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2015年1月 7日 (水)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(18)

3.素材と行為

ギブソンによる生態学的心理学は、知覚を機械的・要素的な刺激に対する聖体の要素的・機械的反応から考える立場を批判し、知覚者と環境との相互依存性を基本に置く。つまり、心や脳が外部から入ってきたデータを処理して、秩序意味を作り出すと言うのではなくて、生体とその環境が、各々構造化された全体であり、機能的・構造的に結び付いて一つの系をなすと考える。環境はそれ自体で構造化されて意味を持ち、知覚者はそれを直接知覚する。それが「アフォーダンス」という語に表われている。

「アフォーダンス」は、「環境が、その中で生きる動物に与えてくれる行為の機会」、「生体の活動を誘発し方向付ける性質」であり、環境の中で生きる動物にとってその環境がもちうる「意味」や「価値」のことである。したがって、動物の身体構造や大きさや能力によって、アフォーダンスは異なる。アフォーダンスは、動物との関係において定まる特性なのである。種ごとに、あるいは個体ごとに、様々に異なるアフォーダンスが無数にある。アフォーダンスはそれを知覚する者との関係において捉えられた特性ではあるが、知覚するものの「経験の特性」ではなく、あくまで「環境の特性」であるとギブソンは強調する。アフォーダンスは単に主観的なものではなく、ある個体がそれに気づかなくても、そこに存在する。アフォーダンスは個々の主観、個々の経験を超えて存在するものであり、その意味で生態学的な実在とされる。

環境は様々なアフォーダンスに満ちており、知覚者はそれを直接知覚する。例えば知覚者を取り囲む散乱した光、すなわた「包囲光」をもとに視覚を考えてみると、伝統的な視覚論が視覚の基礎と考えていた放射光、すなわち知覚者の目に届く直線としての光が構造を持たないのに対し、包囲光はそれ自身「包囲光配列」という構造を持つ。知覚者は、この包囲光配列の構造の中にアフォーダンスを直接知覚する。つまり、知覚者が要素的な刺激から知覚を構築するのではない。光そのものが構造化され、そこに環境を特定する情報があり、知覚者はその情報を「抽出する」。しかし、近くは、光の中にある情報の単なる受容ではない。ギブソンが「情報抽出」という言い方をするのは、知覚の働きの能動性を強調してのことである。アフォーダンスは直接知覚されるが、それは一方的入力ではない。知覚には、知覚には、知覚者の積極的な探索や調節の活動が必要とされる。ギブソンは、環境や刺激と言われるものが秩序化、構造化されていると考えるが、その秩序や構造は、知覚者が自ら動くことによって、動きに応じた視界の変化を通じ、変化の下で持続するもの不変なものとして、見出されるというのだ。環境の中の情報は、静止したままでは得られず、知覚者が動くことによって時間の中で変化における不変項として抽出される。知覚者自らが能動的に動くことが知覚に必要である以上、そこには目や耳や鼻などの狭義の知覚器官だけでなく、身体全体が関与する。つまり、知覚は行為であり、全身的な活動であるということになる。ここから「知覚系」という概念が生じる。知覚のために行為は組織化され、身体は構造化されるということになる。

環境には無尽蔵のアフォーダンスが実在するはずだが、知覚者は無前提にそのすべてを知覚するわけではなく、知覚者ごとの情報抽出における系のはたらき方次第で、そのうちのあるものがその知覚者に立ち現れる。我々はここに、一種の技術を見て取ることができるだろう。生態学的心理学の示す知覚のあり方には、環境に促され環境に応じて成立する「行為の形」としての技術と捉えうる側面がある。この技術は、知覚者の内部というよりむしろ、知覚者とその環境からなる一つの全体としの動的構造内部、両者の界面に位置し、変化し続けているはずだ。

このようなアフォーダンス理論は、我々が問題する素材と技術との関係が、一方的な関係、外的な関係ではないことを示唆してくれる。アフォーダンスは、知覚者が環境の中で行動することによって発見される。素材を扱う者は、素材と実際に関わる行為の中で、素材のアフォーダンスに気づくということになる。素材のアフォーダンスを知覚するためには、それを抽出する知覚系のはたらき方が、素材に応じる形で成立しなければならない。そしてアフォーダンスの知覚が、ギブソンの考えるように外界と一致するものであるならば、知覚する者は、アフォードされた何事か、言い換えると自らにとって「意味」や「価値」をもつ何事かを、プラスの意味や価値ならば現実化すること、現実に利用することができるはずだ。我々は素材のアフォーダンスを抽出し現実化する技術を、素材に応じた身体的な系の組織され方や働き方、系における高次の調整や制御の仕方として考えることができる。とすれば技術は、身体が素材と関わる中から素材に促されて生まれてくる。素材の持つ特性は、素材に応じた技術によって抽出され現実化される。両者は内的な相互依存関係にあり、その関係は、「意味」や「価値」を内に含んで成立している。

 

4.技術と構想力

我々の関心は、芸術における制作を、頭の中、心の中のこととしてではなく、身体を動かし素材を扱って客観的事物を生み出す具体的な行為として捉えることにある。形や素材、それらと関わる技術をめぐる考察は、芸術作品がどのようにして生まれてくるのかという問いに関わり、創造性についての問いに向かう。

三木清が論じる構想力は、それが行為と関係づけられている点において、我々の関心を引く。三木清は行為を観察と区別する。しかも三木の考える行為とは、意志のことではなく、「広い意味においてものを作る」こと、すなわち「制作」に悟性と感性を結合する機能を認めたことに着想を得ているが、構想力を、頭の中、意識の中で働くものではなく、「身体をもって物そのものに突き当たる」行為においてはたらくものと考えるのである。構想力の論理とは形の論理であり、形を形成する技術の論理である。個々で問題とされる形が形式論理の扱う抽象的な形式でない。三木は行為の形を主観的なものと客観的なものとの綜合とみる。形は「イデーと実在との統一」である。三木は、技術における形の形成に構想力の働きを見る。すなわち、身体をもった人間が環境と関わる中から、両者の相互限定・相互依存の結果として、意味の受肉である新しい形が生まれる。そこではたらくのが構想力なのであれば、我々は構想力を、行為する身体の内に見て取ることができるだろう。あるいは、構想力は、身体と環境からなる一つの動的な構造の内部、両者の界面にはたらく力と言った方がいいかもしれない。そしてそのはたらきは、能動─受動ではなく、中動態であるはずだ。

作品の制作とは、素材との技術的対話かもしれない。作り手は素材にはたらきかけ、そこから何がしかの応えを受け取る。何がしかの発見がある。それが次のはたらきかけへとつながる。芸術制作における創造性は、どこか他のところにではなく、まずここに求められなければならないだろう。

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