主権存在の思想が議会制民主主義によって確立されていること、あるいは産業革命と高度資本主義の社会にあって経済が独占資本主義、金融資本主義、国家独占資本主義の形態を生ぜしめる社会経済段階への移行などと規定されうる。これも近代国家の顕著な特徴である。だが「国家」そのものがひとつの神格をもち、「歴史」という国家教の経典の役割を担い、その教義によって「国民」が形づくられる国家信仰そのものも、それらに劣らない重要な近代国家の特徴である。

「国家」とは、政治学的、社会学的にいえば、西欧の民主主義思想によって樹立された中央集権的国民国家のことである。歴史的に言えば封建主義時代の領邦分立的に地域分権主義と社会全体が身分的な主従関係に貫かれた身分制社会から対等な法的平等と自由を有する個人の集合体としての国民国家へ移行したものということになる。だがこの進歩主義的な革進主義の国家観に対してフランス革命後に起こってきた保守主義的な反進歩主義の国家観の成立にあって、近代国家は相対立する二つの方向の調整という困難な問題を抱え込むことになる。ヘーゲルの歴史思想のなかに、この対立矛盾が最も端的に表われ出ている。「世界史」は人類の理性と自由意志の進歩、発展、展開の歴史であるが、「国民史」は国家というひとつの全体が部分(個人)を越えた全体存在として集合意志を展開させる歴史となっていく。いうなれば、自由な個人の自律性は全体意志のなすかに吞み込まれてしまうことになる。別な言い方をすれば、ここでは国家という社会集団は、ゲゼルシャフトではなくゲマインシャフト、派生社会や機能社会や第二次集団ではなく、基礎社会、基底社会、第一次集団として、心情的な統合集団たらんとする方向に戻ろうとする。そのため個人主義と集団主義への分裂を調整していくのが近代思想の全領域での努力となってくるが、ミュージアムの思想は一方では「国家」の神話的な神秘性を教義化し、国民の根源的一体性の祭式執行の場となることで国民の基礎集団化を目指す方向にも進むが、「公共圏」という抽象的で中性的、中立的な社会を創造していくことで、個人主義と集団主義、進歩主義と保守主義、「世界史」と「国民史」を調整する役割を担うことになる。

国家がひとつの社会集団である限り、それは集団に内在する複合性と流動性に支配され、同一性を維持していくことは不可能に近い。ゲゼルシャフト集団であり、機能集団である国家も時間の経過のなかでゲマインシャフト的な基底集団としての心情的共感、集団化や共通の連帯感の要求が生まれてくる。それは自らが克服してきたはずの伝統社会への追慕あり、機能社会の中で孤立する個人的存在であるよりも共感社会の集団的連帯性の中に埋没したいという要求でもある。言うなれば、進歩と保守の対立構図の発生である。西欧近代国家は理念的には人類の理性の進歩という信念の中で生まれてきたものであるが、その現実的な経過や局面に対して保守主義の精神と伝統主義への郷愁の中に揺り動かされる。このようにして近代国家の中に進歩主義と保守主義の対立、対決が生じる。この対立は個人の人権の拡大と集団的、心情的連帯の強化というかたちで個人主義優先主義と国家優先主義の対立ともなってくる。

近代国家の中では個人の権利、つまり私権の拡大が自己目的化されると、それと並行するように国家の権利も自己目的化される。このような国権と私権的利権の対立の間で緩衝地帯の役割を果たしていくのが、「公共圏」という中間地帯である。近代国家の成熟の度合いを測る尺度はこの公共圏の発達の度合いによるといえるが、この公共圏の発達が双方の行き過ぎを抑止する。この公共圏を生み出し、発展させていくのが「ミュージアムの思想」である。

近代国家、近代社会の歴史とは伝統社会の王朝史や宗教的な人間救済史ではなく、国民の文化史、文明史といった国民の精神の発達史である。前近代社会の政治史は基本的には社会統治と政治的支配の歴史のみを歴史概念としてきたため、その歴史は為政者の家系の歴史か政治的に顕著な業績を上げた偉大な政治的人物の歴史に終始する。宗教史は、教会史か、殉教者や聖人の歴史、あるいは奇跡の歴史に終始する。そこには人民や民衆の文化や精神の歴史的意義を問う思想は存在しない。それに対して近代国家の歴史は国家を構成する国民の精神の進展を意味するものとなる。それは理念史としての人類の文明、文化の発展史を意味する歴史哲学であると同時に、客観的な科学的な歴史学の成立をも意味する。なぜなら国家権力にのみ加担し、歴史を政治史として為政者の業績にのみ歴史記述を終始させるなら、国民の精神史や文化史、文明史が歴史から切り捨てられてしまうからである。さらに風俗や習慣や生活様式の変遷だけに着目する社会史、経済史だけに終始する歴史も、国権と私権の間に社会的な中立性と中性的な緩衝地帯となりうる「公共圏」を創造できないからである。

