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2015年1月10日 (土)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(21)

第九章 作者であることの事後性をめぐって

バルトが「作者の死」を宣言したのが1968年で、彼が言わんとしたのは、作品をつくり出した生身の作者を作品について最高権威とすることの否定である。ある作品がどのような意図でつくられ何を意味するのか、それをこうだと断定し支配する権限は作者にはない。作品の意図や意味について作者があれこれ作品外で語っても、それは究極の答えではない。目の前にあるつくられたものがすべてである。その中でのみ意図や意味は語られるべきであり、その外にある作者のことばを規準として解釈の当否を決めることはできない。「作者の死」は、受けての復権と結び付いている。意図や意味は作者に支配権や独占権のあるものではなく、受け手が積極的に作品から引き出すものと捉えられる。作者ですら、受け手が作品を通じて見出す作者なのだ。受け手の自由が謳われ、生身のつくり手は権威の座を逐われる。

しかし、だからといって実在の生身のつくり手が「作者」でなくなったわけではない。つくり手はなお「作者」を名告る。それはどのようにして可能なのか。その時の「作者」とは何を意味しているのか。

1.芸術作品の二層構造と作品に内在する作者

芸術作品は、ひとのつくった客観的事物である。それは見たり聞いたり触れたりできるものの一種である。しかしただの事物ではない。何かしらの「意味」「精神的内容」を受け手に感じさせ、「美的体験」をもたらす特別な事物である。芸術作品はしばしば、その存在において、物質的・事物的な層と精神的・意味的な層の二層をもつと言われてきた。

芸術作品は、物質的な「前景」と精神的な「後景」という、分裂しつつ単一の全体をなす二層構造をなす。ニコライ・ハルトマンによれば、この二層構造によって芸術様品は、「生きている精神」と区別された「客体化された精神」となっている。さらに「客体化された精神」のうちでも芸術作品は特別な存在である。芸術作品は「一つの全体」であり、外部に頼らずに「それ自体で完結している」。ハルトマンのこのような考察からすれば、芸術作品は、「生きている精神」との対比において、さらに他の「客体化された精神」との対比において、感覚的な実在の形成物に客体化されてあるということがとりわけ重視されることになるだろう。

美的対象において、精神的内容は実在の感覚的形成物に「封じ込められ」てのみ保持される。しかもそれは、感覚的な形成物の中に「それ自体で」あるのではなく、あくまでそれを把捉する「われわれに対して」ある。こうして、物質的なものの中に精神的なものがどのようにして「客体化」されて作品となっているのか、作品の「前景」である物質的なものからどのようにして精神的なものが「後景」として受け取られるのか、言い換えると、物質的感覚的形成物に精神的内容が支えられるその仕方、前景から後景が現象するその仕方が問題なのである。

芸術作品における精神的なものが、それ自体としては存在しえず、物質的なものに担われ支えられてのみ存在するということ、さらに作品における物質的なものが主体から独立した実在であるということは、芸術作品がつくり手から自立した存在となっていることを意味する。芸術作品がその「精神的なもの」ゆえに他の事物と区別されるのが確かだとしても、「精神的なもの」は、「客体化」さり、事物としての作品となっている。芸術作品の二層構造は、精神的なものである作品が、感覚的物質的形成物として実在の作者とは別個の存在であるという事態をもたらすのである。そして受容者は、そのように実在の作者とは別に存在する作品において、物質的感覚的前景から、後景である「精神的なもの」を捉える。精神的なものを物質的なものと切り離さずに考えるとき、作品における精神的なものは、実在の作者における精神的なものとは別にあるということになるだろう。我々はここに、作品に内在する作者と実在の作者を区別する根拠を見出すことができる。作品における精神的なものが仮に実在の作者に由来するもの、作者の「精神的なもの」だとしても、それは実在の作者からは独立した物質的感覚的存在のうちに「客体化」されて存在している。受容者は実在の作者とは別個の物質的感覚的存在に「精神的なもの」を捉えるのであって、たとえそれを作者の「精神的なもの」と理解してそこに作者を見たとしても、それは実在の作者および実在の作者に生きている「精神的なもの」とは別に存在するもののはずだ。

ハルトマンの見て取った芸術作品の二層構造は、さらに進んで「作品に内在する作者」重視にもつながる。つまり、作品における「精神的内容」は、それ自体で存在するものではなく、受け手、受容者にとってのみ存在する。受容者がある特定の態度を取ることによってのみ、作者からも受容者からも独立した物質的感覚的形成物を「前景」として、精神的な「後景」が現象する。とすれば、受容者にとって問題となる「精神的なもの」「作者」とは、受容者の受容から独立に存在する実在の作者それ自体、実在の作者の精神的なものそれ自体ではなく、受容によって物質的感覚的形成物に現象する「後景」としての「精神的なもの」、「作品に内在する作者」であるしかない。受容者にとって、作者は、作品の外にいる作者であるより前に、まず作品を通して見えてくる作者、作品の内側から現れる作者だということになるのである。

「実在の作者」と「作品に内在する作者」とを区別し、「作品に内在する作者」を第一のものとする立場は、このように、芸術作品の二層構造との関係で理解することができる。ハルトマンが芸術作品に見て取ったような「二層性」、すなわち物質的感覚的なものと精神的意味的なものとが分裂しつつ不可分な一体をなして現われる事態は、様々な論者から指摘されている。我々はすでに、カッシーラの表情論やメルロ=ポンティの表現論にも、同様の「一が二であり、二が一である」事態の記述を見てきた。彼らが揃って物質的感覚的なものと精神的意味的なものとが「一が二であり、二が一である」ようにして現われる中動相を、見て取ったことには、それが見たり聞いたりする体験からの考察であったことが共通している。これはおそらく偶然ではない。芸術作品に見出される二層構造は、芸術作品を見たり聞いたりする体験、受け手の手千葉を基本として見出されるものである。ハルトマンは作品を受容する知覚体験から出発し、受容体験に芸術作品の二層構造を見出す。とすれば我々のこれまでの考察は、受け手の、作品を受け取るという場面から作者を考えるものであったことになろう。

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