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2014年11月20日 (木)

美術展について書くことについて

このブログでは、私の日々の雑事で考えたことや展覧会の感想、そして読んだ本のメモを書き込んでいます(そのため雑然としてしまって、全体として雑多なゴミ箱をひっくり返したような捉えどころのない印象となっていると思います)。この中の展覧会の感想を書いていることについて、少しく述べたいと思います。

最初にこのようなことを書くのもどうかと思いますが、もともとは視覚的なものが好きだったというわけでもないのです。例えば小説を読んでいると景色の描写が事細かに書かれている部分などは面倒くさくなって読み飛ばしてしまって、ストーリーの筋を追いかけてしまうタイプです。だからミステリーなどは犯人のトリックの仕組みの説明が、どうしても景色の説明のようになっているので読んでいる途中で面倒になってしまうことが多く、一部の例外を除いてミステリーを読むことは、ほとんどないと思います。また、以前に山登りのことを長々と書きましたが、それを読んでいただけると気がつくと思いますが、私は山の魅力を景色とか高山植物とかいった視覚的なこととして積極的に書いていません。私の場合は、絵画のようなものよりも、むしろ音楽のような時間的に流れるようなもの─小説も筋が流れる─へ嗜好が向く傾向がありました。

それなら、展覧会よりも音楽について書けばいいのではないか、と言われればその通りです。実際に、ブログを始めたことは音楽の感想を書いていましたし、最近もポツリポツリとジャズのことを書き始めています。ただその時に、いつも思うのは音楽を記述することは難しいということです。しかし、それが音楽について書くことの面白さでもあるのは確かです。実際に、ライブに出かけて、一緒に聴いた友人たちと後で感想を語り合うと、互いに違った音を聴いていたことに気づき、その話から自分の聴いていなかった音を発見するということが良くありました。とはいえ、このようなことは、互いに相手をより知り、各人がどのような音楽の聴き方をするのか知悉していてはじめて成り立つようなことなので、ブログのように不特定多数の私の聴き方を知らない人に理解してもらえるような文を、なかなか書けなかったというのが正直なところです。

これは、音楽の分野ではありませんが、映画の分野で淀川長治という天才的な映画評論家がいて、この人は映画の作品を一つ最初から最後まで全部語ることができてしまうという稀有の人でした。このひとりの語りを聞くと、私が見た映画でも、いかに多くのシーンや細部の描写、あるいは巧妙な伏線の仕掛けなどをいかに多く見逃していたか、あるいはキャメラのアングルによる空間の取り方にどんな意味があったのかなどを知らしめてくれるのでした。そのようなお手本があったせいもあるのでしょう。また映画というもののとくせいもあったのでしょう。映画ファンの語りというのは、例えば、こういう話の運びが合って、こういうシーンがあって、ここで主人公の女優がこんな仕草をこのように撮って、その背後に映っている窓の外に自動車があるとないとで、このような意味合いを持たせて、こういう効果をあげているとか、そういう話ができるのです。それを音楽で同じように話すのはとても難しく、こういう音があってというよりも、ここは悲しいとかロマンチックだとか音楽そのものから離れてしまうのです。

展覧会のことを書くことについて述べようとして、別のことを長々と書いていますね。そこで、本題に戻ります。絵画について書こうとすると、音楽のように演奏された音は流れて消えてしまうのに対して、絵画は消えないで存在しているという大きな違いがあります。だから、私が、ああだこうだと記述しても、当の絵を画像なりで見ることができるのです。それで、というのでもないのですが、一度書いてみることにしました。だから、このブログで展覧会や絵画作品について書いていますが、それは音楽や映画を語るやり方で書いている、と言えるものなのです。フッサールという19世紀の哲学者は現象を説明することはできないが記述することはできる、というようなことを言っていますが、音楽とは、まさにフッサールの言う現象そのものと言えます。例えば、クラシック音楽の作曲家でヨハン・セバスチャン・バッハという人がいます。バロック音楽を集大成して、その後のハイドンやモーツァルト出現を準備したという西洋音楽史の上では重要な人とされています。彼の鍵盤楽器作品にパルティータという舞曲集があります。6曲の曲集のうちの第1番の組曲のフィナーレは左手で奏でられる分散和音が速い速度で回転するようなフレーズに乗って、右手でわずか2つの音で構成される単純なフレーズが繰り返される曲です。これは軽快でリズミカルに曲のフィナーレというように聴いていました。これをアンドラーシュ・シフというピアニストは、右手の弾かれる2音のフレーズの繰り返しを繰り返しのたびにアクセントに変化を付けたのです。その結果、この繰り返しが最初は問いかけで、つぎが回答というような掛け合いのように聞こえてくるようになったのです。それを追いかけると、たんに軽快なリズムでおわるということから、掛け合いによるドラマを聴き取ることができるようになったのです。そうなると軽快に気持ちよく曲を終わるというだけにとどまらず、掛け合いの変化を楽しみながら、まるで男女の会話を聞くように最後は大団円を迎えるというように曲の性格が変わってくるのです。これは、シフというピアニストがフレーズのアクセントに変化を付けたことを聴きとれるか否かによって、曲の聞こえ方がまったく違ってくるということなのです。また、展覧会から逸れてしまいました。音楽を記述するというのは、こういうことです。うまく伝わったかどうか、分かりませんが。絵画作品をみるということにも、このような音楽を聴くというのと、似たようなことがあるのではないか、と音楽好きので、そういう音楽を聴くというアプローチ方法しか知らない私は、そのように思いました。それで、絵画作品について、私はこのように見ているというのを記述しようとしたわけです。

少し長くなってしまっています。迂回ばかりで本題がなかなか進みません。まどろっこしいばかりですが、とりあえず、ここまでで、続きは後日ということにします。

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