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2014年11月 3日 (月)

松宮秀治「文明と文化の思想」(27)

近代国家とは何かという規定は様々な方向でなされうる。たとえば憲法によって主権が制限され、主権存在の思想が議会制民主主義によって確立されていること、あるいは産業革命と高度資本主義の社会にあって経済が独占資本主義、金融資本主義、国家独占資本主義の形態を生ぜしめる社会経済段階への移行などと規定されうる。これも近代国家の顕著な特徴である。だが「国家」そのものがひとつの神格をもち、「歴史」という国家教の経典の役割を担い、その教義によって「国民」が形づくられる国家信仰そのものも、それらに劣らない重要な近代国家の特徴である。

「国家」とは、政治学的、社会学的にいえば、西欧の民主主義思想によって樹立された中央集権的国民国家のことである。歴史的に言えば封建主義時代の領邦分立的に地域分権主義と社会全体が身分的な主従関係に貫かれた身分制社会から対等な法的平等と自由を有する個人の集合体としての国民国家へ移行したものということになる。だがこの進歩主義的な革進主義の国家観に対してフランス革命後に起こってきた保守主義的な反進歩主義の国家観の成立にあって、近代国家は相対立する二つの方向の調整という困難な問題を抱え込むことになる。ヘーゲルの歴史思想のなかに、この対立矛盾が最も端的に表われ出ている。「世界史」は人類の理性と自由意志の進歩、発展、展開の歴史であるが、「国民史」は国家というひとつの全体が部分(個人)を越えた全体存在として集合意志を展開させる歴史となっていく。いうなれば、自由な個人の自律性は全体意志のなすかに吞み込まれてしまうことになる。別な言い方をすれば、ここでは国家という社会集団は、ゲゼルシャフトではなくゲマインシャフト、派生社会や機能社会や第二次集団ではなく、基礎社会、基底社会、第一次集団として、心情的な統合集団たらんとする方向に戻ろうとする。そのため個人主義と集団主義への分裂を調整していくのが近代思想の全領域での努力となってくるが、ミュージアムの思想は一方では「国家」の神話的な神秘性を教義化し、国民の根源的一体性の祭式執行の場となることで国民の基礎集団化を目指す方向にも進むが、「公共圏」という抽象的で中性的、中立的な社会を創造していくことで、個人主義と集団主義、進歩主義と保守主義、「世界史」と「国民史」を調整する役割を担うことになる。

国家がひとつの社会集団である限り、それは集団に内在する複合性と流動性に支配され、同一性を維持していくことは不可能に近い。ゲゼルシャフト集団であり、機能集団である国家も時間の経過のなかでゲマインシャフト的な基底集団としての心情的共感、集団化や共通の連帯感の要求が生まれてくる。それは自らが克服してきたはずの伝統社会への追慕あり、機能社会の中で孤立する個人的存在であるよりも共感社会の集団的連帯性の中に埋没したいという要求でもある。言うなれば、進歩と保守の対立構図の発生である。西欧近代国家は理念的には人類の理性の進歩という信念の中で生まれてきたものであるが、その現実的な経過や局面に対して保守主義の精神と伝統主義への郷愁の中に揺り動かされる。このようにして近代国家の中に進歩主義と保守主義の対立、対決が生じる。この対立は個人の人権の拡大と集団的、心情的連帯の強化というかたちで個人主義優先主義と国家優先主義の対立ともなってくる。

近代国家の中では個人の権利、つまり私権の拡大が自己目的化されると、それと並行するように国家の権利も自己目的化される。このような国権と私権的利権の対立の間で緩衝地帯の役割を果たしていくのが、「公共圏」という中間地帯である。近代国家の成熟の度合いを測る尺度はこの公共圏の発達の度合いによるといえるが、この公共圏の発達が双方の行き過ぎを抑止する。この公共圏を生み出し、発展させていくのが「ミュージアムの思想」である。

近代国家、近代社会の歴史とは伝統社会の王朝史や宗教的な人間救済史ではなく、国民の文化史、文明史といった国民の精神の発達史である。前近代社会の政治史は基本的には社会統治と政治的支配の歴史のみを歴史概念としてきたため、その歴史は為政者の家系の歴史か政治的に顕著な業績を上げた偉大な政治的人物の歴史に終始する。宗教史は、教会史か、殉教者や聖人の歴史、あるいは奇跡の歴史に終始する。そこには人民や民衆の文化や精神の歴史的意義を問う思想は存在しない。それに対して近代国家の歴史は国家を構成する国民の精神の進展を意味するものとなる。それは理念史としての人類の文明、文化の発展史を意味する歴史哲学であると同時に、客観的な科学的な歴史学の成立をも意味する。なぜなら国家権力にのみ加担し、歴史を政治史として為政者の業績にのみ歴史記述を終始させるなら、国民の精神史や文化史、文明史が歴史から切り捨てられてしまうからである。さらに風俗や習慣や生活様式の変遷だけに着目する社会史、経済史だけに終始する歴史も、国権と私権の間に社会的な中立性と中性的な緩衝地帯となりうる「公共圏」を創造できないからである。

