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2014年12月26日 (金)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(12)

第五章 技術(行為の形)の中動相

1.芸術における技術の位置

芸術を意味するartKunstという語は、広く「技術」を意味する。『美学事典』によれば「なんらかの材料を加工し形成して、客観的な成果あるいは作物を産出する能力または活動」としての「技術」である。たしかに、作家がどれほど頭の中で想をめぐらし、すばらしい「作品」を克明に思い描いたとしても、それは、他者に知覚可能な客観的な事物や出来事という姿にならない限り、決して「作品」ではない。芸術作品とは、ひとが見たり聞いたり触ったりすることのできるものである。したがって芸術には「客観的な成果あるいは作物の産出」というべき側面が不可欠であり、少なくともその意味で、芸術は技術の一種であると言わなければならないだろう。

しかし今日、とりわけ美術の分野において、技術の地位は相対的に低く見られているように思われる。近世以降、「実践と不可分な知」「知と不可分な実践」としてのart一般から、芸術が分離独立し、特別な価値の認められる自立敵領域を形成する過程においては、つくり手の「想の力」、「独創性」が強調され、その影響は現代にも及ぶと言われる。芸術が他のartと区別され価値付けられる根拠が「想」に求められるのであれば、他のartと重なる技術の側面は、相対的に軽視されたり無視されたり、場合によっては蔑視されることになろう。芸術を、手よりも頭やこころ、身体よりも精神に基づける傾向の中で、技術の地位は、相対的に低下する。ドーマーが現代美術に見て取る「技術なき芸術」志向は、このような芸術観の行き着く先なのかもしれない。

しかし「技術なき芸術」は見果てぬ夢である。「想」がそれだけでは「作品」にならないのであれば、「想」と「見たり聞いたり触ったりすることのできるもの」とが結び付くその次第、その過程が、芸術制作の要であり謎であるはずだ。具体的なつくる作業がやはり問題であり、そこには必ず技術がある。したがってもちろん、つくる過程を重視し、技術に積極的な役割を見て取る芸術論がある。

例えばアランによれば、想が制作に先立ち、制作を規制するというのは工業であり、想が制作につれて湧いてくることこそが、芸術の特徴である。彼のその次第を語る記述には中動態が用いられている。ドーマーもアランと同様、芸術において「想を抱くこと」と「ものをつくること」が不可分であると強調する。そして、芸術において重視される「創造性」が、「どのようにつくるか」についてのいわば身体化された暗黙知と分離不可能であるとして、現代美術の「技術なき芸術」志向を批判し、むしろ「工芸」のうちに、両者のあるべき不可分状態、芸術の本来の姿を見て取る。

アランやドーマーが技術に見て取るのは、つくるという過程において「想」と「もの」とを同時に生じさせる働きである。その意味で技術は、芸術において重要な地位を占めることになる。アランが制作を語る言葉の中にも、中動態と捉えうる代名動詞表現が見られることは注目に値する。アランやドーマーが技術に見て取る重要なはたらきは、「想」と「もの」という二元的対立が差異化しつつ一体のものとして生じる、中動的なはたらきであろう。

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