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2014年12月 6日 (土)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(2)

Ⅰ.中動というカテゴリー

第一章 アナモルフォーズと胡蝶の夢─存在の地平と中動態─

1.ホルバイン「大使たち」

Holbein01或るものが目の前で別の存在になる。別の存在が新たに出現する。見えてくる。アナモルフォーズという歪像と訳される、或る法則に従って、わざと歪めて描かれた像である。普通に、あるいは正面から見ても、一体何が描かれているのかさっぱり分からない。或る特定の方法で─円筒状の鏡にして見るとか、画面に対しずっと斜めの角度から見るとかして─見たときにのみ、「正しい」歪まない像が見えるというものである。ハンス・ホルバイン作「大使たち」は、アナモルフォーズを利用した有名な絵画のひとつである。この絵を正面から見るとき、ひとは二人の堂々たるフランス大使が、タピスリーやカーテンで飾られた部屋の中で、諸学・諸芸を象徴する様々なもの─天文学の機器、日時計、地球儀、コンパス、リュート、讃美歌集、十字架など─に囲まれて立っているのを見る。これらの様々な物も、二人が身に着ける毛皮や僧衣、勲章や手袋や短剣も、その重厚な質感が濃密に細部までリアルに描かれ、全体として厳粛で絢爛豪華な雰囲気を漂わせている。その画面の中に一つ異質なものがある。二人の足元の床を斜めに横切る、細長い奇妙な物体である。それが何だか分からない。しかし、この絵を正面からではなく、右の側面から斜めの角度で見ると、見えていた人物や物の姿は消え、一個の頭蓋骨が見えてくる。足元の謎めいた物体は、アナモルフォーズ的に歪めて描かれた、人間の頭蓋骨だったわけである。現世の栄華が掻き消え、死のシンボルが現れて、「世界の虚妄」という当時流行の主題が示される。

一つの画面の中に、通常の遠近法に従う像と、歪曲遠近法に従う像の二種があり、像が「正しく」見える視点をそれぞれ別に持つ。その結果、一方が「正しく」見える視点からは、他方が「正しく」見えない。一つの絵において、見る視点を変化させることによって、見える世界の存在のレベルで変幻する。

描かれたものの「ある」ということに注目すれば、二つの遠近法は、二つの存在の地平に対応する。「大使たち」という絵は、大使たちのいる地平と、頭蓋骨のある地平と、ふたつの地平からなっている。大使たちを囲む様々な事物は、大使たちと同じ地平にある。一方、頭蓋骨はその地平にはない。視点を変えれば見えてくるはずの頭蓋骨は、この大使たちのいる地平に「ある」のではないが、「ない」のでもない。この頭蓋骨は、この地平で「ある」とか「ない」とか言いうる頭蓋骨とは別の次元の存在だからである。やがて見えてくる頭蓋骨は、この地平では「ある」とか「ない」とか言いうるものではなく、この頭蓋骨が「ある」とか「ない」とかは、大使たちがいるのとは、別の地平においてである。その頭蓋骨の地平においては、今度は大使たちの方が、「いる」でも「いない」のでもない。

見る者が視点を変えることによって頭蓋骨が見えてくるというのは、したがって「ある」ということの地平の転換と考えることができる。そこには次元の差異の体験とでも言うべきものがある。或る地平にいた見る者は、それとは別の次元の地平が成立するところに内側から立ち合い、今度はその地平を生きるようになる。この出来事、この体験を語るのに、能動─受動の言語は役に立たないだろう。見る私を主語とし、見られる頭蓋骨を目的語とする「私が頭蓋骨を見る」という表現は、私と頭蓋骨という二つのものがあらかじめ存在することを前提にしているからである。はじめから「ある」のでも「ない」のでもない頭蓋骨を、既存の項として扱うことはできない。これを捉えるには、能動態─受動態ではなく、中動態が必要だと思われる。日本語の語感で言えば、「見る」に対する「見える」という表現である。

中動態は、能動態・受動態と異なり、「何は…」「何を…」というような項、名詞で表わされる項の存在を前提しないありようである。既存の項が何らかの働きを発する、あるいは受けるということを表わすのではない。中動態で表わされる事態において、主語は動詞の表わす過程の中にいわば巻き込まれている。言い換えれば、中動態の動詞は、名詞の主語に従属する述語ではない。中動態によって、われわれは、主語を前提としない述語、さらに言えば、主語に先立ち主語をそこから成立させる述語というものまで、考えることができるように思われる。このような意味において、「大使たち」の、地平の転換を通じて頭蓋骨が見えてくる体験は、何よりも中動態によって捉えられるべき事態である。中動態によって表わされる出来事(絵を見る者にとっては「見える」ということ)がまず生じ、そこから頭蓋骨が、「ある」とか「ない」とか言いうるかたちに成立する。その上で新たな地平内部での「私が頭蓋骨を見る」が可能になるのである。

ところで、この中動態でしか表わされない働きが「見える」のは、頭蓋骨が見えようとする瞬間、あるいは見えなくなる瞬間である。この働きは、頭蓋骨が見えてしまい、見られてしまうと、もう見えなくなる。一旦成立した地平で、私が見るのは頭蓋骨であって、頭蓋骨を成立させている働きではない。この働きは、見る「私」と見られた「頭蓋骨」の影に隠れてしまう。しかしそれは、そこから頭蓋骨が成立しないことには、それを私が見ないことには、頭蓋骨を成立させる働きとして知られることがない。それがかろうじて見える瞬間とは、この絵を見る中で地平と地平が切り替わるその瞬間、次元の差異の隙間においてである。

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