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2014年12月19日 (金)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(5)

第二章 自己の身体と中動態

1.身だしなみ、ボティ・ケアと中動態

疲労回復の対策や髪・肌の手入れのような、自己の身体に対する働きかけは、多くの言語で、中動態の動詞で表わされるという。ケマーによれば、「身だしなみやボディ・ケア動作の中動」である。これに対し、他者や他の事物に対する働きかけは、他動詞の能動態で表わされる。このことは、自己の身体に対する働きかけは、他動詞の能動態で表わされる。このことは、自己の身体に対する働きかけが、他者や他の事物に対する働きかけとは、別のこととして意識されてきたことを示すものであろう。自己の身体に対する働きかけは、他動詞の能動でもなく、自動詞の能動でもなく、わざわざ中動態の動詞で表わされる。どういう意味で中動態なのか。それを考えることは自己の身体との関わりを考えることであるが、同時に、中動という範疇、中動態の射程について、考えを深めることでもある。

ケマーは、さまざまな言語における中動態の指標をもつ表現を、意味の上から、いくつかのシチュエーション・タイプに分類する。「自分の体を洗う」「自分の髭を剃る」「自分の髪を切る」「服を着る」といつた「身だしなみ、ボディ・ケアの動作」は、「姿勢を変える動作」、「移動のない運動の動作」、「移動のある運動の動作」とならんで、「身体動作の中動」と総称される中動態のタイプに分類されている。「自分自身の身体に向けて、あるいは自分自身の身体を通して遂行される動作」のタイプである。

ケマーは、このような表現は一般に再帰ではなく中動であるという。再帰は、自分自身を目的語とする他動詞の能動表現とみなす。再帰においては、他動詞の主語と目的語が同一実体を指し、主語である起動者は、他の実体に働きかけるのと同じように、終点である自分自身に働きかける。そこでは、同一実体内でいわば働きかける側(起動者)と働きかける側(終点)の役割分担、分離・区別が生じている。

これに対し中動においては、他動詞の主語と目的語の形で、起動者と終点を考えることができない。「体を洗う」「服を着る」といった動作は、「(他者)の体を洗ってやる」とか「(他者に)服を着せてやる」といった他へ向かう動作とは別種の動きをする。これらの動作においては、はたらきかけを受ける身体部分も受け身は一方ではなく、自ら動いてその動作に大きく参与している。同一実体の内部で起動者と終点は区別しきれない。中動において、起動者と終点という意味論的役割は、ともに「ただ一つの全体としての実体」に帰されると、ケマーは言う。

ケマーの論は、中動態で表わされる「身だしなみ、ボティ・ケア」が、身体を介した自己自身への働きかけ、自己自身との関係として、ただし他動詞の主語と目的語との関係とは異なる関係として、意識されてきたことを示している。それはすなわち、中動態の動詞で表わされる出来事が、自足安定する不変の一者で成り立つのではなく、別個の二者の一方から他方に向けて成り立つのでもない、いわば(何かと何かの間とは言えない)間の微妙なずれとして生じていることを、示唆するものであろう。

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