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2014年12月25日 (木)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(11)

2.「自発性/受容性」と中動

カッシーラが根源的な知覚、表情知覚のありようを論じる際、そこに一つの矛盾が認められる。「自発性」と「受容性」の問題である。知覚にすでに見られる形態化を強調する文脈で、彼は知覚の「自発性」を言うが、自己意識の表情への関与を否定する彼は、表情体験における「受容性」を言う。表情の知覚をめぐって、或るところでは「受容性」が否定されて「自発性」が主張され、他のところでは逆に「自発性」が否定されて「受容性」が主張される。このような記述の矛盾は、記述しようとする事態が、「自発─受容」という枠組みでは記述しきれないものであることを示すものとして、表情知覚の特徴と考えられる。

表情知覚に「自発性」が主張されるのは、表情知覚が、すでにある世界、出来上がっている世界の単なる受容としては考えられないということからであろう。表情は、客観の側にはじめからあるのではない。とすれば、その成立、すなわち形態化には、主観の側の能動的関与が必要である。逆に「受容性」は、表情が直接に知覚されること、表情が主観に由来するとは思えないことから、主張されるのであろう。知覚する者は表情を能動的に生み出さない。とすれば知覚する者は表情を能動的に生み出さない。とすれば知覚する者は表情を、受動的に受容しているだけということになる─ここでは、能動性の否定が、一挙に受動性に反転する。事物や要素的な感覚刺激なら、客観的に存在するといえるかもしれない。しかし表情は、これまで見てきたように、客観的に存在するとは言い切れない特性を含んでいる。意味や概念なら、主観の産物だといえるかもしれない。しかし表情は、これまで見てきたように、主観からでたものとは言い切れない特性を示す。客観的なものとも主観的なものとも言い切れない表情、その体験は、本来、主─客、能動─受動の枠組では捉えられないものではないか。それを無理に能動か受動かの二者択一の図式にはめ込もうとすると、或る時は受動でないから能動、或る時は能動でないから受動ということになる。カッシーラの記述の矛盾はこのように理解できる。

ところでカッシーラは「自発性」や「受容性」を言うものの、表情体験を記述する際に、知覚する者や表情を主語にした能動態─受動態の表現を用いはしない。テキストの中での表情体験は、現れてくる何かを主語にした、再帰動詞の文で記述される。このような再帰動詞の表現は、能動態─受動態に対する中動態の流れを汲む表現である。表情体験を内側から素朴に記述する時、その記述は能動態でも受動態でもなく、中動態になる。表情体験は、能動─受動ではなく中動態で捉えられるべきものではないか。

能動態においては、主語は過程以前に過程から独立して存在していなくてはならない。予め存在する主語が動作主あるいは動因として過程を生じさせるのである。そして主語自身は過程の外にある。すなわちそれ自身は過程から作用を受けず、影響を被らず、変化せず、そのままでありつつける。能動態は自己同一的な既存の項を前提する。しかし表情は、主観的なものであれ客観的なものであれ、すでにある何か、既存の項を前提にしては考えられない。したがって表情体験は、能動態(そしてその反転である受動態)では記述できない。

表情は見えてくる。表情は生じてくる。それは体験に先立ってすでにある何かではないし、体験する我々が作り出すものでもない。それは体験の中で、出来事の中で、はじめて生じる。それはむしろ出来事そのものかもしれない。表情体験には、過程に外的な動作主・動因は考えられない。見えてくる表情自身は動因ではない。見えてきてはじめて存在するのだから。表情は私に見えてくるのだが、その私も動作主ではない。過程に外的な動作主である前に、私も過程に巻き込まれ影響を受けているのだから。中動態の主語は「過程の座であり」「過程に対して内的である」と言われる。中動態においては、過程の成立に、過程を生じさせる外部の何か、過程を超越した何かは前提されていない。主語として示される項は、そのような外部の動作主・動因ではなく、それ自身に過程に巻き込まれてあり、過程の一部をなし、過程から影響を受け、過程の中で変化する。このように考えれば、カッシーラが表情体験を、現れてくる何か、見えてくる何かを主語とした中動態表現で記述したことも、積極的に理解できよう。

 

3.「差異として措定されない差異」と中動

カッシーラは、表情において「感性的なもの」と「意味」とが一体であることを強調する。しかしその一方で彼は、表情に、「感性的なもの」と「意味」という「二つの契機」、それらがつくりなす「二重性」をはっきり見て取っている。そもそもカッシーラが表情をシンボル形式の始まりと捉えるのは、そこに「感性的なもの」と「意味」という二つの契機がすでに認められるからである。この観点から言えば、表情は二であるという特徴を持つ。表情は一であるが、二でもある。一でもあり二でもある、単なる一でもなくはっきり区別された二でもない。この点にも、我々は表情の積極的な特性を見て取る必要があろう。表情は、それ自身、他の何にも還元できない根源的な現象であり、「単純な所与」であるが、そこにはすでに「感性的なもの」と「意味」という「二つの契機」、両者のあいだの差異が潜勢する。表情知覚の「根源性」は、純粋な一の体験ではないのである。

中動態は、動作主・動因なしに生じる出来事を表現しうる態と理解できるが、そこに全き一は存在しない。中動態で表わされる出来事は、たとえそが最初の出来事であり、そこから根源的なものが出現するとしても、すでに(差異とはいえない差異)、一と二との微妙な間が組み込まれている。

「根源的」なものとしての表情の体験は、この意味でも中動態と理解することができる。表情知覚は根源的なものではあるが、単純な全き一の体験ではないのだ。カッシーラは表情機能につづき、言語における表示機能、さらには科学的認識における表意機能を考える。シンボル機能は、表示、表意と進むにつれて、世界を対象化、客観化していく。事物とその属性という分節、実在と単なる表われ、「物的なもの」と「心的なもの」などの区別は、その結果生じるということになる。それらの基礎に表情がある。このような対象化、客観化は、表情に「潜在」する「二つの契機」がすでにあるからこそ進んでいくのだろう。中動態は、主─客図式を単純に否定するものではなく、それを準備するものでもあると言えるかも知れない。

 

4.芸術体験と表情

さまざまな項が互いに関係し合い、関係の中でそれとしてあるような、いわばゲシュタルト的体制の成立、分節化の過程を、その内部から記述しようとする時、その記述は中動態を必要とする。表情体験は、そのようなゲシュタルト的体制の成立に立ち会うこと、主観や客観、現れや意味が互いに差異化しながら一つの全体として生じてくる出来事の内側から立ち会う体験なのではないか。それは「根源」であっても、すでに単純な一なるものの体験ではありえない。そのことまで含んで、表情体験は中動態という範疇で捉えることができるだろう。芸術体験の記述、とりわけ芸術に関わる知覚体験の記述には、しばしば中動態と捉えうる言い回しが用いられている。

そこでは、一が二であり二が一である途中のような出来事が、芸術体験の内に見て取られている。そしてこの情動的基調、色や形の内面は、絵を見る者の内面に直接通じており、色や形は、その内面を介して、見る者の内面に直接働きかけると言われる。芸術作品の受容体験には、中動相を見出すことができる。芸術の領域で重要な問題とされる「表現」は、「表情」と同じ語で語られる。根源的な知覚を表情知覚と捉え、そのあり方を中動という範疇で理解することは、表情=表現から芸術体験の中動相を考察することにつながる。それは、受容体験だけでなく、制作体験にも関わってくるはずだ。

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