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2015年1月 6日 (火)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(17)

Ⅲ.生成の場面─中動態の発動と結果

第七章 かたちの生成─身体・技術・素材─

芸術作品は、物質的なものと、それを超えた精神的意味的なものとが結び付いた存在と理解することができる。であれば作品の制作は、制作者の頭の中だけでは完結しない。画家がカンバスに筆で絵の具を載せていくこと、小説家が原稿用紙に文字を書いていくこと、音楽家が喉や楽器で聴こえる音を実際に連ねていくこと等なしに、作品はない。制作には、物質的感覚的な事物の世界での具体的な作業が必要である。

物質的感覚的な素材を実際に扱う作業については、それを構想の単なる実現と見る立場もある。すなわち最初に作品の精神的意味的なものが作者のうちに抱かれ、ついでそれをどのような物質的感覚的なものに担わせるか細かく構想され、最後にこの構想を実際の材料を用いて事物として実現するという具合である─言い換えると、芸術作品は、まずは作者の精神において「内的」に構想され、細部にわたって練り上げられ、ついで事物の世界で「外的」に完成されるというのである。しかし作品の制作は、このように「内的形成」と「外的完成」という二段構えで行われるものなのだろうか。精神における「内的形成」が制作の本質的過程で、事物を扱う作業は、それを物理的なものに置き換えられるだけの「外的完成」、二次的過程なのだろうか。そして何より精神的意味的なものと物質的感覚的なものとの結びつきは、制作者の頭の中で、「構想」として内的に形成されるものなのだろうか。

現実の制作を見る限り、制作者は実際の作業なしに構想してはいない。制作者たちはむしろ、物質的感覚的な素材をどのように加工すればどのような精神的意味的な内容がそこに表われるか、両者がどのように結び付くか、絵筆を取ったり、言葉や音を自分の前に並べたりというような、実際に見たり聞いたり触れたりできる素材を扱う作業から見出しているように思われる。その作業は、作品の制作において二次的な過程ではなく、より重要な位置を占めるものと思われる。

1.芸術と技術

作品の制作を、単に「頭の中」だけのこととしてではなく、実際に体を動かし事物を扱う行為まで含めて捉えようとするとき、技術という問題が浮上する。竹内敏夫は、周知のように、今日芸術を指すartKunstという語は、もともと技術を意味する。芸術は、美的価値、芸術的価値などと言われる何らかの価値の実現をめざして、材料を加工形成し、客観的な作物手背あるところの作品をつくり出す、そのため、それを現実につくり出す工夫・たくみ(art)、わざ・能力(Kunst)という側面、すなわち合目的的な制作活動としての技術の側面が、芸術にあるということである。ここで技術は、目的とする価値という精神的意味的なものと、客観的作物であるということの物質的作物であるということの物質的感覚的なものとを結ぶ位置に置かれている。

このような芸術が一種の技術であるという考え方に対して、コリングウッドは、技術には目的と手段、計画と実施の区別が必ずあるのに対し、芸術には必ずしもそれがない指摘して、芸術は技術ではないと断じる。芸術作品の制作は、何を目的としてどのような作品をつくるのか、どのような作品をどのようにして作るのか、はっきりしないまま進んでいくことがある、ということである。このような中動態の特徴は、技術と相容れないものなのだろうか。

芸術は巨視的に見れば、竹内が言うように、価値の実現を目指す合目的的な創作活動である。しかし個々の作品制作体験の内部に視点を置けば、コリングウッドの指摘するように、具体的にどのような個別的価値内容をどのような個別的作物について実現するのか、そのために材料をどのように加工形成するのか、いわば下位のレベルで目的論的構造が認められなくなっている。それはどういうことなのか。我々は、この問題を、身体を備えた制作者が、見たり聞いたり触れたりできる素材に手を加え、作品を形作る全体的行為から、より詳しく考えていかなければならない。

 

2.形と素材

作者がつくろうとする「作品」の内容やすがたかたちをどれほど豊かに、詳細に,頭の中で思い描いたとしても、それは現実世界の事物とならない限り、決して作品ではない。作品は、誰もが見たり聞いたり触れたりできる実在の対象である。作者の「想」や「意図」を重視し、意識や精神のはたらきを中心に制作を考える立場は、芸術作品が客観的事物であり、制作が既存の事物を材料にして別の事物を現実につくり出す行為であることを、軽視したり無視したりすることになりかねない。

