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2014年12月21日 (日)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(7)

3.二元論と一元論のあいだ

1.で採り上げたケマーの中動態論は、他動詞、自動詞の各々と中動との違いは説明するが、能動態一般と中動態との違いを積極的に説明しようとはしない。中動態を考えるのに、起動者─終点という主語─目的語の図式、すなわち主体─客体の図式を使い続けることが、能動一般と中動の違いをはっきり区別する際の足枷となっているように思われる。「関与者も相対的区別可能性の低さ」というケマーの中動態の定義そのものが、自己同一的な項を基本として項と項との関係から中動態を考えることの困難さを示している。

その点を考えれば、バンヴェニストによる中動態の説明、すなわち能動態が「主語から発して主語の外で実行される過程を示す」のに対し、中動態においては「動詞は、主語が過程の座であるような課程を示し、主語は過程に対し内的である」という説明の方が、中動態をより的確に把握するものであろう。我々は、中動態における主語と述語の関係、動詞の表わす出来事や過程と主語として示されるものとしての関係を、動作主である項を基体とした主体─客体図式とは違った枠組で、捉えなければならないのだ。

にもかかわらずケマーの中動態論、特に「身体動作の中動」をめぐる議論は、我々が中動態を考える際に押さえなければならない重要なポイントを示してくれるように思われる。中動態の動詞で表わされる出来事を、バンヴェニストに基づいて、名詞で表わされる主語から発するものではないと理解し、さらに進んで中動態を、自己同一的な項に基づいて、名詞で表わされる主語から発するものではないと理解し、さらに進んで中動態を、自己同一的な項に基づかずとも動作主がなくとも、いわばひとりでに出来事が生じ、その出来事の内に主語である項も巻き込まれている、場合によっては巻き込まれながら生じる、というかたちで考えるとき、ひとはそこに、「ひとりでに生じる出来事」というような、何か根源的な一なるものを思い浮かべる可能性がある。しかし、中動態は、ケマーが指摘するように、関与者について言えば「一でも二でもない、一から二へ至る途中」というような状態、何かと何かのあいだのずれとは言えないような微妙なずれを、特徴として示しもするのだ。フェールデンの言う自我備給、「対象なきナルシシズム」も、自足する一でも互いに向き合う二でもない自我自身との関係、この種の微妙なずれの生じ続けることであろう。中動態を理解するには、この種の、何かと何かとのあいだのずれとも言えない微妙なずれ、何かと何かとの関係とも言えない微妙な関係を、無視してはならないだろう。そこに、根源的な一なるものは、存在しない。自己の身体とのかかわりを考えても、心身関係は、二元論か一元論かの二者択一では論じきれない。

ケマーは、身体動作の自動詞による表現と中動による表現との違いを説明する際、中動における「はたらきかけたり、はたらきかけられたりする構成要素に区別される複合的運動」、「身体部分の布置」、「何らかの程度の内的複雑性」を強調する。「すわる」「立ち上がる」「振り向く」「登る」「歩く」というような身体動作の中動において、主語が表わすものは、身体を含めた自己ということになるだろう。しかしその「身体を含めた自己」は、「複合的」「布置」「複雑性」などと言われる何か、我々のことばで言えば何かと何かとのあいだのずれとも言えない微妙なずれ、何かと何かとの関係とも言えない微妙な関係を内に含んでいる、あるいはむしろそこから成り立っているのだ。

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