美術展について書くことについて(2)
先日、ブログ上のお友達から辛口という批評をいただきました。このまえアップしたミレーに対する記述で“下手”などと勝手なことを書いていますので、それも否定できません。しかし、例えばミレーの展覧会について、ミレーという画家の伝記的な事実や展示されている作品ラインアップは調べれば分かることです。また、個々の作品についての解説なら、主要な展示作品であればホームページで解説されています。現物にではないにしろ、作品の画像をネットで見ることもできます。そうであれば、ブログに重複するように書く必要はないでしょう。しかし、人がわざわざ展覧会のことを読むためにブログを訪問するのは何かしら展覧会について書かれているのを読みたいからではないか。その時に、調べれば分かる情報以外で、展覧会のことで書くことができるのは、私はこのように見たという現象の記述しかありません。とりたてて、私はブログを訪れる人にサービスしようとして、そのために書いているわけではありませんが。
もとより、私には美術史や画家、絵画作品に関する知識を持ち合わせているわけではないし、自分で絵筆を握ったこともないし美術の専門的なトレーニングを受けたこともありません。ですから、美術に関する情報を発信などできるわけがありません。そこで、現時点での私の知っている限りでのものを総動員して、作品をこのように見たというのを記述してみることを試みているわけです。ミレーを“下手”というには、作品について、このように描かれているからというのが記述されていてはじめて成り立つものです。そうであれば、“下手”と言っている私の見ている上手下手の基準が明らかになるわけであるし、ひいては、とこに私の作品の見方が透けて見えてくることになるはずです。多分、そうなれば、昨日紹介したバッハのパルティータにおけるアンドラーシュ・シフの演奏のように、それまで聴こえていなかった音が、視点を移すことで聴こえてくることができる。ミレーの作品に対して、変化球ではあるかもしれませんが、異なった視点で見るということを提供することができることになる、と思います。絵画について記述するということは、音楽とは違い、ブログではその作品の画像を貼り付ければ、その画像を参照して検証しながら読むことが出来るという大きなメリットがあります。だから、付け焼刃の焦点のずれたことは書けないという真剣勝負です。しかし、その一方で、大胆なことを書くことも可能になっていると思います。
そんな、蓄積も何もないところから始めた展覧会に関する記述ですが、書き進めていくうちに、私自身の絵画の見方とか嗜好などを自身検証できてきました。自分のことなので、とくに意外なことを発見したとかいうことはありませんが、はっきりと、自分はこのように見ているということを具体的な作品に則して明確に自覚することができるようになりました。そして、自分でも興味深かったのが、それが私自身の興味の発展を促すことになったことです。自分で言うのもなんですが、私の絵画に対する好みは偏向していて、抽象画とロマン派の風景画、そしてマニエリスムに限定されていました。画家で言えば、モンドリアン、ロスコ、マレーヴィチ、フリードリッヒ、ポントルモといった人たちです。しかし、残念なことにこれらの人たちの作品はモンドリアンを除いて日本で作品をみることはほとんどできません(最近はロスコをコレクションしている美術館があるそうですが)。そのため、以前は展覧会を見に行くのは年間で1回あるかないか、でした。ところがブログに展覧会のことを書くようになって、自分の絵画の見方を自覚できるようになると、その見方は私の好む画家を見るのにマッチしているのでしょうから、その見方で、好みの画家を見るとどのように映るかということを楽しむ余裕が出てきました。そのため、展覧会に出かける頻度が急に増えてしまいました。
それまで、文章を書くということは学生時代の課題レポートのような、情報を集めインプットして、それを整理し、じぶんなりの考えをまとめたものをアウトプットするもの、と思っていました。しかし、このブログで書いている展覧会は記述は、まずアウトプットしてしまったものと言う事ができます。出すべきものがあって、はじめて出すことができると思っていたのが、まず出してしまうと、そのうちに出すべきものが見えてきて、それにあわせてインプットするものが見えてくるという、いままで考えていたこととは逆方向の動きがあって、それが可能であるということが分かりました。
これは何か、大発見のように書いていますが、日常的なコミュニケーションのことを考えれば当然のことです。まず、自分をアウトプット、つまり胸襟を開いてこそ、相手とのコミュニケーションを始めることができるからです。会話に困らないように情報を集めることなんかよりも、まずは、「こんにちは、はじめまして」と話してしまえばいい、ということです。私の場合、ブログで展覧会のことを書き始めたのは、まさにそういうことだったと思います。
実際のところ、展覧会に出かけて、展示されている作品を見ているとき、ブログに書こうとして、そこで情報とかネタを集めたり、感じたことを書き留めたりということは一切していません。会場ではブログに書くことは考えないで、好きになった絵をよく見るようにしているだけです。もっとも、好きになった作品は、いつまでも見ていたくなるものですが。で、とくに、このように書こうとか構想等はなしに、書き始めてしまうのです。書くというアウトプット行為を、とにかく始めていくうちに、次第に書くことが定まってくるのでした。
このようなことを始めて2年ほどになりますが、これを続けているうちに、最近焦点を絞るようになってきたと自分では思い始めています。それは、自分でこうしようと意識しているわけではありませんし、展覧会場で作品に接しているときに、追求しているわけではありませんが、ブログに書いているうちに、画家の物語を自分で自然とつくろうとしているようになっていると思います。それは、画家がなぜ特有の描き方をするようになったのか、自分なりのものを、作品に表われているものを読み取ることと、自分の妄想だけを根拠に、自分なり仮説を考えてみようとするという焦点です。例えば、ミレーはどうして農作業や農村の情景を描くことになったのか、とかです。これは美術史とか証拠資料などとは無関係に作品を見る私が納得するためだけにストーリーを作り、それで作品を楽しもうという試みと言えます。これは、ブログに書くというアウトプットを続けることによって、作品を見るということが変化しているということに他なりません。自分でいうのも変ですが。
そして、このことを続けると、これからまた、何か変化が起こるのか、まるで他人事のようですが、私自身楽しみにしています。
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