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2014年12月27日 (土)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(13)

2.ハビトゥス、型、スタイル

ドーマーは、とりわけ工芸の技術が依拠する暗黙知を重視する。ここで言われる暗黙知は、言語化しうることとは別の、「実際にやり方をしっていること」である。そはれは、実際にそれを行う修行訓練によってのみ獲得され、対面で、実際に、やって見せてもらったり、自分でやってみたり、それを見てもらったりすることを繰り返してしか、伝わらない。したがって、個人の所有する知であると同時に、制度的あるいは公共的な知でもある。ドーマーの強調する「暗黙知」的側面は、モースの言う「ハビトゥス」と通じる。モースは、例えば歩くとか休息するというような単純な動作の内にさえ、社会のやり方の違いがあることに気づきここから「身体技法」の存在を見出した。人間にとって基本的と思われる動作、ひとがいわば「自然に」、意識せずにあたりまえのようにやっている動作のレベルにも、すでに技法と呼ぶべきものがあり、これが社会的に共有されている。ハビトゥスという語によって強調されるのは、社会的に見につけられた身体技法があってはじめて、ひとは身体を用いて実際に何かをすることができるという点である。ドーマーが「暗黙知」を見て取る「craft=技術」、すなわち制作において働く技術も、いちいち言語で意識されることのない身体化された実践の能力であるという点、及び人と人とのあいだで(身体的に)共有され伝達される社会的な技術であるという点において、ハビトゥスの一種と理解することができる。

ハビトゥスとしての技術は、いくつもの身体的運動を有意味で有効な一つのまとまった全体へかたちづくる能力と理解することができよう。その時々の場面や状況の中で、何か意味のあることが実際に行われるためには、身体各部分の動きや働きが協調し、その都度全体として或るまとまりをもたなければならない。はじめてのこと、慣れないことをする時に、ひとは身体のどこをどう動かしたらよいのか、一つひとつの動作や手順ややり方を意識し、いちいちその効果を確かめながら次の動作を行わなければならない。個々の動きはバラバラでまとまりをもたず、なかなか有意味で有効なものにならない。しかしその何事かを繰り返し、それに習熟した後ならば、その都度の場面や状況にかかわらず、スムーズにそれを実行できる。個々の部分部分の動きや手順が、意識せずとも有意味で有効なまとまりをなす。この時、ひとの内には、何事かがなされるための、基となる潜在的なかたちが出来上がったと考えられる。それに基づいて、その都度の動きや手順の具体的なまとまりが、ひとりでにかたちづくられるのだ。潜在的なかたちは、直接意識されるものではなく、身体において成立し暗黙のうちにはたらく。意識や思考のレベルではなく、身体のレベルにある。したがってこれは、いわゆる身体図式に相当するものと捉えることもできるだろう。この潜在的なかたちから、たびごとに、目に見える現実のかたちのまとまりが生まれ、意味のある何事かが実際に行われる。潜在的なかたちとそれを場面や状況に応じて現実化する能力を、ひとは社会的訓練を通じて身につける。身体化する。それによってはじめて、しようと思った何事か、「可能的なもの」も、それがハビトゥスであろう。

