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2015年1月13日 (火)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(24)

第十章 生成と遡行

芸術作品は魔法の杖のひと振りで一瞬のうちに出来上がるようなものではない。芸術作品をつくるには、時間がかかる。芸術作品がもっぱら精神的意味的なものであるならば、それは一挙に頭の中だけで出来上がるかもしれない。しかし芸術作品は、ひとが見たり聞いたり触れたりできる物質的感覚的なものを扱い、そこから(精神的意味的なものを背負った)客観的事物としての芸術作品をつくり出さなければならない。物質的感覚的なものが表われるように、しつらえなければならない。それには、必ず時間がかかる。つくり始めがあり、目で見、手を動かして進む作業があり、つくることの終わりがある。作品の制作、そして表現の作業は、時間の中で行われる。

しかし、この制作の時間、表現の時間には、何やら奇妙なところがある。

制作・表現の時間は、つくっている現在を中心に、奇妙なもつれ方をしているように思われる。それはどういうもつれ方なのだろうか。制作・表現の時間はどのような構造を持つのだろうか。

 

1.「表現によって知る」ということ─コリングウッド

コリングウッドは、芸術家が表現によってはじめて自分を知るという事態に注目する。彼は『芸術の原理』という著作において、この点を中心に芸術活動を考察していく。

コリングウッドは、芸術活動を一般の技術活動と対比させることから考察を始める。彼によれば、技術活動では、あらかじめ明確な目的が設定され、それを実現する手段が講じられる。目的実現のために、計画が立てられ、それが実施される。しかし芸術活動はそうではない。芸術活動に目的と手段、計画と実施の区別はないというのである。

コリングウッドは、芸術活動を芸術家による自らの情緒の想像的表現と理解する。ただしそれは、芸術家が表現すべき情緒を分かった上で、それを表現するにふさわしい方法を考案し、それを手段として表現するというようには行われない。芸術家は自分のしたいことが分からないし、したがってそのために何をどうすればいいのか分からない。芸術家は表現することによってのみ、自分の表現したいこと、すなわち表現によって表現されるべき情緒を知る。「発見する」という言い方もコリングウッドはする。表現とは、表現しなければならない情緒を、自分自身に分かるようにする作業ということになる。

そもそも表現によって表現される情緒は、表現以前にはどうだったのか。少なくともそれは、表現する芸術家に現前してはいない。コリングウッドは表現以前に情緒がないとは言わない。彼は意識のレベルに達する以前の情緒を「心的情緒」と呼び、表現によって表現された「想像的情緒」と区別する。彼の言う「心的情緒」とは、意識のレベル以前の、純粋な感覚器官のはたらきに伴って自動的に生じる情緒、「獣のような」情緒である。この情緒はコントロール不可能なかたちでふりかかってくるものであり、ひとは、自分がそういう情緒を感じているとも意識せず、分からぬまま一方的に翻弄されているだけだというのである。

このような意識される以前の「心的情緒」を意識しようとする時、ひとは「心的情緒」を、意識のレベルで経験される情緒の「素材」に転換しようとする、とコリングウッドは言う。すなわち心的情緒はそのままでは意識されない。情緒を意識するためには、ひとはより高次のレベルである意識のレベルに、心的情緒と異なる情緒を改めて生み出さなければならない。心的情緒は、意識のレベルにおいてここで改めて生み出される意識的情緒の「素材」をなすわけである。そして、この意識のレベルの情緒は、必ずそれにあさわしい表現と一緒に経験される。表現によって、ひとは自分の情緒を意識する。表現によって、心的情緒は意識的情緒の「素材」となる。したがってひとが表現によって意識するのは、言い換えれば表現によって表現されているのは、心的情緒そのものではない。素材としての心的情緒にはひとの手が加わり、新たな情緒が生み出されている。コリングウッドはそこに想像力のはたらきを見て、表現によって表現されるこの情緒を「想像的情緒」とする。ひとが意識するのは、この「想像的情緒」だけである。その意味で、「表現は、それが表現するものを創り出す」とさえ言われる。

もともと「表現によって知る」ということは、表現する前は何を表現したいか分からなかったのに、表現が完了すると「自分の表現したかったのはこれだ」と思えるということである。多くの人がこれを体験している。しかしここにはある種の矛盾がある。何を表現したいか知らなかったら、表現によって表現されたものが、自分の表現したかったことだとは分からないはずなのだ。表現の完了を判断することさえできない。コリングウッドは、情緒をいわば二重底にすることによって、この矛盾をやり過ごそうとしているように思われる。最初に意識されない情緒があり、それが表現の素材となって意識される情緒になる。

しかしコリングウッドの論からすれば、最初に存在する「心的情緒」と表現によって意識される「想像的情緒」は、厳密な意味では異なるものである。「知らなかった」情緒は、「知ることのできた」情緒と同じものではない。したがってこの場合、ある何かを最初は「知らず」、後になってから「知った」と単純に言うわけにはいかないだろう。表現によって表現されることは、表現されるまで分からない。表現する者はそれについて、表現以前の時点で「自分はこれを表現したい」「これを表現するつもりだ」と現在の時制や未来の時制で語ることができない。しかし彼は表現が完了した時点で、「自分はこれを表現したかった」「自分はこれを表現しようとした」と、過去の時制や過去における未来の時制で語る。彼にはそう思われるのである。表現しようとする者が表現を通じて表現しようとしているのは、未来になってはじめて過去にそうだったと思えるような何か、あらかじめそうだったように思われることになる何かなのだ。

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