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2015年1月12日 (月)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(23)

3.作品の自立と実在の作者

つくり手が、出来上がった作品から遡って事後的に「作者」になるということは、言い換えれば、「作品に内在する作者」を自分に引き受けることであろう。「作品に内在する作者」は「実在の作者」と区別される存在である。それは作品の物質的感覚的前景に現われる精神的意味的後景であって、それ自身としては存在せず、作品を受容する者に対してのみ存在する。それを引き受けてつくり手が事後的に「作者」になるのであれば、そこにおいては、出来上がった作品を自分自身で受容すること、自分のつくった作品を見たり聞いたりすることが必要なはずだ。作品の、実在の作者から自立した客観的事物であるという側面が、ここで再び意味を持ってくる。それは、つくり手自身も見たり聞いたりしうる対象なのだ。

現象学が指摘するように、実在の事物は見る者を「超越」する。私が見るのはいつも対象の一側面(アスペクト)であって、事物には、私に見えている側面を超えた「それ以上」が必ずある。知覚体験において、ひとは新たな事物のすべてを見尽くすことができない。すべてを把握し尽くすことができない。見るたびに、新たな何事かを発見しうる。それでもなお事物には、まだ見ていない「それ以上」が残っている。事物の「超越」であるということは、「見る」ことによって今まで知らなかった何事かを把握する可能性が、常に開かれていることを意味する。芸術作品が実在の事物である以上、出来上がった作品は、つくり手自身にとっても、このような「超越」である。つくり手は、自分のつくったものを知覚し、それまでの自分の把握を超えた何事かに出会う、少なくとも出会う可能性、発見の可能性が開かれている。この何事かは、芸術作品において物質的感覚的なものと精神的意味的なものとが不可分である以上、精神的意味的な層にまで届いているだろう。つくり手は、それを受容し、可能性の広がりごと自分に引き受けることができる。「超越」は、つくり手が出来上がった作品から事後的に「作者」になるということに、大きく関わるはずだ。

芸術作品が事物であり「超越」であるということは、作品が出来上がる以前、制作の途中においても、同様に言うことができるだろう。未完成であっても試行錯誤の途中であっても、つくり手の目の前には製作中の事物としての作品(になりつつあるもの)が実在する。

さらに、つくり手が、作品の「内在する作者」を引き受けて「実在の作者」になったのであれば、彼または彼女は、客観的事物としての「超越」としての作品が、それ以後すべての受容者に知覚を通じて与えうる精神的意味的なものをも、可能性ごと「自分のもの」として引き受けることになるのではないか。「超越」とは、他者に対する開かれでもある。「実在の作者」が作品に自分の名を付すのは、自分の手を離れた作品に他者が見て取りうる「後景」を、自分の手許に回収し自分のものとして引き受けるためだと思われる。

我々は、つくり手にとっての「作者」であることを考察してきた。その結果、つくり手が事後的に「作者」になるということ、出来上がった作品を引き受けることによって「実在の作者」でありえていることが、見えてきたように思われる。そこには、作品の客観的事物・物質的感覚的形成物であること、つくり手自身もそれを受容することが、大きく関わっていた。言い換えれば、つくり手にとって自分のつくったものを見たり聞いたりすることの重要性である。つくることの中にある見ること、「作者」であることを成立させる「作品」の受容─実在の作者は、もう一人の受容者である。作品の受容は、長い間創造の追体験と捉えられてきた。しかし、創造が受容の先取りだとも言えるのではないだろうか。

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