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2014年11月23日 (日)

菱田春草展(2)~第1章 日本画家へ:「考え」を描く

Hishidamizukagami菱田の習作期からデビュー当初の作品です。ここでは「水鏡」という作品を観てみましょう。一見では、天女が水面を眺める様子を描いたように見えますが、実は“天女もやがては衰える”という“天女衰装”の「考え」が描かれているといいます。天女が衰えるというのであれば、憔悴した面貌とか薄汚れた衣服とかいった衰相にして、観る者にダイレクトに伝わるようにするというやり方があります。その方が、観る者には分かりやすい。しかし、ここでの菱田は天女の美しい姿はそのままに、水に映る姿を濁った色調でかき消して、さらには色が移り変わってやがて枯れる紫陽花を添えて、遠まわしに暗示しようとしたといいます。なんともはや回りくどく分かりにくいものです。この「考え」について、菱田自身は“西洋画で言えばここによい景色があるとすれば其の色を其のままに出そうとする、日本画では其のよい景色を観て色々に考える其の考えを描くのだろうと思う、つまり画家自身の考えを描くのだろうと思う。”と語っているそうです。西洋画の写実に対置して日本画の特性を「考え」と捉えたということでしょうか。この菱田の語ったことは、おそらく岡倉天心の思想を忠実に反映させたものなのでしょうが、ひとつの理念先行の姿勢が垣間見ることができると思います。その理念の底流には、菱田自身の言葉からもうかがえるように西洋絵画への対抗意識、つまり西洋絵画が写実であるから、それ以外のところで「考え」というものを持ち出して独自性を主張しているのです。ここに、私には、このグループの、ひいてはこの日本美術院のグループによって先導され形成されていった近代日本画の不安定なアイデンティティが透けて見えるような気がしてなりません。そもそも、確固とした自信があれば、西洋絵画など意識せずに独自にやっていけばいいのです。それがへんに西洋絵画を意識して、あっちはどうだから、こっちはそうでなくてこうするんだ。などというのは相手の土俵に乗ってしまっているわけで、喧嘩であれば、戦う前に勝敗の帰趨は決まってしまっているのです。私は、「反抗」という言葉を思い出しました。定型的に権威への反抗とか若者の反抗などという使われ方をしますが、この反抗というのはそもそも反抗する対象である権威に寄生するような行為で、権威に対して否というだけの行為で、権威がなくなれば消失してしまう脆弱なものです。菱田のいう「考え」というのは、果たして西洋絵画がないところで成立するのか、私には甚だ疑問です。ただ、当時としては、それだけ外圧としての西洋絵画に対する危機感が強かったのでしょう。

Mireofiriaそしてまた、西洋絵画が写実であるという言い方についても、おそらく自分たちの「考え」ということを際立たせたいがゆえに、意図的に単純化されたという操作があったように思えます。例えば、美しい女性を描いて、それが朽ちていくのを象徴的に描いた作品として、この「水鏡」の半世紀前にイギリスのラファエル前派の画家ジョン・エヴァレット・ミレイの制作した「オフィーリア」という作品があります。この作品も水に関係し、その周囲に添えられた花や草が象徴的な意味づけをしています。だから、一概に西洋絵画は写実とは言えるわけではありません。むしろ、「オフィーリア」の方が画面の中でひとつの世界を構築して完結して見せているといえるわけで、それには十分に考えられていないと不能なことは明白です。これに対して「水鏡」の場合には、画面だけで完結しているとはいえず、この内容を口頭で説明したり、解説を加えないと「考え」が伝わらない舌足らずの感じを拭えません。これは、物語絵巻のように何枚もの連作の一部のような感覚では内科という気がします。だから、これ一枚だけで完結させる画面構成になっていない。あえて言えば「考え」が足りない、ということになります。ただ、西洋絵画で表現されたものの厚みとか質感とかいったものは、たしかに日本画にはなかったものだと思うので、それにはじめて触れたという人々には圧倒的なリアルに迫ってきたように感じられても不思議はないと思います。そのリアルに対抗するためには、リアルでない想像に逃げたということを考えてしまいます。それだけ、「水鏡」という作品は表現として弱い、といわざるをえません。

他方、菱田は、上述の語りの中で線描の重要さについても述べています。西洋絵画で表現された質感とか毒々しいほど鮮やかな色彩に対して、日本画の側は為す術もないように感じられた、それゆえに線描ということに自らの独自性を逃げるように見い出していったのが、菱田の語る線描の重要性ということなのではないかと思います。たしかに天女の髪の毛や眉の繊細な線や天女の被っている透明なヴェールの透き通るような線などを見ているとすごいと言わざるをえません。部分的には確かにそうなのですが、他方で天女や周囲の紫陽花の輪郭を形作っている線は無機的で単に書割の境界にしか見えません。つまり、表現的ではないのです。もし、かりに彩色が鮮明に色分けされて書割の区分がはっきりできるようであれば、これらの線の必要性はなくなってしまうのではないかと思えるほどです。同じ線でも髪の毛とか衣服の模様などのような線自体に意味づけがされていたり、線として存在しているものには、作品の中でもかなりの配慮がされていて、その線はなくてはならないものとなっているのです。これは菱田だけのことではなく、横山大観などでは必要性が感じられないどころではなく邪魔にしか見えないことになっていますが、私には近代日本画におしなべて感じられるものなのです。だから、(ここで少し脱線しますが)日本美術院グループが生み出したとされる「朦朧体」という線を使わない手法は、実のところ線が邪魔であることを当事者たちは自覚していたのではないか、などという妄想をしてしまうのです。閑話休題。

Hishidasyaka_2散々、悪口を並べてきました。ここまで読まれてきた方は、このような罵倒に近いような悪口をわざわざ並べるのなら、むしろ最初から無視してしまって、採り上げなければいいと感じられたと思います。その通りですなのです。そこまでして、この作品をとりあげたのは、上述のようなことがあってもなお、どうしても採り上げたいものがあったからです。それは天女の顔です。それは、旧来の日本画の戯画化されたような省略表現にはない、かといって西洋絵画の肖像の人物像とも違う顔になっているのです。仏画がベースになっているのかもしれませんが、個人の顔を写生したのではない、天女という理想の女性の「考え」を人間の顔の形で表現したものに見えました。水面を見下ろす顔に、ごくわずかに表情を与えて、具体的に悲しいのか戸惑っているのか観る者に窺い知ることはできませんが、仏様のような悟りきった無表情ではなく、こころを動かされたことだけは分かる微妙な表情を浮かべているのは分かります。それを見下ろしている顔の角度と、下を見ている瞳、そして奥まった閉じている唇のかたちなどの全体の雰囲気から感じ取れるように描かれています。それは写実とは違った意味で存在感のあるリアルさとなっていると思います。菱田は、この作品と並んで展示されていた「拈華微笑」では釈迦とその弟子たちを類型的で戯画的な何とも存在感のない挿絵のような描き方をしていたので、人物を描く方法論を会得していたわけではないと思います。そのような中で「水鏡」の場合は、天女という実在の人間とは違う想像上の存在ということもあってなのでしょうが、例外的に実体を感じさせるリアルなものとなっていると思います。

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