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2014年11月 5日 (水)

松宮秀治「文明と文化の思想」(28)

国家が神格化し、神話化する歴史は二つの歴史である。ひとつは理念としての「世界史」であり、ひとつは神話としての「国民史」である。前者は西欧近代が自己の理念に合わせて一元化されるべき歴史、つまり全人類が西欧近代の価値尺度に合わせて、解放され、幸福に向かって前進していく過程を含んでいる理念としての歴史であり、後者は西欧近代の思想によって宗教に代わる新しい国民祭式の神話として神聖化され、列聖された国家聖人たちによって織り成された国民精神史である。「ミュージアム」はそれ自体が西欧近代の歴史の理念化と神話化の可視化装置、制度であると同時に、自らが近代国家の聖地となる。それはフランス革命によって聖ジュヌヴィエーヴ聖堂が国家英雄の列聖殿としてそのパンテオンに代えられた以降ヨーロッパ諸国が国家記念碑や各種ミュージアムを通じて国家の歴史を神話化し、神聖化していったプロセスに対応するものである。「ミュージアム」とは歴史の可視化であると同時に、歴史の神聖化装置である。それは国民の歴史を列聖すると同時に、それを人類の歴史遺産と位置づけることになる。「ミュージアム」とは西欧近代が歴史を「文明」や「文化」の概念のもとで聖別し、神聖化する思想と制度であるだけでなく、自然を人間の支配下に置く制度でもある。ベーコンの『ニュー・アトランティス』の展示室と礼拝室が、西欧近代のミュージアム思想の祖型を与えている。

「動物園」や「植物園」が正式には動物学ミュージアム、植物学ミュージアムであるのは、ミュージアムが歴史を「文明」「文化」の概念の下で支配したように、動植物をも人間生活の資とすること、つまり自然を人間の支配下に置く思想とそのための装置創出の思想として成立してきたことを教えてくれる。ミュージアムとは「歴史」と「自然」、つまり「世界」を蒐集する思想から生まれたものである。「世界」が蒐集されるとは、全世界が知識として所有されることであり、また全世界が西欧近代が創出した「文明」も「文化」の価値体系によって整序され、分類されることである。全世界が知識として所有されることは、認識する主体の側もそれを可能にするだけの認識化の能力の精度の高さが要求されるということを意味する。認識する側の認識の制度を高めるために必然的に、あるいは意識的に開拓していった認識方法が「科学」的方法であり、その方法を基礎に展開、発展させたのが、西欧近代の専門諸科学の分化と独立である。

自然が蒐集されるのは、珍奇物のもつ珍しさや稀少価値ゆえではない。自然が蒐集されるのは、それが人間生活にとって役に立つという有用性のためであり、また自然そのものを知りたいという知的認識活動、知的好奇心そのもののためだからである。対象への知的関心と諸特性の認識への衝動こそが蒐集の出発点となるものである。その意味で「動物園」「植物園」も含めた「ミュージアム」の祖型としてのベーコンの『ニュー・アトランティス』は、動植物や鉱物のみならず、自然現象や天体運動まで含めた広義の自然の解明、つまり自然の利用、自然の人為的操作としての自然支配を目指すものである。そしてその基礎にあるのが、自然を人間の認識の対象として蒐集するという蒐集の制度化である。蒐集とは、よく言われるように人間の本能的な衝動や行為ではなく、社会的に整備された制度である。蒐集とは集められる対象物を特定の価値尺度で整序し、特定の認識系のなかで体系づけ、分類する活動である。蒐集物が私的所有物として社会から隔離され、人々の視線から隠蔽されると、それはコレクションではなく、私有物としての私的財産と位置づけられるものになる。コレクションとはそれが発展的に制度化されるためには、公開展示されることで共有価値化されなければならない。コレクションは展示されることで私的な価値を越えた社会的価値を獲得する。そしてその価値が共有されることで社会の価値となり、その価値への信奉がコレクションを制度化させ、ミュージアムという制度を生み出していく。ベーコンが「ミュージアム」の制度化と思想の祖型を与えたというのは、これらの考え方を提示したという意味においてである。

要約すれば、「ミュージアム」は「世界」を蒐集し、それを情報として集積することを通じて、それを所有、支配することである。別の言い方をすれば世界は同一の価値尺度で蒐集され、解釈され、情報として集積されることである。つまり世界が一元的な価値のもとで整序され、彼らの価値体系に取り込まれることで存在意義が与えられるのである。こうなれば事物は存在が確認されることではじめて存在が認められることを意味する。ベーコンのこの方法を彼自身の言葉に則して言えば、世界が「イドラ」の支配を脱して「実験」という実証的方法によって正確に認識されるべきだということになる。彼によればすべての人間は先天的にか後天的にか、知的偏見を受け継ぎ、自分ではそのことに気付いていない。それが「イドラ」である。このイドラを克服して、世界を実証的、実験的に認識する方法を発見していくことが、ベーコンの課題であると同時に、西欧近代の世界認識の新たな課題となる。

「歴史」が人間精神の進歩として捉えられることと「自然」が科学的精神によって捉えられるということに共通するのは、両者が共に人間欲望の解放、つまり欲望の肯定の思想基盤においてはじめて生成しうるものであるということである。言い換えれば西欧における前近代精神の克服への意志、つまり「世界」を神聖価値の支配に委ねるのではなく、世俗価値の支配に委ねるべきであるという思想の出現をもってなされたものだということになる。この文脈でベーコンの科学思想と「世界」蒐集思想を改めて考えてみるとそれはのちのベンサムによって定式化される「最大多数の最大幸福」という功利主義的世俗主義の要求を先取りしたものであることが明瞭になる。そしてさらにはそれは近代の産業革命の思想と資本主義の開花の予告となっている。

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