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2015年1月 9日 (金)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(20)

3.行為と意図

我々が問題にするのは、作品の制作行為における自由や主体である。したがって動作を基盤に行為が形成される次第を考えなければならない。その際、「意図」が問題になってくる。一般には、主体の「意図」が行為を引き起こすとされる。行為に先行する「意図」に導かれて、さまざまな下位の動作や行為が組み合わされ、目的をめざす一連の行為が形成されると言われる。はたしてそうなのか。

ひとは、意図的な行為とそうでないふるまいを区別する。車を運転したり絵を描くことは意図的な行為だが、石に躓いて転んだり、くしゃみをすることはそうでない。そうであれば、意図的行為においては、行為者が「~しよう」という意図をまず抱き、それによって実際の行為が引き起こされるようにも見える。しかし、ウィトゲンシュタインらが指摘するように、意図的行為から「意図」のみを取り出すことは難しい。「私が自分の腕を上げると言う事実から、私の腕が上がるという事実を引き去るとき、あとに残るのは何なのか」という問題である。日常的なふるまいにおいて私は、「腕を上げよう」という私の意図を、腕が上がることと別に、頭の中や心の中に、それ自身として見つけることはできない。

アンスコムは著書『インテンション』において、行為者のこころの中から意図的行為を理解しようとする立場を批判し、意図的行為を行為者の言表によって規定した。すなわち、行為者が「なぜそうしているのか」と尋ねられて、観察にたよることなく答えられるような行為が意図的行為である。

意図は行為においてある。行為は意図を含んでいる。行為と意図とは不可分なかたちで全体としての「意図的行為」をなしている。意図と行為は、全体から抽象された二つのアスペクトなのだろう。意図が行為を導いているように見える場合も確かにあり、行為が意図を生んでいるように思われる場合もある。しかしいずれにせよ両者の関係は外的ではありえない。行為の主体は行為に巻き込まれ、その中で変化する。自分以外の環境や対象と関わる行為の中で、制約を通じて、主体は変化し、主体がもつ意図も変化する。制約に応じて、主体は新たなかたちをなし、意図が定まる。「何事かをなしうる自由」の「何事か」は、おそらく「なしうる自由」と一緒に生まれる。意図をもって行為をなす者というのが行為の主体の定義であるならば、それは行為の主体の新たな形成でもあろう。われわれはこの過程にもまた、中動相を見出すことができる。

 

4.制約と構想力

これまでの考察で我々は、行為において、行為者に課せられる制約との関係で、行為者の能力が行為のかたちとして獲得され、行為の意図も生まれることを見た。芸術作品を制作する行為も、事情は同じであるはずだ。客観的事物としての作品をつくるということは、つくり手にとって、あえて制約の場に身を置くことであるはずだ。つくり手は常に制約によって拘束されている。しかしそれは、「何事かを成しうる能力」を獲得するために不可欠なことであり、実現可能な「何事か」を発見するために必要なことである。意のままにならない、どうすればいいのか分からない、どうなるか見通せない─そういう状況と関わる中で、つくり手のかたちが次第に形成され、なしうる何事か、つくりうる何かが、新たに見出される。この発見が「制作の自由」の拡大であろう。

「制限」「制約」「不自由」から「新しい充実した表現」「自由な力」が生まれる─我々のこれまでの考察からすれば、これは決して「逆説的」なことではない。これはすなわち「創造」の位相である。我々は先に、制作を通じて「なしうる何事か」「つくりうる何か」が「発見」されると述べた。厳密に言えばこれは「発見」ではない。「発見」とはすでに存在するものが「発見」されるわけだが、つくり手の見出す「何か」は新たに生み出されたのだ。すなわち「創造」である。「創造」が、つくり手当人にとっては「発見」と思われる─われわれはここに、制作過程の中動相を再確認することができる。つくり手は、制作過程を超越しそれを制御する固定的な主体、能動的な主体ではない。過程に巻き込まれて変化する主体、「拘束」された状態から制約に応じて新たなかたちに生成する主体である。したがって、今までなかった「何か」を「自分が創造した」とは思えない。新しく生まれた「何か」について「見つかった」と言うしかない。それでも外から見れば、あるいは後から振り返れば、それは自分がつくったことになるのだ。「創造」は、制約から出発し制作主体の新たな成立を内に含むこのような中動的過程と考えられる。「作品」と同時に「作者」も成立してくる動的な過程である。

三木清は、創造に与る構想力を、意識の問題としてではなく行為において考察している。アリストテレスが形を永遠に変化せず常にある実在、先在的なものと見るのに対し、三木は形を変化するものと見て、形と形の変化を「行為」において考察する。「行為」は「ものに働き掛けてものの形を変じて新しい形をつくること」であり、そこに構想力がはたらく。静的な論理である形式論理に対し、「構想力の論理」は動的な論理として追求される。

「創造」は、生命が環境においてあり、環境に対する適応として、環境に規定されつつ自ら形をつくるところにすでに認められる。人間の技術も同様に形をつくることであり、根本的には主体と環境の適応関係を意味する。形は、主観的なものと客観的なものとの統一、因果論と目的論の統一として、技術の過程の中から生まれる。構想力は行為において働き、「創造」は制約や限定抜きには成り立たない。

芸術作品の制作は、それが環境と関わり客観的事物を生じさせる行為であることによって、自由でありうるし、創造的でありうる。制約や拘束があることによってはじめて、限定的なかたちが形成され、新しい「何か」が現実に生じうる。「創造」はそこにある。無制限な自由からは、おそらく何も生まれないだろう。つくり手にとっての制約を外から除去していくことは、「自由」や「創造」を痩せ細らせることになりかねない。ひとが制約を承知で事物としての作品をつくるのは、それによって「自由な創造」が可能になり、自由が実現され、自ら自由な制作主体となるからなのだ。

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