生田久美子は、「わざ」と認識との関係を追究する中で、日本の伝統芸道において重視される「型」を、ハビトゥスと捉えて考察している。日本の伝統芸道において重視される「型」を、ハビトゥスと捉えて考察している。ここで「型」は、「外面に表わされた可視的形態」である「形」と区別されている。「形」は、「各界に固有の技術の体系が身体動作に表わされたもの」で、「手続きの連続として記述することができる」。伝統芸道において、学習は師匠の動作を見よう見真似で真似ることから始まるが、この「わざ」の伝承は、そのような「形」の模倣を超え、「型」の習得を目標とするものである。「型」の習得は、単なる外見的要素的な動作の形の模倣を超えて、「形」をハビトゥス化すること、「形」を自分の動きとして主体的に生み出しうることである。伝統的に「型」と言われてきたものの中にも、技術とかたちの結び付き画見て取れ、潜在的なかたちとしてのハビトゥスといえる。生田は、さらに技術を、「意味」や「価値」と結び付けて考えようとする。彼女は伝統芸道の「型」の習得プロセスにおいて、「威光模倣」という現象に注目する。モースによれば「威光模倣」とは、ひとが「自分が信頼を置き、自分に対して権威をもつ人物によってなされて成功した行為、成功したと見なされた行為を模倣する」ことである。生田はこれを踏まえ、「型」の習得過程で学習者が、模倣する師匠の「形」を積極的に価値ある「善いもの」と捉え、価値に同意しつつ模倣を通じてその形や手続きの意味を追究し解釈する、と考える。そのことによって学習者は、次第に「形」を自らの主体的な動きにしていく、すなわちハビトゥス化するというのだ。威光模倣においてはたらく「学習者の対象に対する価値的コミットメント」及び「学習者の主体的かつ積極的な探究への欲求」が、自ら「形」を生み出す能力である「型」の習得に大きく関与していると、生田は強調する。形の模倣を通じて意味や価値を追究することではじめて、自分のものとしての「型」の成立が可能になる、というわけだ。とすれば「型」は、目に見える具体的な形や手続きと意味との両方に関わる位相ということになるだろう。両者を媒介するものと言っていいかもしれない。そしてもちろん、ここで言う意味は、それ自身として独立に存在する意味ではありえない。

メルロ=ポンティは表現活動にrealisationという語を用いる。表現される内容が表現以前にはそれ自身として存在せず、表現によってはじめてあるようになるからである。「着想は制作に先立ちえない」と彼も強調する。表現活動は、既存の意味、作者があらかじめ把握している意味の翻訳ではなく、それまでなかった意味をそこにあるようにすること、意味を「実現し、実行する」ことなのだ。しかしrealisationという語は同時に、そのはたらきによってreelなものとなる、未だreelではない何かを前提する。表現以前には単なる可能性なのかもしれないが、表現されるものがあってはじめて、表現があるということだ。realisationという語は、このように、表現されるものと表現という二つの項が不可分で互いに依存しあうことを示す。表現されるものは表現がなければないのだが、表現はあくまで表現されるものの表現である。両者は、制作という表現活動から、いわば同時に、一である二、二である一として生まれてくる。カッシーラが表現知覚に見て取ったのと同じ、一が二であり二が一である途中の何事かが生じてくる出来事、中動態の出来事である。しかし作者は、この作業いちいちを直接に制御するわけではない。作者においてこの作業は、作者それぞれの「スタイル」によって可能になっていると、メルロ=ポンティは考えるのである。彼の言うスタイルは作者のうちではたらく身体図式という側面をもち、その意味で、作者の制御を超え、しかし同時に作者のものでもある。メルロ=ポンティの言うスタイルは、身体を座とするかたちであること、可能的なものの現実化に関わること、という二点で、ハビトゥスと重なる。メルロ=ポンティは、それぞれの画家が自分自身のスタイルを持つこと、画家が作品に描き込む直接的な自己ではなく、自分のスタイルであることを指摘する。我々が作品に見て取るスタイルは、ハビトゥスとしての技術が作者の身に備わり、はたらいていることの、証と言えるのではないだろうか。

我々が「型」や「スタイル」と言われてきたもののうちに、ハビトゥスとしての身体化された技術を見出すことができる。そは、個人のものであると同時に、間主観的、社会的なものである。芸術制作に働く技術は、他者に対して開かれたかたちという側面を持つと考えられる。そしてひとが身につけたこのかたち、潜在的なかたちによって、「想」とか「意味」とか「可能的なもの」とか言われるものが、実際に見たり聞いたり触ったりできる現実のものになっている。ここでかたちとは、二重の意味で媒介としてはたらいている。そしてそれが主体の意識や操作を超えて暗黙にはたらき、しかもなお主体のものとされることも合わせて、我々は身体化された技術におけるかたちの働きを、中動態で理解することができるだろう。

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