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2015年1月20日 (火)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(30)

5.作者であることのオートオートポイエーシス

我々は、これまで中動態で捉えてきた制作過程を、「作者であることのオートポイエーシス」という視点で考察していくことができるだろう。作者はあらかじめ作者であるのではなく、制作という産出プロセスの作動を通じて作者であり、作者になりつづけていく。作品はシステムの構成素であろう。ただし作品も最初から作品であるのではない。作者からすれば、制作という産出プロセスが続くことによって産出された事物が作品となる。作品という構成素が制作という産出プロセスを作動させ、その制作から産出されたものが、作品として次の制作を作動させ…そのような循環が続くことによって、作者は作者になり続け、なり続けることによって作者である。作者は、このように循環的に作動を続けるオートポイエーシス・システムと、考えることができるのではないか。

作品制作とは、身体を備えた作者が何らかの素材を用いて見たり聞いたり触れたりできる客観的事物をつくり出すことである。頭の中にしかないものは作品ではない。意識や精神のはたらきだけで出来る作品などない。したがって制作は何よりも行為として捉えなければならない。だからこそ我々は、これまで、制作という行為との関係で、作者(および作品)の成立を理解しようとしてきた。これは、近代の芸術論が想定したような「作品を支配する最高権威としての作者」と構造主義以降の美学が考察の対象とする「作品に内在する作者」とのあいだ、実在の生身の作者を考えることでもある。そして作者自身の制作体験からすれば、具体的に作品をつくること(作品ができること)から、事後的に作者になるということが生じていた。中動態を思考の範疇にし、技術論やハビトゥス論を足掛かりに考察すると、作者は、制作という行為を通じてみずから変容し、その都度作者に生まれ直してくるように思われた。その事態は、オートポイエーシス理論をモデルに捉え直すことができる。

しかし、そもそものオートポイエーシス論からすれば、作者だけではなく個々の人間一般が、オートポイエーシス・システムであるはずだ。行為によって自己として存在するのは、作者だけではない。誰であっても、行為を通じて変容し、その都度自己になり直すのである。とすれば、芸術という領域のオートポイエーシスを特徴づけるのは何なのか。そのためには、芸術を芸術として成立させている、より広い文脈を視野に入れなければならなくなる。作者という一つのオートポイエーシス・システムだけでなく、作者を取り巻くほかのシステム、すなわち他者や社会というシステムも関わってくるからである。他の個人や社会はそれぞれに、それ自身オートポイエーシス・システムとみなされるが、作者という一個のオートポイエーシス・システムにとっては環境である。したがってシステム相互の関係は浸透とみなされる。

芸術は、制作にしろ、受容にしろ、日常とは異なった体験をひとに生じさせるものと捉えられている。芸術体験を通じて、ふだん生きている世界とは別の次元に手が届いたとか、今まで気づかなかった何かに気づいたとか、知らなかった何かに出会ったとか、これまで存在しなかった全く新しい何かが生まれたとか、それまでの自分とはどこか変わったとか、等々、人は感じる。一方「創発」とは、進化論、生命論、システム論などで使用される概念で、進化論から言えば、「それまでになかった新たな質が誕生する現象」であり、システム論では「在るシステムにおいて、その部分の総和とは異なる性質、機能が、システム全体においてあらわれる現象」である。いずれにしろ、予見不可能な何か、それを成り立たせる要素からは説明できないような何かが「おのずと出現してくる」ことを指す。とすれば、芸術の特徴の一つを、創発という言葉で捉えることは可能だろう。我々の日常生活においても、時に創発は生じるはずだが、とはいえ新たな事柄が生じず平凡に同じ事柄が繰り返されることも少なくないし、そうであっても別に問題はない。これに対して芸術は、創発を一つの重要な特徴として営まれる活動と考えられるのである。

オートポイエーシス・システムは産出プロセスの環状作動によってのみ、自らを作動を維持継続していく。産出物が構成素として次の産出プロセスを作動させるプロセスが環状に連鎖するという条件さえ満たせば、その時々の構成素や産出物プロセスはどのようなものであってもよい。逆から言えば、どのようなものにもなりうる。どのようなものになるかは、システムの作動によってしか決まらないのであるから、いつ何時でも予見不可能な新しい何かが出現しうるのである。このようにオートポイエーシス・システムは創発の可能性をあらかじめ本質として備えている。それゆえにオートポイエーシスは、創発を一つの重要な特徴とする芸術を理解する際の理論モデルとなりうる。もちろんオートポイエーシス・システムに創発が生じない場合もあるだろう。オートポイエーシス・システムが構成要素や産出プロセスの変化なしに同じ構造のまま循環を続けているのであれば、変化しない主語を基体として、能動─受動の言葉のみで事態を語ることになるだろう。我々の日常生活にはそういう場面も多く、そう語ってもあまり問題は生じない。しかし創発という現象が問題になれば、それを語る言葉は中動態を必要とし、そこではオートポイエーシスに気づきうる特権的な場所ということになるだろう。我々は中動態を足掛かりにして「作者であることのオートポイエーシス」を見出したが、そこに至る考察は、「作者であるということは、どういうことか」という芸術の領域の問いであることによって、有利なかたちで進んだものと思われる。

 

「作者であること」をオートポイエーシスとして捉えることによって、我々にはどのような視界が開かれるのだろうか。本章では、作者の作品をつくるという行為に焦点を当てて考察を進めたが、作者が作者であることには、他者や社会(歴史、文化)が大きく関わっている。社会や他者も、それ自身オートポイエーシス・システムとみなされている。したがって、作者と他者や社会との関係を、オートポイエーシス・システム同士の浸透というかたちで考察することができるだろう。その際、創発という現象が一つのポイントとなるはずだ。すなわち芸術という領域において、創発は作者(というオートポイエーシス・システム)に生じるだけでなく、作品の受容者にも生じている。我々は作品の受容体験にも中動相を見たが、それもオートポイエーシスというかたちで理解することが可能であろう。創発はさらに作者と受容者を包む社会にも生じているだろう。そしてそれら各々には、「作品」が構成素として関わっているはずだ。作者、受容者、社会というオートポイエーシス・システムに、作品という事物が、何らかの形で共通に組み込まれ、それらの相互浸透において働いているのではないか。

また本章では、作者をおおざっぱに一つのオートポイエーシス・システムとして考察したが、オートポイエーシス論では、一人の人間に生命システムと心的システム(あるいは意識システム)の区別が行われたり、認知行為システムと情動・感情システムとが語られたり、自己システムを感覚、浴動、情動、言語という四つのシステムからなるものとする場合も見られる。ここでも、それら複数のシステム相互の関係が問題となる。芸術の創発が生じるにあたって、それらはどのように浸透し合いどのように作動しているのか。

芸術において創発が価値とされるのであれば、人はそれを求めて行為していることになる。しかしその創発は外部からの操作で引き起こせるものではなく、人はそれに巻き込まれてみずから変化することによってしかそれを体験できない。制作であれ受容であれ、それを求める意識的行為が芸術の名の下に行われているわけだが、その際、いったい何をどうすれば創発が起こることになるのだろう。意識的に何をどうすることが、創発に向かうオートポイエーシス・システムの作動につながるのだろうか。我々に何が出来るのだろうか。そもそも芸術の領域でひとは何をしてきたのだろうか。システム相互の浸透関係も視野にいれ、オートポイエーシス論からそれを考えることができそうである。

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