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2014年12月 3日 (水)

菱田春草展(11)~第4章 「落葉」、「黒き猫」へ:遠近を描く、描かない(4)

Hishidafallfukui菱田は、「文展本」を完結したものとみなしていたのではないようで、「落葉」を、その後も違ったバージョンで制作しました。「文展本」の後か、同時平行してか分かりませんが、別のベージョンとして福井県立美術館で保管されている、いわゆる「福井本」です。“西洋絵画の自然科学的な線遠近法を踏まえれば、水平視の方がより明確に距離を表現できるはずだ。ただし、それはモチーフの寸法を縮めつつ遠方まで描き込んだ場合に限られよう。ここでは、「文展本」よりも奥に位置する樹木の根元を下げて俯瞰を浅くしながらも、画面奥の描写を省き、背後の地を広く空けている。それゆえ、最初の「滋賀本」ほどではないにせよやはり奥行きは限定され、かわりに地と図の対照が意識される画面となった。”と解説されていました。このような「福井本」は「文展本」とは異なって、“地と図が明瞭に分けられ、無限の空間というよりも、図と地とが織り成す一種の装飾性がかたちとなってあらわれることとなった。”菱田は、「落葉」について「未完本」と「文展本」そして、この「福井本」(同様の方向の「茨城本」)という三つの方向性で制作しましたが、彼自身そのいずれかについて、これだと一つの方向性を選択しえたわけではなかったと思います。それは、どの方向性にも、これだという決め手を見つけられなかったのか、菱田自身、この「落葉」の後で、まったく別のものを描き始めてしまうので、結果が明らかにならなかったと思います。そして、ほどなく菱田は亡くなってしまったので、しばらく時間をおいて、この試行錯誤を再開するつもりだったのか、分かりません。ただ、三つの方向性を見比べていると、この「福井本」が一番安心して見ていられる、見た目に自然な感じのする、西洋画の遠近法感覚を日本画の平面的で装飾的な調子に破綻なく合わせたようにみえます。この方向は、彼の後に続いた日本画家や同僚の人々にも受け容れやすいものだったのではないかと思います。しかし、その反面では他の2つにあったような面白さが減退しているような印象を受けます。

Kanzankinomaいずれにせよ、これらの「落葉」で試みた菱田の方向性は、同じ日本芸術院で切磋琢磨した横山大観や下村観山が森林風景を取り上げ、同じように琳派の影響を受けた平面的で装飾的な作品を制作したと言われながら、二人とはまったく異なる方向性を志向していたのが分かります。例えば下村の「木の間の秋」と(右図)いう作品と較べてみると、その違いがはっきり分かります。「落葉」と「木の間の秋」は同じ秋の林を描いた作品でありながら、前者は木々の林の広がりと空間を感じさせるのに対して、後者は稠密な木々の生い茂る密度の高い空間を抽出した印象です。前者が林という深い奥行きと水平的な広がりで画面を越えて広がっていく方向性があるのに対して、後者は奥行きを欠いて林全体に思いを馳せるというのではなく、その一部をピックアップしてそこに生い茂る木や草が絡み合う濃密な姿を活写した密度の高い画面に観る者を引き込んでしまうブラックホールのような趣です。ここに、菱田という画家が空間をつくるという画面構成をまず重視する画家だったことが分かります。個々の細かい描写というよりも全体としての世界を構築するタイプで、横山や下村にはない、というよりも近代の日本画にも似たようなタイプのいない画家だったのではないかと思います。それだけに、伝統的な日本画の制約された空間表現の枠には資質的に収まりきれず、新たな表現を模索したのは、自身の外からある程度強制された面があったかもしれませんが、菱田自身の表現の性質から考えると、必然だったのではないかと思います。その中で、朦朧体とか「落葉」での様々な成果といった表現方法を提示しましたが、その根本には二項対立の姿勢があるように、私には見えます。その技法的な試みは菱田の二項対立の考え方を土台にして生み出され、技法し様々に試行錯誤されますが、ベースとなる二項対立の考え方は一貫しているように私には思えます。作品において、単独のものを提示するのではなく、二つのものを対向的に提示する。例えば「水鏡」では天女を描いた作品のように見えて、水面に映る姿を曖昧にすることで後年の朽ちた姿を対比的に暗示して、それと目に見える姿を対立的に示すことで、今の姿の美しさを際立たせ、時間的なひろがりを画面に持ち込んでいます。「菊慈童」では、深山の秋の風景の広がり、ポツンと残されたように孤独に佇む菊慈童を対立的に画面に置くことによって菊慈童の孤独の深さと彼を包み込む自然の宇宙的な広がりを表わしています。「落葉」では、このような対立的要素が複合的に用いられて、時間的、空間的な広がりを画面に与え、たんに広がるだけでは茫洋としてしまう画面に焦点を示して観る者にたいする画面の導入口を作らせています。このような作品に表れたものだけでなく、日本画の平面性と西洋絵画の三次元空間を二次元の画面に移そうとする志向性の対立、線描と面で描く方法の対立、そのような対立的要素によって物事を捉えていこうとする姿勢が菱田には一貫して見られるように、私には思えます。そして、それらの二項対立に対して一様な回答を与えるのではなく、菱田は自身の制作課題を二項対立の枠の中で捉えて、回答を模索していったというのが、菱田の画業に一貫して流れている姿勢のように私には思えます。

このような二項対立の中で回答を模索していくという姿勢の中から菱田の作品の大胆さやダイナミックで生き生きとした活力が生まれたのではないかと思います。もし、この二項対立に回答が与えられたときには、菱田の芸術は完成したかもしれませんが、二項対立そのものの意味がなくなってしまい、作品の生き生きとしたところは、おそらく失われてしまうに違いありません。したがって、菱田の芸術は完成に向けて試行錯誤を続けられるものの、けっして完成しないという矛盾を抱えたものだったといえるかもしれません。だからこそ、菱田の試行錯誤に方法的な一貫性に貫かれているというよりは、時期的にあることに集中して取り組むと、次の時期には別のあることに集中するが、そこに明確な必然性が感じられず、菱田自身の気が変わったとしか思えないようなところは、そのような彼自身の芸術に内包する矛盾を自覚していたことによるのかもしれません。菱田は志半ばで病に倒れ、画業は中途で途絶えてしまいますが、もともとは決して完成には至らない、成熟とは相容れない芸術だったのではないかと思います。その意味で、彼が長生きをしたとしても、同じように言われたのではないかと思います。

もうひとつのメダマである「黒き猫」はどう見ても猫に見えないので、私に駄作としか思えません。

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