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2014年11月16日 (日)

生誕200年ミレー展─親しきものたちへのまなざし(3)~第2章 自画像・肖像画

ミレーは職業的な肖像画家として120点ほどを残したそうですが、そのうち他人を描いて収入を得ることができたのは半数にも満たないそうです。展示の説明では、ミレーの肖像画は、親愛なる人々へのオマージュや友人への感謝の記念といった性格が強く、まず妻、そして家族、友人というように、その出来も親愛の度合いが左右している、とされていました。この美術展のコンセプトである「親密性」が肖像画に現れている、ということでしょうか。

Milletcity_2これは、視点を変えれば肖像画家としてスタートしたものの注文があまりなかったということではないでしょうか。本来ならば、肖像画の注文に応ずるために家族や友人の肖像を丁寧に描いている時間の余裕など取れないほうが画家として成功だったはずです。後にミレーは農民画家として方向性の舵を切ってしまうことによって肖像画を描くことはなくなって、元肖像画家という言い方を展示ではされていますが、これとてもミレーは肖像画としては生きてゆけなかったということの裏返しではないかと思います。つまり、肖像画家としてはミレーは失敗してしまったということではないのでしょうか。今回の書き方はかなり画家に対して辛く当たっているようです。しかし、例えば、「シェルブール市長ポール=オノレ・ジャバン」と題された肖像画です。シェルブール市からの注文によって描かれたこの作品に対して、市議会は受け取りを拒絶したそうです。ミレー本人はモデルであるジャバン氏を知らなかったということでハンデはあったかもしれません。それをも加味しても、それ以前のこととして、この肖像をみていると威厳ある市長の肖像という感じがしないのです。この人物は“とっちゃん坊や”に見えて、むしろ滑稽に映るのです。その大きな理由は顔と全身のバランスです。顔が不釣合いに大きく、しかも重過ぎるのです。それに対して首が小さく襟の大きさがやたら目立つし、中央下の手はまるで子供の手の大きさです。そのためもあって着ている服がお仕着せのように浮いてしまって、“馬子にも衣装”のような似合わない状態になってしまっています。そして、全体として色調が暗く、もっと人物に照明が当てられてもよさそうなものと、思ってしまうのです。そして、ミレイ自身がモデル本人を知らないのであれば、補助的に象徴的な物品とか、業績を背景に書き加えてあげればいいのに、そのような配慮も為されていません。それで、なおかつ市議会が主張していたのはシャバン氏に似ていないということです。このような作品が出来上がってくるというのであれば、肖像画の注文が来なくなるのは当然のことではないかと思います。

Milletprofileono_2いい意味でも、悪い意味でもこの作品にはミレーの特徴(限界)がはっきりと露呈しているように私には思えます。その大きな点は対象との距離感の取り方が上手くできていないということです。だから、全体としてモデルを画面の中にどのように位置づけ、どのようなコンセプトで描いていくかという構成が出来ていない。だから全体のバランスが考慮されていないように見えます。逆に対象との距離感がないということになれば、それはこの展覧会のコンセプトになっている「親密性」というように映ることになるのでしょう。それは、この作品でも顔の表情には結構力が入っていて、それがアクセントとか強調の閾を越えてバランスを欠いてしまっている印象を与えています。つまり、全体を考えずに気に入ったところに描写の力が入ってしまうところです。その一方で、その他のところは手抜きが明白に分かるような描き方なのです。そしてまた、とくに小物などの肖像にちょっとした装飾となるようなパーツとか衣服と肌の質感の違いのような細かなところを描きこんで効果を生む技術がない、もしくはそんなことをする配慮がないということです。ミレーという画家の作品全般に言えることですが、精緻な筆遣いということはまったく見られません。それはミレーができなかったのか(多分こっちだと思います)、そういうことをする気がなかったです。そして、鈍い、くすんだような色調です。

