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2015年1月 4日 (日)

昨年のベストセレクション

いつも年の初めは、昨年読んだ本や聴いた録音のベストセレクションを書き込むことをやってきました。一昨年の終わりに自分なりに精魂を傾けてきたつもりだった仕事から、突然に離れることになり、年甲斐もなくウジウジしていたりしたこともあって、ポジティブにビジネス関係の本に手を伸ばすことから遠退いてしまいました。

しかし、長年の習慣のせいか、本を読むということから離れられなくなってしまって惰性のように、とりたてて意識することもなく本を手に取っていたようです。とくに考えることもなく、その時々の欲望の赴くまま(単に読みたいという欲望)に手にとった本は、哲学関係、とくに中世哲学を読んだ思い出があります。 そのなかで、以前は読み流すように読んでいたのが、昨年ころから先が短いことを自覚したのかもしれませんが、噛みしめるように文章を読むようになっていました。とくに哲学書を読む際の、私なりの秘訣のようなものとして、分からないところがあっても、分からないまま読み流す、という方法論を持っていました。多くの人が哲学書を読もうとして、難解だとかいって途中で放り出してしまうのは、本の内容を全部分かるろうと無理をして、分からないところにぶつかると、そこで読むのがストップして進まなくなってしまい、にっちもさっちも行かなくなるからだと思います。私には、それは先人の哲学者が苦心惨憺して残した著作を一回読んだくらいで、分かってしまうなどというのは傲慢だということに気が付いて、分からないところは分からないと素直に認めるということです。そして、分からないところで立ち止まっても、何年もかけて著作した哲学者に頭で劣る私が、そこで短い時間で分かろうはずもない。それならば、とわからないところは飛ばしてしまい、そのまま読み続けると、分かるところに出会うかもしれない。とにかく一冊通して、読んで数か所でも分かるところに出会うことができれば、ラッキー。そして、その分かるところを自分なりに考えていくと、何となく考えたりする。それが哲学書を読むことということでした。分からないということを認める謙虚さと、分かるところで考えていくという自分の頭で考えるということ。それが哲学するとか、本を読むということの、私なりの方法論でした。それは、若いということゆえのことで、年齢を自覚したことで、少しずつ私の読むことの方法論を変えようとし始めたのが昨年ということになるかもしれません。ということで、何を読んだかという昨年のベストセレクションは、方法論が変化し始めたということの前で、私としては霞んでしまっています。

また、その時々の読了した本のことは、私の大好きな山田風太郎の『戦中派不戦日記』を真似して、個人のFacebookのページに書き込むことも始めてみました。私の独断的な主観によるものなので、“いいね”をもらえるものではありませんが。

ところで、このところブログに美術展の感想を書き込むようになって、美術展に出かけることが多くなりました。なんと年間で10回以上も行くなんて、我ながら驚いています。で、昨年の私のベストはミヒャエル・ボレマンスの展覧会でした。現代作家の個展で、不思議な静けさの漂う作品が並んでいました。

次回から、途中で休んでしまった「芸術の中の中動態」の読書メモの続きを書き込みます。

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