近代国家の歴史とは理念的には人類史、世界史の視点に立ちながらも、現実的な歴史記述においては、資料的に裏づけされうる科学的客観性と政治的中立性をもった公正な歴史でなければならない。現実的にそれに成功するかどうかは問題ではない。問題は公正性、中立性が保たれ、国家のイデオロギー的支配から解放されることを目指すことである。しかし、一方では歴史は常に権力と支配イデオロギーに利用される。なぜなら「歴史」は中立と真実を建前としているゆえに、それを味方にすることは公共圏、輿論を味方にすることを意味するからである。したがって歴史はつねに権力によって監視され、操作されてきているが、近代の専門的な科学としての歴史も公共圏の輿論の支持によって権力に対抗しうる力を持つにいたっている。そのため近代においては歴史の組織化の方向が国家間の争点となったり、権力側と反権力側の双方の争点となる。そして両者が歴史を自分の味方にしようとすることが政治課題となるのである。したがって近代の歴史科学がいかに客観性を標榜しようとも、その客観性、中立性には限界がある。

ともあれ、近代の歴史科学や歴史哲学、歴史思考は前近代社会の歴史のように政治を主題とする方向から、人間の精神の発達を主題とする文明史、文化史の方向に転換する。言い換えれば近代の歴史思想とは歴史をすべて人間の主体的な活動として再整理していく思想のことである。さらに言えば前近代の神や天の意志によってなされた人間の運命の歴史としての「政治史」を「進歩」の理念によって発達する人間の精神の活動とする、「精神史」「文明史」「文化史」に転換させるのが近代の歴史主義の思想である。したがって近代の歴史思想(歴史主義)の始動期の歴史著作者たちが歴史を政治的な諸事件の連鎖としてではなく、人間精神の発展と諸民族、諸国民の文化的な特性の形成過程として記述しようとしてきたのである。近代国家、近代社会とは、人間を国民という政治共同体に再創造していく諸思想と諸制度の複合体であるが、人間が政治的共同体として再編されるためには、共通の歴史によって共通の心情的共同体意識を形成してきた、精神的な同族集団であるという意識の共有が必要である。いうなれば、国家というゲゼルシャフト的な機能社会も、その基底は、ゲマンイシャフト的な心情的複合意識が与えられているという共感を必要とすることを意味している。したがって、近代の歴史科学は歴史研究の分類を政治史、経済史、科学技術史、芸術史などと形式的な区分を設けて、その専門区分を尊重しているが、その区分はお役所の権限区分と同じく、一種の学問的業界内の縄張り争いのようなもので、近代の歴史思想の本質的な要件ではない。

西欧近代の歴史思想は進歩主義であれ保守主義であれ、基本的には「人類精神進歩史」という人間理性の進歩を理念とすることを定言的命題として引き受け、革新と保守の対立がその相互対立によって自らが信奉する理念への賛否の問題として起こってくるのではなく、国民(民族)共同体の形成にかかわる現実的な思想闘争の問題として出てくるものである。ということは近代思想における保守とは、反進歩思想ではないということである。進歩に反対するのは伝統主義であって保守主義ではない。保守主義とは人間精神の進歩を否定する思想ではなく、進歩の加速化を抑制する思想なのである。進歩の加速は個人を高まらせ、個人の幸福を増大させるが、国民共同体の統一を分裂させ、国民の心情的一体感や共同意識を破壊する、というのが保守主義の思想である。

西欧近代思想は「進歩」という理念のなかに内在する相互矛盾、つまり、進歩を加速化させる科学技術の進歩と精神史の進歩、つまり人間性の道徳化、内面化、成熟化という進歩の間の矛盾対立を調整し、両者の進歩の相互補完をはかるために、「文明」と「文化」のほぼ重複する同義概念的な用法を容認してきている。しかし、近代国家が国家自体を神格化し、「国家理性」という国家自体が自己目的化する国家思想を推進させていく過程のなかで、それは「国民史」と一体化しようとする。つまり国家が歴史一体化しようとすることは、国家とは国民精神の体現そのものであるという国家イデオロギーの産物を意味するものである。いうなれば国家が歴史を神格化し、歴史が国家を神格化するのが、近代国家と歴史の関係である。

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