近代国家の歴史とは理念的には人類史、世界史の視点に立ちながらも、現実的な歴史記述においては、資料的に裏づけされうる科学的客観性と政治的中立性をもった公正な歴史でなければならない。現実的にそれに成功するかどうかは問題ではない。問題は公正性、中立性が保たれ、国家のイデオロギー的支配から解放されることを目指すことである。しかし、一方では歴史は常に権力と支配イデオロギーに利用される。なぜなら「歴史」は中立と真実を建前としているゆえに、それを味方にすることは公共圏、輿論を味方にすることを意味するからである。したがって歴史はつねに権力によって監視され、操作されてきているが、近代の専門的な科学としての歴史も公共圏の輿論の支持によって権力に対抗しうる力を持つにいたっている。そのため近代においては歴史の組織化の方向が国家間の争点となったり、権力側と反権力側の双方の争点となる。そして両者が歴史を自分の味方にしようとすることが政治課題となるのである。したがって近代の歴史科学がいかに客観性を標榜しようとも、その客観性、中立性には限界がある。

ともあれ、近代の歴史科学や歴史哲学、歴史思考は前近代社会の歴史のように政治を主題とする方向から、人間の精神の発達を主題とする文明史、文化史の方向に転換する。言い換えれば近代の歴史思想とは歴史をすべて人間の主体的な活動として再整理していく思想のことである。さらに言えば前近代の神や天の意志によってなされた人間の運命の歴史としての「政治史」を「進歩」の理念によって発達する人間の精神の活動とする、「精神史」「文明史」「文化史」に転換させるのが近代の歴史主義の思想である。したがって近代の歴史思想(歴史主義)の始動期の歴史著作者たちが歴史を政治的な諸事件の連鎖としてではなく、人間精神の発展と諸民族、諸国民の文化的な特性の形成過程として記述しようとしてきたのである。近代国家、近代社会とは、人間を国民という政治共同体に再創造していく諸思想と諸制度の複合体であるが、人間が政治的共同体として再編されるためには、共通の歴史によって共通の心情的共同体意識を形成してきた、精神的な同族集団であるという意識の共有が必要である。いうなれば、国家というゲゼルシャフト的な機能社会も、その基底は、ゲマンイシャフト的な心情的複合意識が与えられているという共感を必要とすることを意味している。したがって、近代の歴史科学は歴史研究の分類を政治史、経済史、科学技術史、芸術史などと形式的な区分を設けて、その専門区分を尊重しているが、その区分はお役所の権限区分と同じく、一種の学問的業界内の縄張り争いのようなもので、近代の歴史思想の本質的な要件ではない。

西欧近代の歴史思想は進歩主義であれ保守主義であれ、基本的には「人類精神進歩史」という人間理性の進歩を理念とすることを定言的命題として引き受け、革新と保守の対立がその相互対立によって自らが信奉する理念への賛否の問題として起こってくるのではなく、国民(民族)共同体の形成にかかわる現実的な思想闘争の問題として出てくるものである。ということは近代思想における保守とは、反進歩思想ではないということである。進歩に反対するのは伝統主義であって保守主義ではない。保守主義とは人間精神の進歩を否定する思想ではなく、進歩の加速化を抑制する思想なのである。進歩の加速は個人を高まらせ、個人の幸福を増大させるが、国民共同体の統一を分裂させ、国民の心情的一体感や共同意識を破壊する、というのが保守主義の思想である。

西欧近代思想は「進歩」という理念のなかに内在する相互矛盾、つまり、進歩を加速化させる科学技術の進歩と精神史の進歩、つまり人間性の道徳化、内面化、成熟化という進歩の間の矛盾対立を調整し、両者の進歩の相互補完をはかるために、「文明」と「文化」のほぼ重複する同義概念的な用法を容認してきている。しかし、近代国家が国家自体を神格化し、「国家理性」という国家自体が自己目的化する国家思想を推進させていく過程のなかで、それは「国民史」と一体化しようとする。つまり国家が歴史一体化しようとすることは、国家とは国民精神の体現そのものであるという国家イデオロギーの産物を意味するものである。いうなれば国家が歴史を神格化し、歴史が国家を神格化するのが、近代国家と歴史の関係である。

