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2014年12月29日 (月)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(15)

第六章 差異化=媒介と中動相

1.中動態と媒介

我々はこれまで中動態の表わす事態を、差異化、分節化という角度から考えてきた。しかし他方、中動態に「媒介」を見ることが、思想の領域で行われている。

フィンクは「現前化と像」において像知覚の意識に中動作用を見て取っている。画像は、絵の具や画布といった現実的な支持体と、非現実的な絵の中の世界すなわち像世界、という二つの層とが一つになったものであり、そのことによって、例えば我々のいる部屋という現実世界に、非現実の世界が開かれる。像は、現実の世界と非現実の世界をつなぐ窓だというのである。我々にとってすでにある現実世界のただ中に、像世界という別の世界が開かれる、開けてくる。この「開かれる」は、再帰動詞で表わされる。これは、自分で自分を開くすなわち自己開示というような再帰の意味ではなく、出来事を通じていわばひとりでに世界が開けてくるという意味での中動態であろう。しかし、それだけではない。ドイツ語で中動態には「媒介」「媒質」という意味もある。つまり、画像において二つの世界が媒介されている。それに対応する意識のあり方が中動と言われるのであれば、中動態には媒介が見て取られているはずだ。

我々は事態を生成、成立という方向から考えてきたことで、そこに主として差異化・分節化を見たのであるが、すでに生成したもの、成立したものの側から遡って事態を捉えると、そこには媒介が見て取られるということかもしれない。

 

2.見えるということの中動

カッシーラは表情のうちに、一である二、二である一を見ている。カッシーラにとって表情は、世界の形態化の始まりであって、どのような実体にも還元されない「根源的」な「現象」「現れ」である。表情はまた、最初のシンボル機能が見て取られるという意味においても「根源的」であるとされる。すなわち、表情においては「感性的なもの」と「意味」とが一体化しているというのである。両者のあいだに「分離は全くない」「区別はない」という表情の「単一性」をカッシーラは強調する。しかしそれがシンボル形式の始まりである以上、そこにはやはり「感性的なもの」と「意味」という「二つの契機の二重性」がある。カッシーラはこの「二重性」に「潜勢」という言葉を使う。「差異として定立されていない差異」「内部対立をかかえているにもかかわらず、それまで具体的な単一であったもの」という言い方もする。表情において、一である二、二である一が問題となっている。表情もまた、一と二の微妙なあいだにある。表情体験はこのような意味で、中動態で表現されると考えられる。

「感性的なもの─意味」という対立を、カッシーラは「現れ─本質」、「個別的なもの─普遍的なもの」、「物的なもの─心的・精神的なもの」という対立にも展開する。反省的に捉えられれば明確に区別され互いに対立する二つの契機が、表情という一つの現象において、差異化されつつ媒介されている─われわれは表情の内にこのような差異化と媒介の働きを見ることができるだろう。

表情体験は「見える」という体験である。見えるということにおいては、見えるものの向こうに、見えない何か、見えてしまわない何かが隠れている。見えるものは、見えないものの様々な見え、様々な現れとして見えてくる。見えない本体とその現れということだろうか。個々の現れは本体の一面でしかないだろう。しかし本体そのものは現れを通じてしか与えられない。我々は反省的にそれらを区別する。見えるもの─見えるということ─見えないもの。見えるということの内に、見えるものと見えないものが、分離しつつ一つであるというようにして生じてくる、振り返れば媒介されて一つになっている─それが表情なのだろう。そのような出来事が中動態で表わされる。

 

3.ふるまうことの中動

坂部恵は「ふるまい」という日本語に「受動的であると同時に能動的な<二重化的>な構造」があると指摘し、「<自由自在なふるまい>において、ひとは既製の行動の規範や形に従いながらも、決してそれに縛られることなく、いわば自己と他者との間、普遍的規範と個別的状況との間を想像力によって自由に往き来しながら、個別的状況に即死、個別的状況を超えつつ、ふるまう。」と述べている。ここに、中動態で表わされる事態が差異化と媒介に関わるのを見る。

このような事態を、中世以来の「ハビトゥス」概念を援用して考察するのが山内士朗である。彼は、ふるまいの自在さを保証するものとして、ハビトゥスを考える。「身体化し慣習化した能力」、「現実的な作用ではなく、ある状況の中で作用・行為を行いうる能力」がハビトゥスである。繰り返しによって学ばれ定着されたかたち、身についたかたちがあるからこそ、ひとは、いちいち意識せずとも状況に応じた個々の現実のふるまいができる─ハビトゥスとは、身体に沈殿するその潜在的な<かたち>である。人は、ハビトゥスという身体化された能力、身についた潜在的な<かたち>によって、他者や外的な事物と関わっている。ハビトゥスという身体に根づいたかたちを通して、悲しみや喜びを自分のものとしている。したがって「人間はハビトゥスによって世界を織り上げ、世界はハビトゥスを通して姿を現わしてくる」ということにもなる。

ハビトゥスは<かたち>と言われるが、それは目に見える現実の形ではない。目の前の個別のふるまいの形ではない。個別的な場面の中での、現実の身体の一つひとつの動きや姿勢の形ではない。それは物質的なもの、個別的なもの、現実的なもののはっきり目に見える形ではない。しかしそれは身体を座とする以上、純粋に可能的なものでも、純粋に普遍的なものでも、純粋に精神的なものでも、もちろんない。ハビトゥスは、「可能性と現実性の中間にある」とも「現実化しつつある可能性」とも言われる。可能的なものと現実的なもの、普遍と個体、知性と感性、精神的なものと物質的なもの…、山内はハビトゥスに様々な二元論的対立の「媒介」を見るのである。この山内がハビトゥスに見る「媒介」は、二者の中間にあることではなく、二が一であり一が二である事態なのである。

山内が考察していくハビトゥスのあり方は、カッシーラの捉えた表情のあり方と極めて似ている。

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