無料ブログはココログ

« 森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(7) | トップページ | 森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(9) »

2014年12月22日 (月)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(8)

第三章 言語の範疇から思考の範疇としての中動態へ

1.主語が過程から影響を被ること、過程の座であること

言語学が中動態について論じる時、しばしば最初に引き合いに出されるのが、古代インドの文法家パーニニの、「能動態=他者のための語」と「中動態=自らのための語」という区別である。例えばサンスクリット語の「犠牲を捧げる」という語の能動態と中動態の対立は、能動態が僧侶や司祭として他の誰かのために犠牲を捧げるということであるのに対し、中動態は、自分自身のために奉納者として犠牲を捧げるということであるという。能動態の場合、主語に立つ者は他の誰かのために神に犠牲を捧げ、その効果はその誰かのためのものになるのだが、中動態の場合は、自分のために犠牲を捧げ、効果は自分に返ってくるというのだ。多くの言語学者が、「主語が動詞の表わす過程から作用を受ける」ということ、すなわち主語の「被作用性」を、中動態の特徴と認めている。

バンヴェニストによれば、インド=ヨーロッパ語においては、能動態─中動態の対立が先住し、その後、能動態─受動態という別の対立が出現したという。能動─中動の対立は、能動─受動という行う行為という対立とは、別の意味を持つ。彼は、能動─中動の対立を、主語が過程に対し内的であるが外的であるかの対立と捉える。この場合、中動態の動詞が能動態に変わった時に他動詞性を持つという事実も、無理なく理解できる。すなわち、中動態の能動態への転換は、主語の、家庭に対する関係の変化を意味し、「主語は過程に対し外的となり、その過程の動作主となる。そして過程は、もはや主語を場所とせず、別の項に移されて、その項がその目的語となる」と理解される。サンスクリット語の「犠牲を捧げる」という動詞が、僧侶や司祭が誰かのために代わってそれを行う場合は能動態であり、自分が自分のために行う場合は中動態であるというような事例に関してね、主語が過程の外にあるか内にあるかの違いから理解する。能動態の場合、主語となる僧侶や司祭はただ単に外からことを行っているだけなのに対し、中動態の場合、ことを行うものは過程の中で自らにその影響を受けながら、つまり犠牲を捧げることの効果を我が身に引き受ける形で、行っているというのである。

能動態の主語は、そこで生じている過程の外にあり、自分自身は過程に巻き込まれることなく、その過程を支配する動作主ということになるだろう。これに対して中動態の主語の被作用性というのは、能動態で示されるような過程の目標となることではない。言い換えると外部の動作主から来るはたらきかけをうけることではない。中動態の主語は、ただ動詞の表わす過程に巻き込まれ、過程の中で何らかの違った状態になるのであって、それが一般に被作用性と言われるのだ。

 

2.動作主がないこと、出来事的であること

バンヴェニストの見方からすれば、中動態においては、動詞の表わす過程の外部にあってその過程を支配する動作主が、想定されていないことになる。中動態のこの、動作主がないことを、根本的な特徴とする言語学者たちがいる。

ゴンダは。主語が動作主として動詞の表わす過程を引き起こしたとは言いにくい中動態に、注目する。彼がいとしてあげる中動態の動詞は、ギリシャ語の「くしゃみをする」「怒る」「恥じる」「溶ける」、サンスクリット語の「震える」「見える」「疲れる」、ラテン語の「すべる」「生まれる」「見える」などである。これらの動詞は、たしかに主語が動作主として自分から引き起こすというゆりも、主語の意志や意図には関係なく、主語に「起こる」「ふりかかってくる」出来事である。バンヴェニストは中動態について、「主語は主語において実行される何事かを実行する」と、過程の内部にだが動作主を認める。ゴンダはこれを批判し、動作主の不在を意味する「出来事的」という特徴を、中動態に指摘する。彼にとって、能動と中動の対立は、根本的には、主語が自ら何かを実行するか、主語にひとりでに何かが起こるか、の対立を意味する。

このような理解からすれば、能動と中動の対立は、日本語の「見る」と「見える」の対立、すなわち「動作・作用・状態が人為的・作為的であるか、自然展開的・無作為的なものであるか」の区別と重なるところがあると思われる。

とはいえ、中動は「する」に対する「なる」と結論付けてしまえない。中動態には、日本語の「なる」と重ねにくい用法がある。「入浴する」「服を着る」「体を伸ばす」というような自分の身体に関わる動作、あるいは二人の人間が互いに「抱き合う」「闘う」というような相互的な動作も、多くの言語でしばしば中動態と表わされる。このような中動態の用法は、再帰的な意味を表わすようにも見える。

« 森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(7) | トップページ | 森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(9) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(8):

« 森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(7) | トップページ | 森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(9) »