2014年11月 2日 (日)

松宮秀治「文明と文化の思想」(26)

西欧近代は前近代の神に代わる新しい神々を創出した。前近代の一神教が近代の多神教に変貌しただけで、近代社会も神々を必要としたのである。西欧近代の神々の中で最大級の権威をもつのが「科学」「芸術」「歴史」という神々であり、同じように神格的威力を発揮し、さらに神話的観念体系として近代人の価値観を支配してきたのが「進歩」「文明」「文化」という概念群である。いうなれば西洋近代の神学は科学、芸術、歴史という神格を中心に教義が形成され、進歩、文明、文化の観念体系に沿った近代神学の教理問答が展開されてきたのである。西欧近代は確かに合理主義的精神と分析知を推進させてきたが、一方では新しい権威主義と新しい神秘主義をも同様に育成させてきている。ここでいう神秘主義とは専門的な哲学的述語が規定しているような、神秘的体験に中心的な意義を認めようとする宗教的、哲学的な立場に限定されるものではなく、西欧近代的思惟が価値体系に仕立て上げた価値体系を経験的、実証的に説明するのではなく、その概念体系を先験的なものと考え、それが直接的には神的なもの、超越的な価値と合一したものであるとする感情である。言い換えれば神秘的な合一感情によってしかその真の価値を実感し得ないとする感情や信念が私の言う神秘主義である。本性で中心的に語ってきたヘーゲルにおいて、歴史、時代精神、国家は神秘的な合一によって生成した近代の神そのものになった。

近代はキリスト教を追放しただけでなく、キリスト教以外のあらゆる神々を追放した。そして神を内面化することで、宗教の社会的な強制力を完全に抑圧し、古い宗教的な祭式から解放されたと思い込んでしまった。だが、近代の合理主義を推進していく神話体系を必要とし、それに見合った宗教的教義と祭式をつくり出さねばならなかった。なぜなら啓蒙の合理主義はロマン主義の非合理主義を内包することでしかその存在の立脚点を確立しえない相対的な合理主義に過ぎないものだったからである。したがって表層的には合理主義を装いながらも、その内実は非合理的な絶対的権威を必要とする複合性を克服することができなかった。そのため近代社会は多元的な近代価値を神格化して、近代の神話を創出する必要に迫られ、その神話の管理機能を国家に委ね、その管理機構を多元的に分散化させた。しかし、近代国家の神話を最も包括的に集合させ、もはや古い宗教的な祭式がカバーできなきなった役割を代行しうる近代の祭祀施設として創出されたのが「ミュージアム」という近代の神殿である。それは「国家が主体であると同時に客体ともなりうる」新しい様式の祭祀施設としての近代の神殿である。そして、そこで執り行われる近代の祭式とは、「国家が国家自身に捧げる恒常的な敬意」である。国家が国家に捧げる恒常的な敬意とは、言い換えれば国家が自らの「歴史」と「文化」と「文明」を顕彰することである。国家が自らの歴史、文化、文明を顕彰するために執り行う祭式とは、自らの価値と尊厳を高めるあらゆる過去の記念碑的な遺品を蒐集し、保管し、展示することで、自己の存在価値と社会価値を同化させることで、共同の目標を設定していくことである。

2014年11月 1日 (土)

松宮秀治「文明と文化の思想」(25)

「歴史」とはつきつめて言えば、すべては虚構であり、権力の監視下に置かれ、集団の意志という鎖に繋がれたものであるといえる。ヘーゲル流の区分で言えば歴史とは「なされたこと」と「なされたことの物語」の二つの意味を持つが、歴史記述という「なされたことの物語」はすでにそれ自体が「なされたこと」という歴史的事実の再解釈であり、再創造としての物語、つまり「虚構」だということになる。しかし、歴史的事実は同時に科学的、歴史学的な二方向をも目指すことで、歴史的事実の客観性を尊重し、可能な限り事実の真実性を実証していこうとする方向性を個々の事実の追求よりも事実と事実のかかわりあいについて物語ることに、つまり個々の歴史的事実をひとつの全体像の構成要素と見る方向に分岐する。

