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2014年12月 4日 (木)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(1)

序章 「見える」ということから中動態へ

筆者は中動態という聞き慣れない態に、メルロ=ポンティ研究の途上で出会った。メルロ=ポンティは、知覚─それも特に身体まるごとの働きとしての知覚を世界とのかかわりの基本・基盤とし、そこから考えを進めている。しかし、彼は、この知覚を端的に言い表すのにかなり苦心している。

初期の著作『知覚の現象学』で、彼は「私は青い空を見る」という知覚は、「私は数学を勉強しようと決心する」というような行為とは違うという。知覚が伝統的な意味での主体、すなわちはっきりと意識できる「私(フランス語のje)」の働きではなく、一種一般的な雰囲気の中で、前人格的・無名的なものとしてある。そこで私ではなく、ひと一般を表わす不定代名詞onを用いる。フランス語の文では、je perçois(私は知覚する)ではなく、on perçois en moi(ひとが私において知覚する)という言い方になるとする。つまり、メルロ=ポンティは、知覚の主体を前人格的・無名的なものと捉え、現象学的身体こそがそれに当たる─意識ではなく身体こそが我々の前術定的な生を担っていると主張している。この場合のon(不定代名詞)は身体なのである。主体の座は、意識から身体へとずらされる。しかし、その限りで、メルロ=ポンティのこの主張は主体─客体の図式の枠内にある。主体を、私の知らないところで働いている私の身体によって言わば二重化したことにより、意識的・主体的な「私」のはたらきによるとは言えないと最初に言った知覚のあり方も主体─客体の図式に押し込められてしまう。

しかし、このような主体─客体の図式の中では、「ある」ということでは常に「主体にとってある」ということにしかならない。いかに主体を意識から身体へ深めようと、そのことに変わりはない。するとその場合、主体そのものの「ある」ということが考えられなくなる。「主体にとってある」ことが「ある」ことなのであれば、主体の「ある」とは何であるのか。

このような問題に向かい、「ある」ということを改めて考え直そうとしたのが、メルロ=ポンティの後期哲学である。ただし、身体まるごとの世界との関わり、知覚の場面から出発するという姿勢は変わりない。それに伴って、知覚体験の言い表し方に変化が見られるようになる。すなわち、on voit Xという表現に代えて、フランス語の代名動詞すなわち<再帰代名詞+他動詞>という表現を多く用いるようになる。

ここでメルロ=ポンティは、意識的な主体が知覚を引き起こすのではないということ、主体の制御・支配を超えて、知覚がひとりでに生じてくるということを言い表そうとしている。つまり前期であれ後期であれ、彼が言い当てたかった知覚は、主体と客体との差し向かいから出発するのではない知覚、主体の対象への働きかけではない知覚、主体によって一方的に引き起こされるのではない知覚、とりわけ後期ではっきりしてくるが、主体や客体という項に先立って、まずおのずと生じてくる知覚である。しかしフランス語では、視覚を表わす動詞voirは、人を主語にして、物を目的語とする。メルロ=ポンティの苦心はここに由来する。

メルロ=ポンティがフランス語で言い表したかった知覚を、日本語で言えば「見える」という語が浮かんでくる。「私は空の青を見る」ではなく「空の青が見える」ということを、メルロ=ポンティは言いたかったのではないか。

我々日本人はふだん、「見る」と「見える」を使い分けている。例えば、「どう見ても、こうしか見えない」とか、「僕の答案見ただろう」「見たんじゃないよ、見えたんだ」というような具合である。このように比較対照して使い分けられる場合、「見る─見ない」は私次第であるが、「見える─見えない」は私を超えていると思われる。とはいえそれは、「見せられる」のように他者に委ねられているのではない。あくまで、ひとりでに見えるのである。

