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2014年12月 1日 (月)

菱田春草展(9)~第4章 「落葉」、「黒き猫」へ:遠近を描く、描かない(2)

Hishidafalleisei次に見たいのは1909年の第3回文展に出品した「文展本(永青文庫本)」と呼ばれる作品です。この前に制作を始めたものの結局は未完に終わった「未完本」については、後で見るとして、前の「滋賀本」と比べると、大きく変化しています。まず、目立つ変化は描く対象が樹木ではなくなったということで、これによって空間的な広がりを表現するということが、私には明確に打ち出されてきたように思います。この「文展本」での樹木は、もはや根元とそれに続く幹の一部しか描かれていません。これによって、木々の配置の構図によって奥行きを表現することがはっきりと前面に出てくることになりました。画面下方に根元のある木は手前にあり、上方に根元のある木は奥にあるということと、「滋賀本」では明暗で表現していたものを、手前にあるものの色とかたちはくっきりとし、奥にあるものにしたがって色とかたちは徐々にぼんやりとして失われていくように描かれています。そして、この規則を徹底させるため、視点を下げて、木は根元の部分、そして地面に生えた若木や潅木、そして落ち葉を描くことになりました。この結果、地面が画面全体を占めることになり、木々の間の空間はすべて地面となり、絵画の空間的な広がりは地面の面積的な広がりに変化することになりました。

それぞれに見て行きましょう。上述の視点を下げで木々の根元を描くようになったということは、林のどの部分を切り取って描くかというフレーミングに他なりません。永青本において根元に視点を下げているのは木々の上方を、しかも極端なほど断ち切ってしまっているからに他なりません。これは「断ち落とし」と言われるものだそうです。この結果、画面は木々の根元を映すようになり、視点が下がった結果地平線が画面の上のほうよりさらに上になって、画面に入ってこなくなりました。これにより画面は林の地面を一面に映すようになります。自然と、それを見る視点は地面を見下ろすような俯瞰的なものなります。いわば俯瞰構図です。このような「断ち落とし」によって俯瞰的な構図を獲得したわけですが、しかし、縦の方向に視線を伸ばすことはなくなり、地平線が画面に入ってくることはなくなり、画面に空の部分はまったく描かれることはなくなり、画面は平面的なものとなりがちです。“平面的、装飾的構成を好む従来の伝統的日本画は、むろん、この俯瞰構図をしばしば利用している。「落葉」の場合は、やや高いところから斜め前方を見下ろすという視点になっているが、それをいっそう徹底させれば、真上から下を見下ろすという構図になる。こうなれば、画面は完全に地面と平行になり、平面化が完成するわけである。例えば、光琳の有名な「八ツ橋図屏風」において、かきつばたの花は真横から見たように描いてあるが、かきつばたの咲いている池に架けられた八ツ橋は、完全に真上から見下されたものとなっている。”と解説されていましたが、光琳ほど装飾的に図案化されておらず、写実的な性格を残してある「落葉」では、地面を画面前面にしてしまうと、前に見た「秋木立」のように、俯瞰にさせるための地面というだけでなく、物質的な地面として見られることなり、地面が奥に行くにしたがってせり上がってくる斜面にいるようなものになってしまいます。それでは、画面の広がりは抑えられてしまいます。

Hishidafalleiseihasi_3ここで、「秋木立」の地面が斜面になってしまったのは、地面に物質性があって存在を主張してしまう、つまりは、そこに地面が物質的に存在しているということを観る者が意識してしまうからです。つまり、俯瞰的に見下ろせば、そこに地面があるわけですが、それが意識されなければいいわけです。地と図という区分がありますが、ここでの地面が地にとどまって図にならないようにすればいいのです。そこで、永青本では、地面を無地にしました。これを「滋賀本」と比べると、「滋賀本」でも、地面を意識して描いているわけではありませんが、地面に陰影をつけて、奥に行くにしたがって陰影を濃くしています。そこでは地面があるということを、どうしても意識してしまいます。それに対して、「永青本」では無地にして何も描かれてしません。しかし、それでは、この無地の部分が地面であると観る者は分かるでしょうか。それが分からなければ、虚空に木の根元が浮かんでいることになってしまいます。

地面そのものを描けば物質としての地面が意識させられて画面の広がりを抑えてしまう。しかし、そこに地面があることが分からなければ、そもそも俯瞰という視点が成立しない。そこで、地面そのものを描くことなしに、そこに地面があることを観る者に分からせる。それは、地面ですよというのが約束事として既成事実にしてしまっているのが、さきほど解説で触れていた「八ツ橋図屏風」です。しかし、「落葉」では写実的な性格を残しているため、そのように開き直ることはできません。そこで工夫されたのは、落ち葉の存在です。そうです。落ち葉が落ちて、散らばったり積もったりしているのは、そこに地面があるからで、落ち葉があることで観る者はそこに地面があることを想像できるのです。「落葉」では、木の根元を中心に、散り敷かれたように落ち葉が描かれて、それらが集合するようになって、それが平面になっているのです。さらに個々の落ち葉は、輪郭線の有無、葉脈の有無、色彩の濃淡の差などで細かく描き分けられ、全体の中では画面下部の落ち葉が濃く、上部にいくにつれて薄くなっていくグラデーションが付けられています。菱田の芸が細かいと感心させられます。この描き分けとグラデーションが平面の広がりを想像させ、描かれていない地面を見ることになるのです。それとセットになって木の根元の存在が地面を想像させます。木の根元には落ち葉があつまり平面を形成し、それが広がれば地面です。さらに、それは自然と観る者の視線が集まるようになっています。したがって、見る者は木の根元から根元へと視線を移動していくことによって、地面という広がりを認識するように導かれます。

このように、観る者はややなだらかに傾斜しながら水平方向に広がる地面を認識することができるのです。その地面は、落ち葉が乗り、木が根付いた、それ以上視線が奥へ貫入しない抵抗面となっています(このように抵抗面として近くされなければ、虚空に樹木が浮いたようになってしまいます)。しかし、画面には地面は描かれてはいません。あるのは、画面全体に広がる白い無地です。この場合、無地である地は、言わばスクリーンのようで、観る者はそのスクリーンに地面を投射すると言えます。このようにして、観る者は画面全体に、水平に広がる空間を認識することになるのです。

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コメント

はじめまして
春草の《落葉》について、いろいろ調べていてこちらにたどり着きました。多くが表面的なことで終わってしまうのですが、ディープな内容、春草展の全貌などもわかり、なるほどと思いながら拝見させていただきました。木の根元の回りに葉が集まっているのはなぜかが気になり、永青文庫本と福井本の違いについて、自分なりの考察を加えていました。こちらのブログの内容も、加えさせていただいているのですが、大丈夫でしょうか?差支えがございましたら、お知らせいただければと思います。http://tabelog.com/rvwr/000183099/diarydtl/137848/

コロコロさん。コメントありがとうございました。いただいたコメントで励ましていただいたと思います。たんに、作品を見て感じたことを綴っただけで、屁理屈をこねていて読み難くなっていますが、ブログで内容に触れていたたいて、光栄です。

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