問題は常に、芸術作品が、「意味」や「想」や「意図」といった、見えないもの、可能的なもの、普遍的なものの次元に足をかけると同時に、今ここで目に見える現実的なもの、個別的なもの、特殊なものの次元にも足をかけている、というところにある。芸術作品は二つの次元にまたがる。二つの次元を、精神的なものと物質的なものと捉えることもできるだろう。したがって芸術作品の制作を考えるには、それがいかにして二つの次元にまたがりうるのか、その次第が問われなければならない。形や形に与える技術は、この文脈において、二つの次元を媒介するものとして重要な意味をもつことになる。

芸術をめぐる考察の中で、形は従来、二種類の対立の内に置かれてきた。一つは「内容─形」という対立であり、もう一つは「形─素材」という対立である。「内容─形」という対立において、内容が意味の側、精神の側、主観の側に置かれるのに対し、形は事物の側、客観の側に置かれる。「形─素材」という対立においては、素材が事物の側、客観の側に置かれ、形はむしろ意味の側、精神の側、主観の側に置かれる。対立項の取り方によって、あるときは意味や精神や主観の側とされ、あるときは事物や客観の側とされるということそのものが、形が二つの次元を媒介することの証とも考えられよう。

技術が個々の具体的な形を生み出す「行為の形」であり、そこに差異=媒介という中動の働きが見られるということは、技術が所与の目的に対する単なる手段ではない、ということを意味する。すなわち技術は、頭の中で完成した形を、素材に押し付けるだけのものではない。作品が現実的で個別的な事物であるためには、素材が不可欠であって、技術が素材と関わりをもち、素材に形が現実化しなければならないのであるが、形や技術が二つの次元を真に媒介するためには、技術が素材に対し、外側から一方的に操作を加えて任意の形を与えるというのであってはいけない。形やそれを生み出す技術が、素材と何らかの内的な関係を持つのでなければならない。

フォションは『形の生命』という著作において、形と内容との二分法を退け、形そのものに意味作用や活力を見出す。彼が問題にする形とは、抽象的な形それ自体ではなく、受肉としての形、素材と結び付いている形である。彼は、素材に外部から押し付けられている形に対し、むしろ素材の側からもたらされる形を見出したといっていいだろう。彼の観察によれば、ある素材から別の素材へ移行すると、形は必ず変容を被る。素材は、形に働きかけて形を変容させるわけだ。ただし、これは決定論を意味しない。素材もまた、形によって変えられるからである。要するに形と素材の関係は相互依存的な関係といえる。形と素材は互いに影響を及ぼし合い、様々に結び付いて一つの作品をなす。今われわれは「結び付く」という語を使ったが、この言い方は不正確だろう。この「結び付き」だが、形も素材も、一つの作品であることから各々それとして成立しているのである。ここにも中動態を見ることができる。とりあえず「結び付き」という語を使って言えば、素材と形は様々に「結び付き」、そこから様々な変容が生まれる。この形と素材の「結び付き」を現実に生じさせるのが、手と道具である。そこに技術が関与する。

技術は、手が道具で素材と関わる行為においてはたらき、そのことによって素材の内に形が生まれる。技術は素材あっての技術であり、特定の素材に対してそれにふさわしいあり方として、成立している。フォションは素材の「技術についての運命」という言い方もする。素材の「技術についての運命」は、素材の「形にまつわる運命、使命」に呼応する。技術は「さまざまなやり方で素材の中に形を生きさせる仕方」である。素材に応じた技術がはたらくことによってはじめて、先に述べた形と素材との相互依存的な結び付きが可能になるということだろうる素材に応じた技術によって、単なる可能性であった素材の「形にまつわる使命」が現実化し、素材の内に現実の形となる。素材の側からもたらされる形が、素材の内に形として現実化するためには、素材にふさわしい技術が必要なのだ。

素材と形が結び付くその過程、「素材に形が生きる」ということの生じる過程に、技術は関与する。「素材の形にまつわる使命」と「形の素材にまつわる運命」とを間を取り持ち、個々の形を素材に受肉させるのが技術ということになろう。フォションによれば技術と素材とのいわば運命的な関係が、それを可能にする。しかし技術を「行為の形」と考える我々としては、あらためて「行為の形」としての技術が、素材との関係においてどのように成立するか、問わなくてはならない。

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