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2014年12月23日 (火)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(9)

3.過程に参与するもの区別可能性の低さ

ケマーもまた「主語の被作用性」を中動態の特徴の一つと認めるが、そのことを、動作の「起動者」が動作の「終点」でもある、というかたちで理解する。この点において、中動は再帰と同じ性格のものと捉えられる。ケマーは「動作主」という語は避けるものの、主語─目的語(主体─客体)という対を思わせる起動者─終点という対の用語を使い、中動を再帰と同様、自分から発して自分自身へ帰着する動作という形で捉えようとする。その上で、ケマーは再帰との対比で中動を特徴付ける。彼女は、多くの言語で再帰と中動が異なった指標を持つと指摘し、両者を意味の上で区別する。再帰においては「起動者は他の実体に働きかけるのとちょうど同じように、自分自身に働きかける」が、中動では「起動者と終点という二つの意味論的役割が、ただ一つの全体的な実体に帰される」

すなわち再帰が、「自分を見る」「自分を愛す」というように、自分自身を対象とした他動詞表現で捉えうるのに対し、「服を着る」などといった中動では、起動者と終点、主語と目的語に呼応するような役割が、主語のうちで区別できないというのだ。起動者で終点でもある,という規定は、二人が互いにキスをするとか抱き合うといった相互的な動作にも当てはまるが、この場合でも、再帰と中動は区別される。二人が「キスをする」というのが再帰の場合、それは片方が片方にキスし、次にもう片方が片方にキスする、ということであるのに対し、中動の「キスをする」というのは、両者が口と口とを合わせてキスをするということを表わす。再帰ではキスをすることとされることが区別できるが、中動では、キスしているのかされているのか区別しにくい。中動のこのような特徴を、「関与者の区別可能性の低さ」と規定する。起動者と終点という二つの関与者が、区別できないということである。

他方、ケマーは中動態と自動詞の能動態を区別する。自動詞の能動には起動者しかいないため、関与者が一であるとされる。これは出来事から主語が影響を被らないということとイコールであるが、この一は全き一、その内部や下位の構造が問われない、いわば一つの単位ということになろう。しかし中動態の主語は、このような純粋な一ではない。ケマーは中動と再帰を比較する文脈において、起動者と終点が「ただ一つの全体としての実体」に帰されるという一方、自動詞の能動と比較する文脈においては、この「一つ」のうちに「何らかの程度の内的複雑性」を指摘する。出来事を引き起こすこととその影響を被ることと、出来事を引き起こすものとその影響を被るもの─ケマーは中動態の主語のうちに、相反し対立する二が、区別し難い一としてあるのを見る。

中動態の主語は、「ただ一つの全体としての実体」と言われるものの、自分自身のうちに安らっているわけではない。そこに差異とも言えない差異が生じ、それ自身からずれるとも言えないかたちでずれていく何かと考えられる。差異やずれは、だからといって一が二になるとも、一の中に二が見て取られるとも言えないかたちで生じている。中動態は、自己同一的な一や二ではなく、一が二に分割されているのでもなく、一と二の微妙なあいだ、差異とも言えない差異、ずれとも言えないずれに、関わるように思われる。

 

4.諸特徴の関係

言語学者たちは、このように様々な側面から中動態にアプローチし、論を展開する。言語学においても、中動態の「本質」についての最終的な一つの答えは出ていないと考えられる。しかしそれらの議論は、ただ一つの結論に統合されるのではないにしめ、互いに関係を持っており、我々はそこから中動態の性格を、あるかたちで理解することができる。

能動態やその反転である受動態が、自己同一的な項を前提とするのに対し、中動態は、自己同一的な項を必ずしも前提しない表現だと考えられる。バンヴェニストの「主語が過程の座である」という中動態の理解は、中動態の主語が、過程に巻き込まれ、過程の中で生成変化する場のようなものであることを示している。ケマーは、起動者─終点という、項を基本とする図式から出発するが、結果として見出されるのは、「関与者の区別可能性の低さ」、すなわち中動態の主語が自己同一的な一ではなく、内に差異ともいえない差異を含み、ずれともいえないずれかたちでずれていく、いわば単位としての安定した項の否定である。ケマーが見出した中動態の特徴は、バンヴェニストが見出した中動態の特徴と繋がっている。中動態は自己同一的な項を基本とし、項と項との関係で事態を表現するのではなく、過程の中で全体が変化する、差異が生じ、変化が起こるというように、事態を表現すると考えられる。

自己同一的な項を基本としないということは、他方、ゴンダの言う「動作主の不在」、出来事がどこからともなく主語におこるという、中動態の特徴と結び付く、動作主を考えるということは、動詞で表わされる過程を引き起こした本体、過程に先立ち過程の外部にそれ自身として存在する項を前提する。項を基本とし、項から出発して事態を捉えるやり方である。これに対して中動態は、動詞の表わす過程の中で、物事がどのように生成したり変化したりするかを表現する。「もの」から出発するのではなく、「こと」が起こるということそれ自体から出発して、事態を捉えるやり方だとも言えよう。中動態の動詞表わされる過程は、項を原因として捉えられるわけではない。過程は何かによって引き起こされたのではなく、まず起こったのだ。動作主は見当たらず、出来事は、いわばひとりでに、どこからともなく、まず起こったのだ。動作主の見当たらず、出来事は、いわばひとりでに、どこからともなく起こるということになる。

「動作主の不在」「出来事性」というこの特徴において、中動態は日本語の「する」に対立する「なる」と重なるところがある。しかし中動態にはそれとは別の重要な側面がある。ケマーが指摘した「関与の区別可能性の低さ」、我々の言葉で言えば「差異とも言えない差異」「ずれとも言えないずれ」が、中動態の主語のところに忍び込んでいるというその点である。出来事が、おのずから、自然展開的に生じたとしても、その出来事および出来事の主語となる何かは、やはり全き一ではない。ゴンダは「出来事が主語に起こる、ふりかかる」というが、それもまた、主語に何か異質なものが生じ来たり、同時にその何かは主語の内なるものとされている、ということを示している。眠りは、私の意志に反してでも私に訪れるが、それでも眠るのは私であり、私が眠るのだ。そこにはいつもすでに差異と言えない差異があって、繰り返しになるが、一が二であり二が一であるような過程の途中の出来事が、中動態で表わされる。

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