ところで、「見える」の古い形は「見ゆ」であるが、この語のもともとの意味として「見るという動作が、意志によらずに、自然の成り行きとして成立する意」とされている。大野晋は、この「意志による」か「自然に成立する」かの区別が日本語の動詞文で重要な位置を占めると指摘している。それによれば、日本語の動詞文では、動作・作用・状態の、時間という場面での判断に先立って、その動作・作用・状態が自然に成り立ったか、それとも誰かの作為によって成り立つかの弁別が示される。そのためには、ひとつに、動詞の下に助動詞ル・ラルを加えて自然展開を示し、ス・サスを加えて意志・作為を示すという方法があるが、また助動詞自身の語尾の対立によって示す場合もある。

このようなことから、「見る─見え(見ゆ)」という対立も、同様に動作・作用・状態が自然展開的・無作為的に成り立っているか、それとも誰かによって意志的・作為的に引き起こされているかの区別を表わすと理解してよいだろう。この区別は一面において、英語のlook atseeの区別やフランス語のregardervoirの区別と重なり合う。しかしこれらの動詞は、どれも主語(subject)と目的語(object)を必要とする点で主体(subject)─客体(object)の図式に還元される。これに対して「見る」とくべつそれる「見える」という語によって分かりやすくなるのは、主体─客体、能動─受動を超えた自然な展開、おのずからの成り行き、自然発生的・自発性である。メルロ=ポンティが問題にしている知覚は、特に自然発生という点で、「見える」ということとして考えることができる。

ところで、自然展開的であることと、受動的であるということは、しばしば混同される。しかし、能動的─受動的という対立と作為的─自然的という対立とは、元来全く次元が異なっている。能動─受動とは、或る事態・状態に関与する項のあり方の区別である。したがって、名詞によって表わされる項(=基体)の存在を前提として、項に視点を置く言い方、考え方である。これに対し、作為的─自然的というのは、動詞によって表わされる事態・状態の成立の仕方に関する区別であり、人や物という項の問題ではない。もちろん、作為的である場合には、その作為の出所を、名詞で表わすことのできる項として問題にすることもできよう。作為的である場合にはじめて、事態・状態に先立って存在する項に問題を還元し、項から考えることができると言ってよいかもしれない。これに対して、自然的である場合は、事態・状態の成立を帰すことのできる究極的な項などありえない。この場合、事態・状態の成立は、項と項との関係に分解しきれない、分解せずとも丸ごと捉えるしかない、と言う事ができる。このように考えると、メルロ=ポンティの「見える」ということへの注目は、項を先に立てる発想からの離脱、項を基本として項と項との外的関係でのみ物事を考えるやり方の乗り越えともつながることがわかる。さらに言えばこれは、項の自己同一性や実体性の否定ともつながっている。

翻ってヨーロッパ系の言語に立ち戻るとき、「中動態」という第三の態が視野に入ってくる。メルロ=ポンティの後期テキストでは代名動詞が用いられたが、そもそもフランス語の代名動詞は、インド=ヨーロッパ基語の中動動詞に対応するというのである。しかもバンヴェニストによれば、中動態は、能動態─受動態の対立、すなわち「行う行為─受ける行為」の対立とは別次元の態であるという。能動でも受動でもないメルロ=ポンティのX se voitは、バンヴェニストの言う中動態と理解できる。このような過程は外部から引き起こされたのではなく、Xse voitという過程から出現する─中動態は、「見える」ということと呼応するところがある。「見える」という日本語の動詞だけでなく、インド=ヨーロッパ語の中動態という第三の態を足掛かりとすることで、西洋思想の文脈と手を切らずに、これまで捉えにくかった何かを考えることができるのではないか。

いったん中動態を意識すると、特に20世紀後半、思索の枠組みが問題にされる場面で、しばしば中動態への言及が為されていることに気づく。能動─受動、主体─対象という二分法では捉えきれない物事が問題になる時、中動という第三の態が持ち出されるようである。中動態が認識の枠組みとして用いられるとき、何が積極的に主張されるのか、どのような事柄が視野に入るのか─中動態への様々な言及から、言語学の領域を超えた中動態の射程が見えてくるように思われた。

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