前近代の宗教社会の神学的な歴史においては、自然と人間を含む全宇宙は天地創造という始まりと終末や最後の審判という完結した物語のなかで、「なされたこと」はすべて全体のなかで関連付けられていた。西欧近代の歴史も前近代の伝統社会と同様に「大きな物語」への従属が必要であった。西欧の前近代の歴史が「コスモス」という大宇宙の歴史の一環として神の意志、つまり摂理という「神の永遠なる計画」に組み込まれていたものであったがゆえに、人間の歴史は自然の歴史と同様、人間の主体的な意志とは無関係なものであった。ここにおいては人間の行動はただの生起する事象として単なる「できごと」にすぎない。それは摂理に関連づけられてはじめて歴史となるが、それは西欧近代が再創造した「歴史」とは異なって、単なる「年代記」にすぎない。年代記は、記録者の主体性が問われないものである。それは記録者の名前が知られたものであっても、原則的に匿名性のものである。

それに対して西欧近代の「歴史」は、歴史の形成主体を超越者から人間へと転換させてしまったために、人間の理性が歴史の主体となり、「コスモス」に代わって人類の共同体としての「世界」が「できごとの物語」の主軸を形成することになる。歴史は理性の「進歩」の物語を紡ぎだしてくる。歴史の経と緯が「文明」と「文化」である。両者はどちらが経であっても緯であっても、歴史の経緯の役割を果たしうるものである。問題なのは歴史の記述者における歴史認識の客観性の保証と歴史への関与における主体性の明示という「歴史家の責任」である。年代記作者の匿名性はもはや許されず、歴史家は自己の思想の立脚点を明らかにしなければならない。近代の歴史認識は歴史についての哲学であり、歴史についてヴィッセンシャフト(学)でなければならない。

西欧近代の歴史哲学と歴史家が創りあげた大きな物語は、ひとつは人類史としての「世界史」であり、ひとつは地域史としての「国民史(民族史)」である。前者は理性の進歩を後者は自由の進歩を核として、西欧近代人に共有された記憶像を創出していく。つまり西欧対非西欧世界の対比においては、進歩と停滞の対照が際立たせられることで、西欧世界はひとつの理性の共同体となる。

歴史とは共有化された記憶のことであるが、その共有化された記憶を人々は伝統と呼ぶ。その伝統とは悠久の時間の経過の中で形成されてきたものではなく、大半のものが短時間のあいだにおいて創られたもの、つまり「創られた伝統」である。それと同様、共有された記憶も創られた記憶といえる。歴史が記憶を創り出す作業であるなら、前近代の伝統社会の歴史と西欧近代の進歩主義の社会の歴史は、記憶を共有する共同体の存在形態の違いによって異なったつくられかたになる。伝統社会の歴史はその素材を共同体の範囲内に存在する既知のもので組み立てることができる。それに対して、西欧近代社会の歴史は、それが「世界史」という観念のもとで形成されなければならないので、その素材を未知の領域、つまり全世界から蒐集しなければならない。前近代の歴史は資料を編集する歴史であるのに対して、近代の歴史は資料蒐集の範囲を拡大させていくと同時に、絶えざる資料蒐集を量的に拡大させていく歴史である。

前近代社会が歴史の素材を機智の領域内で調達しうるのに対し、近代社会の歴史がその素材の調達を時間軸だけではなく空間軸においてもたえず未知の領域にまで拡大し続けていかなければならないのは、社会構成の原理が両者において本質的に異なっているためである。両者の相違を見事に説明したのが、テンニースの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』であった。

テンニースの区分を借りて近代社会と前近代社会の相違を考えるなら、近代社会が「選択意志」によって形成される社会であるのに対し、つまりゲゼルシャフトであるのに対し、前近代社会は選択意志と対立的に用いられる「本質意志」によって形成される社会、つまりゲマインシャフトである。ゲゼルシャフト的な近代社会が共同の概念によって統合している社会であるのに対し、前近代の社会は心情的共感や習慣や記憶の共有によって統合している社会である。いうなれば前近代社会は個の独立の意識が存在せず、「私」が「みんな」の中に融解している社会である。したがってここには理念的に「私」と「公」を区別する思考そのものが未成熟な段階にとどめ置かれたままである。それに対して近現代社会は個人が主権者であり同時に従属者であるという「公共圏」形成の意志が支配的となる。

突き詰めて言えば、前近代社会は「権威」の中に安定を見い出そうとする社会であり、近代社会は脱権威思考によって、人間の共同の選択意志によって形成される公共社会であるという考えこそが西欧近代思想の帰結点をなしているといえるのである。しかし、西欧近代が脱権威と脱魔術化によって合理主義的思考に貫徹された非権威主義的社会を建設しえたという自負を持ち続けているとするなら、やはりそれはひとつの「幻想」であるといえる。

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