Milletbedonoジャバン氏の肖像は、私の見るに肖像画として失敗作だったのではないか、一方、上で述べたような特徴がジャバン氏とは逆に良い方に出たのがミレーの親しい人々、とくに最初の妻であるポーリーヌ・オノを描いた作品であったと思います。ミレーという画家は対象をリアルに写実するという志向はそれほど強い人ではなく、自身の描き方の特徴である角をとった、丸みを帯びた表現で描いてしまうところがあります。それが、モデルであるポーリーヌの容貌にうまく適合しているのが第一と言えます。比較的小さな顔(今でいう小顔)であるのが控えめに映り、貴婦人のような白粉をぬった白い柔らかな肌ではなく、化粧気のないすっぴん幾分か浅黒いが、若さと屋外で磨かれたような肌の生き生きとしたつやが日頃勤勉に働いていることを表わし、小顔に比例したような小作りの顔の造作と決して豊満ではないがふくよかな曲線で構成された、繊細な感じの目や鼻が素朴な愛らしさを演出して見せています。そのような、ポーリーヌの顔が他の部分とのバランスを欠くほど力が入って、いつもミレーではありえないほど精緻に描きこまれています。例えば、小さいながら凛とした細い鼻筋は、少しばかりの赤みがお全体に繊細な印象を与えていますが、ミレーの肖像で、これほど決然と鼻筋をくっきりと描いているものは、少なくても、この展示の中にはありませんでした。そして、れが、クローズ・アップのような効果を生んでいます。女性アイドルのグラビア等によく見られる顔に焦点を絞って、他の部分をボカしてしまうことで、見るものの主観的な視野になっているかのような錯覚を与えているのに、よく似た効果を生んでいるのです。この展覧会のコンセプトである「親密性」は、ここから生まれる効果もひとつの原因ではないでしょうか。どちらかというと、派手な顔立ちとはいえないポーリーヌの例えば鼻の線の繊細さなどは、このようにクローズアップしてあげないと目に入ってきません。その意味で、実際のポーリーヌがどのような女性であるかは分かりませんが、着飾った肖像画とは一線を画した、新たな方法によって彼女の美しさを観る者に印象付ける作品になっています。

それは、「親密性」というよりは、対象への感情移入と言った方が適切なのではないかと思います。理性的に画面を構成して客観的に完成度の高い、まとまりのよい作品を仕上げる、というよりは、多少のキズが生じてもこれだけは大切というところに集中して、それを強く打ち出すことによって作品を見るものに、強く訴えかけようとする、そういう傾向です。その強い訴えかけが、ミレーの場合には「親密性」という現われ方をしているのではないか、と私にはポーリーヌの肖像画を見ていて感じられました。

Milletdogポーリーヌの肖像以外でも、「犬を抱いた少女」という作品でも、丸い造形で単純化し、輪郭を明確に画することをさけて、靄がかかったようにぼんやりとさせることによって、写真のような写実的な画像とは違って、子どもに対する潤んだような視線で見つめるときの焦点のボケのような効果を生んでいます。つまり、親しいものが少女を見つめるときに、愛しいといった感情を交えずにはいられないような、いわゆる目を細めるときに映るであろう主観的な姿を結果として画面に現わさせている、と言えるのではないでしょうか。その時に、画面の少女が画面の外側である観る者に視線を向けているのが、親しく微笑みかけてくるような印象を与える結果となります。この作品を観る者は、そこで主観的な思い入れ、あるいは共感ともいえる感情を生み出すことになるでしょう。そのときに、画面構成がバランスを欠いているとか、描写が精緻でないとか、技量的な欠点は、あえて言えば、どうでもいいことになります。さらに言えば、そういう整ったものについて回る、完璧さゆえの一種の冷たさを免れている、“あばたもえくぼ”というような、不完全であるがゆえに却って愛おしい、という効果を生んでいる、というと言いすぎでしょうか。

決して天賦の才能に恵まれていたとは言えず、描画の技量に秀でていたというのでもなく、センスも鈍い凡庸な画学生の一人、つまりはその他大勢に埋もれてしまうような画家であったミレーです。彼は、ここで、凡庸で下手であるがゆえに、それを逆手にとって、中心地パリで活躍する画家たちとは差別化し、上手下手とは異なる尺度で人々に観させる作品のきっかけを、ここで掴んでいたというと、かなりストーリーを捏造しているでしょうか。ここでは、捏造ついでに、この時点では、ミレー自身は無意識で、そのことに自覚はないし、この作品だけの一発屋で終わってしまうおそれは多々ありました。

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コメント

お久しぶりでございます(^^)
J.F.ミレーは、一度は見てみたいと思っている画家です。
彼はとっても不器用な人間で、たまたま時代の要請があったからこそ
認められたような気がします。多分、時代が違えば、ずぅっと埋もれたまま
だったかも知れませんcoldsweats01

猫スキーさん、どうもありがとうご゛います。仰るとおりにミレーの作品は不器用に見え、かといって不器用なりの突出を突き詰めたような狂気は感じられません。私には、それが物足りなさではあるのですが、それゆえに、別の面からみれば親しみ易いということになるのでしょうか。それが見る人には、ミレーの人の好さがみえてくるように映るのかもしれないと思いました。私は、ミレーには辛く当たっているかもしれません。

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