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2014年11月27日 (木)

菱田春草展(6)~第3章 色彩研究へ:配色を組み立てる(1)

菱田は横山大観らと1903年から数年間、インドや欧米に外遊に行ったそうです。そこでの経験を契機に色彩研究に向かっていくといように解説されていました。そのことについて、作品を見ていく前に少し考えてみたいと思います。それまでの日本の画家は海外に出かけるということを考えていなかったと思います。鎖国の世の中でしたから、当たり前のことで、伝統的な絵画は中国絵画や長崎から漏れ伝わってくる洋画を大名のような上流階級の一部の好事家が珍重していた程度だったのではないかと思います。だから、画家たちは海外ということが視野の中にはなかったこと思います。それが、明治維新になって、逆に文明開化になってしまった。そこで、西洋の文物が堰を切ったように一気に入り込んでくる。その中には西洋絵画もあったのだろうと思います。そのなかで、絵画に関して危機感を強く抱いた一部の人々がいた。何か、幕末期の志士たちに重なって見えるところがあります。その志士たちの中でも、高杉晋作といった人々は、日本を西洋の列強から守るためには、先進国であるこれらの国の軍事や技術を積極的に学ぶ必要があると考え、自らも海外に行くことを望んだ。菱田の海外への遊学は、その志士たちから30年経って、絵画の分野で同じようにことをしていたように、門外漢の私からは見えます。実際のところは、日本にいて日本美術院の運動が周囲との対立やら経済状況やらで袋小路にはまり込んで、海外に逃げるように出かけたというところではないか、と想像しています。

Hishidaeveningそれはまた、明治維新が西洋列強に追いつけ追い越せを合言葉に富国強兵に努めた挙句が太平洋戦争だったように、一種の自己否定から始まるということは危うさを秘めていたのではないかと思います。菱田の作品を、これまで見てきた印象も、こういうものを、このように描きたいというといろからスタートしたのではなくて、お手本にしていたようなものではダメと否定するところから、これではないものという追求の仕方をしているように見えました。その際に、伝統的な日本の絵画ではない、西洋の絵画というのは「隣の芝生は良く見える」ようなものとして、一種のエキゾティックな魅力あるものに映った。伝統的な絵画に対して危機感を抱かせるものでありながら、それだけにです。しかし、西洋絵画は確固としで表現や技法が体系付けられシステム化されているので、その一部をいいとこ取りしようとすると、結局は逆に堅固な体系に組み込まれて、「ミイラ取りがミイラになってしまう」それだってあると思います。そのような危うい綱渡りのなかで、一つの試みとしてあったのが「朦朧体」ではなかったか。それは、日本画の「描く」という発想から「塗る」という発想のへの転換を内に含むものであった。「描く」のが線であれば、「塗る」のは色ということになるでしょう。このときの色は、「描く」という日本画で使われていた色とは、意味合いが異なってくるはずです。それは「描く」日本画では、線が中心となって構成されて、色はそれに付随した位置づけとなりますが、「塗る」という場合には、色が中心となって画面が作られることになってくるわけです。それだけ色が前面にでてくることになるので、色そのものが、これまでとは違ったものが求められてくる。いうなれば、色彩研究ということは「朦朧体」を試みたことから、ある意味必然的に導かれたことではないかと思います。それを、海外に出かけて、西洋絵画の色を、日本の気候風土と違う異質の光線のもとで実感してきたことも大きく原因しているとおもいます。

Hishidaevening2「夕の森」という作品があります。実は同じタイトル、同じ題材の作品が2作品あって、その両方が展示されていました。ひとつは1904年という外遊中に制作されたもの(左上図)で、もうひとつは1906年という帰国して色彩研究の中で制作されたもの(左中図)です。この2作品を比べながら見ていくと、菱田の色彩研究ということの一端が分かるのではないかと思います。まず、1904年の作品は、色彩が抑制されて水墨画のようです。これは外遊という長期間出かけるさいに絵の具や道具を持ち歩くには制限があったため、また、外遊先で盛んに作品制作をしたために、ふんだんに絵の具を使うことができなかったためもあったでしょう。水墨画のように濃淡の陰影を朦朧体の手法で、夕日にぼんやりとかすむ森林を背景に、鳥の群れ飛ぶさまを墨で一羽一羽をくっきりと強調するように描き、対照を際立たせています。ここでは、色彩よりも濃淡が重視されています。これに対して、1906年の作品は、全体が茶色の色調になって、薄暗くなってくる中で夕日の光線と、その夕日を浴びて映える木々を色で表わしています。その木々の一本一本が場所により夕日の当たり方が異なってくるのをそれぞれに茶色のグラデーションで描き分け、しかも影となる部分には鮮やかな青色が用いられています。この青色は写実的なものというよりは、基調となっている茶色との対照効果をうまく生じさせるために意図的に使われたものであると思います。茶と青は暖色と寒色の補色関係の一つであることを利用したものでしょう。これによって、影が黒一色で1904年の作品のように暈しの効果で融けるように全体が盆焼くとしてしまうのではなくて、影がひとつの輪郭を作っていて、森の木々が影の青によって一本一本が独立して立っていて、その一本一本が折り重なるようにして、森の置くに続いている重層的な森の風景が表現されていると思います。そこに、森の奥の厚みとか奥行きを想像させるものとなっています。また、それぞれの木についても、そのなかで陰影をつけられているので、それぞれの木の厚みも表現されていて、その折り重なる森の厚みが二重、三重に想像できるようです。さらに、小さくはありますが、くっきりと鳥の姿がえがかれたことで、そのくっきりとした姿が前景のように感じられて、森の厚みを一層のものとしています。この、1906年の作品は、朦朧体の手法というよりは面で表現することと、色彩の試用によって、空気遠近法のような効果をだして、夕日の光線と、それに映える森の広がりを凝縮して表現しているように思います。

Hishidaspring「春丘」(左下図)という作品。“黄緑色の野に咲くピンク色の花に、白雲を浮かべた水色の空。鮮明な色彩が印象的な作品である。加えて、花の部分には、油彩の点描のように筆触を残して絵の具を重ねている。黄緑色と補色の関係にあるピンク色を厚く重ねることで、鮮度を引き出す試みであろう。緑色の丘にピンク色と橙色の花を配した「躑躅」(右図)も、同じ関心をもって制作されたといえる。”と解説されています。この「春丘」にしても「躑躅」にしても、「夕の森」にしても、菱田が色彩の実験を重ね、その効果で表われてくる新たな表現の可能性に、喜々として勤しんでいる様が見て取れると思います。たとえば、日本画の余白を生かすという一般的に言われていることも、これらの作品では、余白という捉え方ではなく、背景として中心となっている花や木の色彩と補色をはじめとしたなんらかの関係をもった色彩が塗られていて、何らかの意味を持たされることになり、もはや何もない部分としての余白ではなくなっています。このようなことがあって、日本の絵画というものの枠を越えてしまうというように当時の人々にはみなされたとしても不思議ではないと思います。私が、後世の今から見れば、後出しじゃんけんのような卑怯な見方かもしれませんが、菱田の挑戦は意欲あるものと思いますが、ここで生み出された作品と、西洋絵画に属する水彩の風景画に限りなく近づいている、というよりも、これなら水彩画でもいいのではないかと思わせるものになってしまっていると思います。

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