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2015年1月22日 (木)

ウフィツィ美術館展(2)~第1章 大工房時代のフィレンツェ

Ufizgil展示室に入り、その大きさと鮮やかな色彩により目立っていたのが、ギルランダイオの「聖ヤコブス、聖ステファヌス、聖ペテロ」という作品です。テンペラ画というもので、その後一般的になる油彩画とは描き方や絵の具等の道具の異なっていることより、出来上がってくる作品が異なってくるのが、実感としてわかるように思えました。たとえば、この作品の中央の人物の衣服の赤の色調、その色というより色の感触、色が光として目に入ってくる調子が油絵とは異なるのです。言葉にして具体的に説明するのは難しいことです。あえて感覚的な言い方で許してもらえれば、実際に人が衣装として着ている色を写したというのではなくて、赤という色が鮮やかにまず主張されているという印象です。それは、中世の教会の聖堂の壁面に飾られているモザイクのタイルの色の美しさと同じような、まず色ありきで、その色によって組み立てていくという感じです。私が、この「聖ヤコブス、聖ステファヌス、聖ペテロ」にまず、目を奪われたのが人物の衣装の鮮やかな赤とその中の細かい装飾的な模様の金色でした。(まあ、その印象をもっともらしく述べているだけなのですが。)このように画面の構成要素である色が一人歩きしようとしているのは、画面全体が装飾的で平面的であるからです。この作品の画面の構成や構図をみれば中世のイコンのパターンそのままであるように私には見えます。しかし、そこで描かれている個々の人物は平面的なパターンの枠を乗り越え肉体の厚みを備えた人間に見える姿になってきています。そして、背後のアーチも陰影が付されて真っ平らの平面ではなくて奥行きが多少感じられる描かれ方になっています。そうは言っても、画面全体に空間が構成されていて、その中で背景の建築があり、その建築を背後に空間を隔てて人物が立っているという位置関係が構成的に表現されているのではなくて、個々の描かれているものの奥行きとか立体感が装飾の一種のように扱われているように見えます。それゆえでしょうか、後のダ=ヴィンチやラファエルには感じられない鮮やかな色彩が前面に現れ、それだけにも目を奪われる煌びやかさが、この作品にはあります。それは、テンペラ画という油絵に比べて陰影のグラデーションを精緻に施していくのには向いていない代わりに、のっぺりとはするものの色彩の発色が明るく鮮やかで、色相互のコントラストを付けやすそうという、テンペラの限界と特徴を突き詰めていったものではないかと思います。思うに、テンペラ画では建物の壁面を壁画として飾るものだったり、書物などの挿絵のような、なにものかの付属物とか装飾的な役割を担わされていたもので、この作品も絵画として独立した存在で何かを表現するというよりは教会の飾りのようなことを期待されていたのではないか。その中で、私の想像ですが、ギルランダイオは、彼をとりまく注文者や関係者の志向する方向が後のダ=ヴィンチやラファエルのような作品に向いていたのを察知して、あるいは自身にそういう志向性があって、テンペラ画でできるところまで進めたのがこの作品ではなかったかと思います。

Ufizbal同じ頃に制作されたと思われるバルトロメオ・ディ・ジョヴァンニの「砂漠で改悛する聖ヒエロニムス」という作品です。上の作品と同じテンペラ画です。こちらもイコンのような平面的で装飾的なものがベースになっていて、画面の中の各パーツが各個に洗練されてこようとしているのが分かります。この作品は聖ヒエロニムスの物語の挿絵の機能を担っていて、その一場面を自立した表現として作品化したというのではないように思えます。言うなれば、聖人の物語の説話的な機能を効率的に伝えるというメディアというもので、そのメディア自体が独立した価値を主張するものにはなっていない、挿絵とか紙芝居のようなものであったように見えました。この作品では、聖人やキリスト教のアトリビュートが雑多に詰め込まれているような感じで、物語の説話的要素、言い換えれば情報をできるだけ多く盛り込んでいこうとする意図が見えます。ここでは作品画面自体のまとまりとか統一性とか見易さのようなものは優先的には考慮されていないように見えます。このような作品を後世のいわゆる芸術作品として見ようとする目からは、人物の肉体表現であるとか、背後の洞窟の特徴的な描き方を面白がるという方向に行くのでしょうか。とはいえ、私には、ここで展示されている作品について絵画としてみるという点では、非常に難解な作品でありました。これらについて好き嫌いを言う前に、分からないというのが正直な感想です。

Ufizperuこれらに対して、これは絵画に近いと感じられたのがペルジーノの作品でした。それらのほとんどはキャンバスに油絵の具で描かれていたものでした。とくに「悲しみの聖母」という作品は模写なのだそうですが、写実そのもののような画面で、そこに息づく人間が居る作品で、これまで見てきたノッペリしたパターンのような人の形とは異質な、そこには人の個性も、表情もありました。この一作だけで時間がワープして近現代に飛んできてしまったという印象です。この作品には、もはやテンペラ画のような鮮やかな色彩で目を惹くということから、色彩が対象である人物をリアルに写すという画面を構成するために機能することが重視されるようになっています。表現ということが重視され、それを総合的に画面に表わされている。そこには、聖母という抽象的な記号ではなくて、どこそこの誰かと特定できそうな悲しみを湛えた女性が生々しく描かれていました。天上にいる手の届かない存在としての聖母ではなく、実際に目の前にいるような具体的な人間として、共感したりする感情移入ができるものとして描かれている。それを観る人が、個人としてその画面に対峙することができるものになってきているのです。個人に起因する“感動”という反応は、このようなところから誕生してくるのではないか、思わせるものになっていました。この後で、ボッティチェリの作品をみると後退というか、アナクロという言葉が頭の中に浮かんできてしまいます。

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