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2014年12月17日 (水)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(3)

2.荘子「胡蝶の夢」

或るものが、地平の切れ替えを伴って別のものになる出来事を、夢の体験として記したテキストがある。荘子・斉物論の「胡蝶の夢」と呼ばれる部分である。物語は以下の通り。

むかし、荘周は自分が蝶になった夢を見た。楽しく飛びまわる蝶になりきって、のびのびと快適であったからであろう。自分が荘周であることを自覚しなかった。ところが、ふと目が覚めてみると、まぎれもなく荘周である。いったい荘周が蝶となった夢を見たのだろうか、それとも蝶が荘周になった夢を見ているのだろうか。荘周と蝶とは、きっと区別があるだろう。こうした移行を物化と名づけるのだ。

我々はここにまた、地平の切り替わり体験を見る。夢の地平と目覚めている「現実」の地平との切り替わりである。荘子は目覚めている時の地平の続きで胡蝶になっていたのではないし、胡蝶は夢の地平内部で荘子に戻るのではない。荘子は現実にではなく「夢で」胡蝶なのだし、胡蝶は夢から「目覚めて」荘子なのである。胡蝶は荘子と別の次元の存在であり、荘子は胡蝶と別の次元の存在である。胡蝶のいる夢の地平と、荘子が目覚めている現実の地平は、互いに「ある」ということの別の次元の地平である。その二つの地平が、ここで切り替わる。

ここで注目したいのは、その体験の中から「いったい荘周が蝶となった夢を見たのだろうか、それとも蝶が荘周になった夢を見ているのだろうか。」という疑念が生まれてきたことである。これは夢を見た荘子の疑念と考えてよいだろう。目覚めた荘子は、もしかしたら今の自分が胡蝶の見ている夢ではないかという思いを抱く。今ここにいる自分が自分であること、今ここにいきている「現実」が現実であることに、確信が持てなくなるのである。だからといって蝶であったこと、蝶として生きていた「現実」の方が現実であるという確信もない。二つの地平は互いに相対化し合う。ここにおいて、私の私であること、荘周の荘周であること、蝶の蝶であることの自己同一性、安定性が、現実の現実であることの自己同一性、安定性ごとに揺るがされる。

このような「胡蝶の夢」体験には分裂病との共通性が見出される。例えば、小出浩之は分裂病の病的体験を、日常の意味からずれた異常意味が出現するということ、及びその異常意味が否応なく主体を転覆させるほどの力をもって出現するという二つの側面にわけ、後者を根源的と見なす。通常は知覚された物の陰に隠れているこの力が出現することによって、主体は、自分が見ているものなどの知覚しているものの確実性ごと転覆させられ、日常的な意味とは異なる異常な意味を押し付けられもするというのである。この分裂病患者が体験している力を、荘子は夢と現実の地平の切り替えを通じて体験する。ここにおいても、問題なのは「何は」「何を」と言いうるもの─「胡蝶の夢」においては蝶や荘周─ではない。その手前、「何は」「何を」と言いうるものがそもそもそれとしてあること、成り立っていることにかかわる働きである。

これは、私の私であること、もののものであること、世界の世界であることにかかわる働きである。長井真理は、ここに中動態で表わされるべき何かを見出した。「ものが見える」も「私に見える」も、同じ一つの「見える」という中動態の出来事から成立している。

「胡蝶の夢」においても分裂病体験においても、われわれの生きるこの世界の確実性と、そこで生きる主体としての「私」の確実性が、表裏一体の事柄としてともに成立しなくなる。その不成立によって、私が私であること。ものがものであること、世界が世界であることが、謎として照らし出されるのである。これは、私がものや「ある」ということがあらかじめ成立している安定した地平の内部では気づきえない謎であろう。あるいは、外部の安定した第三の地平から眺めていては、捉えられないことでもあろう。これは、地平の崩壊、新たな地平の成立、複数の地平の切り替え等、何らかの地平の変動に自らも巻き込まれつつ内側から体験するかしないかことである。であるからこそここに、「主体が過程の内部にある」中動態が要請される。

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