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2014年11月 6日 (木)

松宮秀治「文明と文化の思想」(29)

このように西欧近代の出発点を禁欲の否定と欲望の解放の思想に置くなら、近代主義の精神を資本主義に求め、その資本主義の精神がプロテスタンティズムの禁欲思想に起因するとするウェーバーの禁欲論と矛盾してしまうことになる。彼は近代資本主義の精神をプロテスタンティズムの「世俗内禁欲」に求め、それを中世カトリシズムにおいて組織化された「世俗内禁欲」、つまり個人を神の意志を遂行する道具とし、現世の自然的秩序を否定し、神の意志にかなう秩序を実現するものとしての禁欲に対立するものとした。ウェーバーのいう資本主義の精神とは、人間の歴史とともに古い「営利欲」ではなく、近代資本主義の成立に際してプロテスタンティズムの神学が世俗的欲望に服するのではなく独自の労働観と職業倫理でもって発見した「召命」観から生み出された禁欲的な経済論理ということである。さらにその資本主義の担い手の論理を、一方では資本家の経営論理と、一方では労働者の労働論理に分割しながらも、結局は最終的には西欧資本主義精神の論理水準の高さと道徳的優位を証明しようとする西欧優越主義のイデオロギーに帰着してしまうのである。

西欧近代思想が、「世界」を蒐集する思想、つまりミュージアムの思想であることに気づいたとき、マックス・ウェーバーの思想そのものが最も象徴的な西欧近代思想の表われであることに気づくのである。彼自身の知的関心がなぜ全世界的な範囲にまで拡大されるのか、その関心領域の拡大そのものが、西欧近代の「世界」の蒐集であり、西欧中心主義、西欧優越主義の証明となるものである。世界を蒐集するということは、表面的にみれば西欧人が「地理上の発見の時代」と呼ぶ大航海時代から開始される、未知の領域の「発見」「探検」「調査」を通じて獲得した情報の集積作業と現地で蒐集された人工物、自然物の物的略奪し自己の外にある世界に対する情報の蒐集と外なる世界への認識の拡大を意味するのであるが、もっと本質的にいえば、それは西欧人の自己発見そのものを意味するのである。

すでにたびたび論じてきたように西欧近代の「世界史」とは、キリスト教「普遍史」としての世界年代記でもなく、人類の終末において完結を見る超越的な歴史でもない。それは、超越的な歴史観のなかで神の意志を受動的に引き受けている人間の歴史でなく、人間が自らの主体的な意志で創り出してきた成果によって、世界を再解釈、再整序するプロセスの中で生まれた西欧近代の新しい歴史意識の産物である。この西欧近代の新しい歴史意識とは、別な言い方をすれば人間は自律的な存在であり、人間活動は非合理的な部分を含んではいるが、全体的に見れば合理的で理性的な方向での自己達成を目指すものとする歴史意識である。さらに別な言い方をすれば、それは人間活動、人間の歴史的営為は「進歩」と「文明」と「文化」の概念で捉えられ、判断されるべきものであるという思想に帰着するものである。言い換えれば人間が現にある自己であるのは、先験的に与えられた特性によって拠ってではなく、歴史的に形成されてきた歴史的形成物であるという歴史主義の思想に帰着するものである。

西欧近代の「世界史」は表層的な部分で考えれば、西欧圏が非西欧圏に向かって実質的な支配を拡大すするプロセスのなかから生まれてきた実体的な世界への進出によって形成された概念のように思えるが、それはすでに述べたように原因と結果を逆転させたものである。言い換えれば18、19世紀の西欧近代の新しい歴史思想が「世界史」という概念を強化してしまったので、15世紀以降のポルトガル、スペインの東回りと西回りの大航海が、「地球上の発見」の時代と呼ばれ、15世紀の東ローマ帝国の崩壊とそのギリシャ語圏と知識人のイタリア亡命によって始まる人文教養主義、つまりギリシャ語文献への関心の拡大によってもたらされた思想の西欧圏での開花が「ルネサンス」と呼ばれるようになったのである。言い換えれば19世紀中葉に至るまでの間、西欧世界には「地理上の発見」という言葉「ルネサンス」という概念も成立していなかったのである。西欧世界の非西欧世界への実質的な進出が、世界史を成立させたのではなく、世界史の概念の出現が「世界史」を実体的なものにする作業を開始させたのである。

ということは「世界史」とは実体的な歴史像ではなく、自己の歴史像を形成していくための理念的な目標なのである。「世界史」とは結論的に、また断定的にいえば、自己の歴史を中心に据えなければ成立しない歴史意識である。自己中心主義と中華思想は「世界史」成立の最少の要件である。さらに必要な要件は自己拡大意志と自と他の価値区分、つまり他に対する自己の優越意識である。第三に必須の要件となるのは、文明や文化のような同一の価値規準で他をも判断し、序列化し、評価しうる概念の創造である。西欧近代の「世界史」とはまさにこのような要件を創出することで、例えばヘーゲルやウェーバーの世界史像のような、非西欧圏の文化の矮小化と西欧文化の優越性の証明作業となるのである。「世界史」とは歴史的な実体として存在しているものではなく、観念的に構成された歴史像を歴史的な実体として存在せしめようとする、歴史像創造のイデオロギーなのである。

西欧のこの「世界史」イデオロギーの中核的な概念となったのが、「進歩」の概念である。そしてこの進歩の概念を社会と個人の内面的で精神的な進展と結び付けて行ったのが「文明」と「文化」という概念であった。さらにヘーゲルが人間精神の進歩を自由の拡大の歴史として捉え、ウェーバーがそれを合理主義的志向能力の浸透と、拡大範囲で測定しようとしたのは、「自由」と「合理精神」こそが、西欧圏が非西欧圏に対する優越性の主張の論拠となるものと考えたからである。さらにもうひとつ西欧近代の「世界史」イデオロギーにとって不可欠であったのが、西欧世界の統一的一体性という観念であった。

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