無料ブログはココログ

« 松宮秀治「文明と文化の思想」(24) | トップページ | 松宮秀治「文明と文化の思想」(26) »

2014年11月 1日 (土)

松宮秀治「文明と文化の思想」(25)

「歴史」とはつきつめて言えば、すべては虚構であり、権力の監視下に置かれ、集団の意志という鎖に繋がれたものであるといえる。ヘーゲル流の区分で言えば歴史とは「なされたこと」と「なされたことの物語」の二つの意味を持つが、歴史記述という「なされたことの物語」はすでにそれ自体が「なされたこと」という歴史的事実の再解釈であり、再創造としての物語、つまり「虚構」だということになる。しかし、歴史的事実は同時に科学的、歴史学的な二方向をも目指すことで、歴史的事実の客観性を尊重し、可能な限り事実の真実性を実証していこうとする方向性を個々の事実の追求よりも事実と事実のかかわりあいについて物語ることに、つまり個々の歴史的事実をひとつの全体像の構成要素と見る方向に分岐する。

前近代の宗教社会の神学的な歴史においては、自然と人間を含む全宇宙は天地創造という始まりと終末や最後の審判という完結した物語のなかで、「なされたこと」はすべて全体のなかで関連付けられていた。西欧近代の歴史も前近代の伝統社会と同様に「大きな物語」への従属が必要であった。西欧の前近代の歴史が「コスモス」という大宇宙の歴史の一環として神の意志、つまり摂理という「神の永遠なる計画」に組み込まれていたものであったがゆえに、人間の歴史は自然の歴史と同様、人間の主体的な意志とは無関係なものであった。ここにおいては人間の行動はただの生起する事象として単なる「できごと」にすぎない。それは摂理に関連づけられてはじめて歴史となるが、それは西欧近代が再創造した「歴史」とは異なって、単なる「年代記」にすぎない。年代記は、記録者の主体性が問われないものである。それは記録者の名前が知られたものであっても、原則的に匿名性のものである。

それに対して西欧近代の「歴史」は、歴史の形成主体を超越者から人間へと転換させてしまったために、人間の理性が歴史の主体となり、「コスモス」に代わって人類の共同体としての「世界」が「できごとの物語」の主軸を形成することになる。歴史は理性の「進歩」の物語を紡ぎだしてくる。歴史の経と緯が「文明」と「文化」である。両者はどちらが経であっても緯であっても、歴史の経緯の役割を果たしうるものである。問題なのは歴史の記述者における歴史認識の客観性の保証と歴史への関与における主体性の明示という「歴史家の責任」である。年代記作者の匿名性はもはや許されず、歴史家は自己の思想の立脚点を明らかにしなければならない。近代の歴史認識は歴史についての哲学であり、歴史についてヴィッセンシャフト(学)でなければならない。

西欧近代の歴史哲学と歴史家が創りあげた大きな物語は、ひとつは人類史としての「世界史」であり、ひとつは地域史としての「国民史(民族史)」である。前者は理性の進歩を後者は自由の進歩を核として、西欧近代人に共有された記憶像を創出していく。つまり西欧対非西欧世界の対比においては、進歩と停滞の対照が際立たせられることで、西欧世界はひとつの理性の共同体となる。

歴史とは共有化された記憶のことであるが、その共有化された記憶を人々は伝統と呼ぶ。その伝統とは悠久の時間の経過の中で形成されてきたものではなく、大半のものが短時間のあいだにおいて創られたもの、つまり「創られた伝統」である。それと同様、共有された記憶も創られた記憶といえる。歴史が記憶を創り出す作業であるなら、前近代の伝統社会の歴史と西欧近代の進歩主義の社会の歴史は、記憶を共有する共同体の存在形態の違いによって異なったつくられかたになる。伝統社会の歴史はその素材を共同体の範囲内に存在する既知のもので組み立てることができる。それに対して、西欧近代社会の歴史は、それが「世界史」という観念のもとで形成されなければならないので、その素材を未知の領域、つまり全世界から蒐集しなければならない。前近代の歴史は資料を編集する歴史であるのに対して、近代の歴史は資料蒐集の範囲を拡大させていくと同時に、絶えざる資料蒐集を量的に拡大させていく歴史である。

前近代社会が歴史の素材を機智の領域内で調達しうるのに対し、近代社会の歴史がその素材の調達を時間軸だけではなく空間軸においてもたえず未知の領域にまで拡大し続けていかなければならないのは、社会構成の原理が両者において本質的に異なっているためである。両者の相違を見事に説明したのが、テンニースの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』であった。

テンニースの区分を借りて近代社会と前近代社会の相違を考えるなら、近代社会が「選択意志」によって形成される社会であるのに対し、つまりゲゼルシャフトであるのに対し、前近代社会は選択意志と対立的に用いられる「本質意志」によって形成される社会、つまりゲマインシャフトである。ゲゼルシャフト的な近代社会が共同の概念によって統合している社会であるのに対し、前近代の社会は心情的共感や習慣や記憶の共有によって統合している社会である。いうなれば前近代社会は個の独立の意識が存在せず、「私」が「みんな」の中に融解している社会である。したがってここには理念的に「私」と「公」を区別する思考そのものが未成熟な段階にとどめ置かれたままである。それに対して近現代社会は個人が主権者であり同時に従属者であるという「公共圏」形成の意志が支配的となる。

突き詰めて言えば、前近代社会は「権威」の中に安定を見い出そうとする社会であり、近代社会は脱権威思考によって、人間の共同の選択意志によって形成される公共社会であるという考えこそが西欧近代思想の帰結点をなしているといえるのである。しかし、西欧近代が脱権威と脱魔術化によって合理主義的思考に貫徹された非権威主義的社会を建設しえたという自負を持ち続けているとするなら、やはりそれはひとつの「幻想」であるといえる。

« 松宮秀治「文明と文化の思想」(24) | トップページ | 松宮秀治「文明と文化の思想」(26) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 松宮秀治「文明と文化の思想」(25):

« 松宮秀治「文明と文化の思想」(24) | トップページ | 松宮秀治「文明と文化の思想」(26) »