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2014年12月 2日 (火)

菱田春草展(10)~第4章 「落葉」、「黒き猫」へ:遠近を描く、描かない(3)

「文展本」の「落葉」は屏風という横広の媒体に描かれたことにより、水平方向の空間が広がっていく画面効果を最大限に活かすことになりました。一方で、単に広がりがあるだけでは、観る者にとって掴みどころのないものに陥ってしまうおそれもあります。永遠などと口では簡単にいいますが、限りある我々には、無限などと言われても茫洋とし他ものになってしまいます。無限の宇宙空間などといいますが、夜空に広がる星空を我々は、そのままに見るというよりも星座という秩序を便宜的にねつ造して、勝手な意味づけをして解釈をしようとします。「落葉」の広がりは、それだけでは観る者には茫洋としたものになってしまいます。そこで、焦点としての機能を担っているのが、一双の屏風のそれぞれの左手に描かれた手前に位置している若木です。一本は紅葉の盛りで、大きな葉がおちようとしています。またもう一本は針葉樹の常緑の青々とした佇まいです。菱田は風景画において、単に風景を描くだけでなく、風景の前景に人間や動物を配置して、小さな存在である人間や動物との対比で背後の風景の広がりを強調するように表現してきました。この「落葉」での2本の若木は、菱田の風景画でよく用いられた前景の小さな存在に相当するものになっていると思います。この若木があることによって、観る者は、若木との対比によって林の空間の広がりを見渡すことができることになります。いわば、この若木は空間の広がりを、ここを中心にして見るための始点になっているのです。西洋絵画の場合、空間の奥行を遠近法で表現しますが、遠近法の構成には必ず消失点が存在します。その消失点は空間を鳥瞰するための視点になっていて、観る者は、その視点に同質することによって画面の立体性を認識することになります。「落葉」では、若木が、この消失点の機能を果たしていると言えます。

そしてさらに、「落葉」の画面の空間表現は俯瞰の構図といういわば上から地面を見下ろす描き方によるものでした。しかし、そこで描かれている木々は上から見下ろしたような描かれ方ではなく、横からみた姿になっています。つまり、「落葉」の画面は、上から見たのと、横から見た姿が同居していることになります。複数の視点からの姿が一緒になっているわけです。これは「八ツ橋屏風」のような図案のようなものであれば気になりませんが、「落葉」は写実的な性格を強く残しています。そこで、視線の混乱が観る者に起こらないで、自然に観ているのは、2本の若木の存在によると思われます。観る者は、この若木に焦点を当てることによって、視線の混乱を回避していると言えます。つまりは、2本の若木が画面のおける空間の広がりの出発点であり、画面に統一感を与えると同時に、見る者が画面に入り込んでいくための足掛かりにもなっているのです。

Hishidafallmikan執拗に見えるかもしれませんが、この2本の若木についてもう少し見て行きたいと思います。というのも、前に見た「滋賀本」には、このような若木は描かれていないで、当然に空間の広がりと対照的に位置づけるような構成もとられていません。それだけでなく、この2本の若木は異様なのです。周囲の木々と比べて浮いている印象なのです。実際に、左中図の上半分の左側の若木は常緑樹の緑の葉が茂っていますが、これだけ針葉樹なのです。周囲の木々を見渡せば、根元に紅葉した葉が落ちているところを見ると、すべて広葉樹に見えます。その中で、この若木だけが、葉を見れば一目瞭然ですが、一本だけ針葉樹です。また、下段を見れば、左手の若木は葉を紅葉させていますが、葉の形が下に落ちている葉とまったく違った形なのです。しかも、この若木の葉の描かれ方が、他の散っている葉にくらべてまったくレベルが違うほど、異様に感じられるほど細密で鮮やかなのです。最初に見たときはグロテスクに感じられたほどです。それには理由があるはずでしょうが、私には確かなことは分かりません。ただ、屏風の水平な空間の広がりに対抗させるには、かなり目だって観る者の視線を集める必要があったためではないかと想像するだけです。そしたまた、2本の若木だけを取り出して、この2本を比べてみると、上段の若木は青々として緑が茂っている状態であるのに対して、下段の若木は紅葉が盛りで今にも葉が散ろうとするところです。この2本の若木を比べると、同じ画面の中で同じ若木でありながら今を盛りに茂る状態と、これからまさに散ろうとする状態が並存していることになります。そこで、異なる時期を同居させて時間的な広がりを観る者に想像させているのではないか。ということで、「落葉」は空間的な無限の広がりにとどまらず、時間的な広がりも加味させることで、広がりのゆったりとした動きをも内包させている。つまりは、空間の広がりは静止した状態ではなくて、この作品を見るという行為を通じて、観る者にとって徐々に広がってくるような感覚を起こさせる、というものになっているのではないか、と私には思えます。

 

「文展本」は、その前から制作されていた「未完本」の制作をやめて、急遽、その代わりに制作をはじめて完成させて文展に出品されたものです。その一方で、「未完本」は、その名称のとおり、制作が途中で放棄され、未完のまま残されることになりました。しかし、「文展本」のいうなればひな形のような位置づけと、「文展本」には採用されなかった試行のあともあって、独特なものとなっています。しかも、未完ゆえの不完全な風情が、独特な味わいを感じさせるものになっていると思います。「文展本」は、この「未完本」を下敷きにして制作されていることもあって、それほど見た目の大きな違いはないのですが、とくに目立つのは、「未完本」には地平線があるということです。「文展本」における地平線の消失は「文展本」のところで述べたので繰り返しませんが、この「未完本」を見る限りでは、「文展本」のような広がりというのではなくて、西洋画的な遠近法による立体的な書割りにより近い画面になっているのではないかと思います。おそらく、菱田は、そこに行き詰まりを感じていたのかもしれません。これでは林の奥行きこそ感じられるものの、実際の郊外の雑木林そのものになってしまうおそれがあります。「文展本」にもありました若木は、この「未完本」では紅葉した若木のみとなっていますが、この若木と林の広がりを対照させるというよりは、若木は林の一部になってしまっているか、若木があって、林は背景になるか、そのいずれかにしかなり得ないように見えます。菱田は西洋画の立体的な空間構成ではない、かといって従来の日本画の平板な平面のいずれでもない空間を模索していたのでしょう。そのとき、この「未完本」の行き方は菱田にとっては、これ以上の展開が難しかったということなのでしょう。

Hishidacat_2ただ、私には「未完本」には捨て難い魅力があると思います。それは未完ゆえのことかもしれませんが、敢えて言えば、全体に霧がかかったような薄ぼんやりした景色のなかで木だけが目に入ってくるという幻想的な風景です。その中で、手前の紅葉した若木が非現実のような鮮やかさで迫ってくると、他のバージョンには感じられない毒々しさのようなものを漂わせています。それは、耽美的なあやうさに近い感覚です。それは、後年の「黒き猫」の6曲1双の屏風にも通じているように私には思えます。


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