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2015年1月18日 (日)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(28)

2.中動態

中動態は、思考の範疇として考えれば、過程の内にあるもの(あることになるもの)が過程の内で生成したり変化したりする事態を指す。過程に外的で自己同一的なものは前提されていない。しかも中動態は、過程のうちにあるものが一でありながら二へ向かい、二へ向かいながら一であり続ける事態でもある。一と「二に分けられた一」とのあいだなのだ。変化や差異を含んだ一、それ自身からずれていく一。同じものでありながら別のものになる(である)こと、別のものになり(であり)ながら同じものであり続けること。「おのずから~なる」が議論を全体化へ向かわせるのに対し、中動態には差異化の方向性が組み込まれている。

主体─客体関係成立の手前で主体を成立させる差異化、世界を現れさせる差異化、主体と世界とを同時に成立させる差異化、そのような差異化のはたらきが中動態で記述され、中動態を思考の範疇として考察される。差異化という概念は、主体が、あらかじめ主体であるのではないこと、世界が対象化された客体である以前に主体を超えた出来事の内に現れること、との関係で意味を持つ。芸術体験が中動態で記述されるのも、同様の文脈で理解できるだろう。

しかし差異化が取りとめのない差異の戯れに終わらず主体や客体が成立するには、差異を取りとめる一がなければならない。中動態にはその一も組み込まれてはいる。一と差異化が同時あるとして、一に差異化が組み込まれているとして、差異が一へと媒介されるとして、その一はどのように一なのか。一から差異が生まれるのであって、差異から一自体はうまれないのではないのか。

「遡行」や「事後性」の問題は、ここに関わってくる。作品を制作しようとする者は、何をどのようにつくればいいのか、何を表現したいのか、制作に先立ってはっきり分かってはいない。しかし作品が出来上がった時には、「自分がつくりたかったのはこれだったのだ」と思える─「作者」であることの引き受け、「作者である私がこの作品をつくった」という能動─受動の言明は、こうして成立する。メルロ=ポンティは、ベルグソンを意識しつつ、この遡行にある根源的な事態を見る。ある時点で成立した判断は、みずから過去に遡っていく。現在が過去をつくる。そしてその過去は過去にとっての未来である現在を準備することになるものだった。表現以前に表現されるものはないが、表現は表現によって表現されることになるものを表現することだった。表現以前に表現されるものはないが、表現は表現によって表現されることになるものを表現されることだった。ここには時間のもつれを含んだ循環がある。メルロ=ポンティはこの事態をそのまま受け入れる。ベルグソンが絶えざる変化を重視して、同じであり続けるものを退けるかとも見えるのに対し、メルロ=ポンティは変化するということと、同じであるということと、同じ重さで積極的に肯定する。彼はむしろ両者が同時に成立していることから、大文字の「存在」を考えようとしていた。時間を巻き込む循環は、それ自身からずれていく一の「一であること」と関わる。しかしそれはどういうことか。「作品ができた」というような中動態の言い回しは、なぜ事後的に「私が作品をつくった」というように能動態で言い換え可能なのだろう。

中動態は、「おのずから~なる」と同じく、主体─客体関係が成り立たない事態を捉えるものである。しかし、「おのずから~なる」や中動態によって捉えられる事態があるとしても、それはそのまま主体─客体関係が成り立たない事態を捉えるものである。しかし、「おのずから~なる」や中動態によって捉えられる事態があるにしても、それはそのまま主体─客体関係の全面否認や否定につながりはしない。それは主客関係の手前の事態と言われることもある。それならそれはどのように手前であるのか。そこからどのようにして主体や客体が成立するのか、それは主体や客体とどのような関係をもつのか。われわれは、ファシズム的全体性と際限なき差異の戯れとのあいだを問題にしなければならない。

 

3.オートポイエーシスの理論

中動態の、それ自身からずれていく一の「一であること」、変化を通じて同じであることの「同じ」を考えなければならない。その際、オートポイエーシスの理論が新しい視野を開いてくれる。

オートポイエーシスとは、生命システムの考察から提起された概念である。システムは、関係しあう要素の集合であり、要素間の制約しあう関係性から統一的全体を構成している。生命もシステムの一つであるが、他のシステムと異なり、自分で自分を維持し再生産する。このような生命システムを説明するために、マトゥラーナとヴァレラは、反復的に自己を生産しながら作動するシステム一般の仕組を「オートポイエーシス」という語で概念化した。

あるものが次の何かを産出するプロセスを作動させる。そのプロセスから産出されたものが、次の産出プロセスを作動させる…。そのようにプロセスが連鎖し、ある時点での産出プロセスが、連鎖の最初のあるものを産出した時、プロセスの連鎖は、一つの閉じた環を形成する。いったん連鎖の環が閉じると、産出プロセスはどこかで元のところに戻り、そこからまた同じように次々と連鎖的に作動を続ける。この作動連鎖はそれ自身で、ぐるぐる廻っていくはずだ。産出プロセスの連鎖は一つの閉じたシステムをなし、システムの産出物がシステムそのものを作動させるということになる。システムを作動させる産出物はシステムの「構成素」と呼ばれる。自ら産出した構成素によって作動するのだから、システムは自己完結的に、みずから作動を続ける。これがオートポイエーシス・システムと呼ばれるものである。

我々はここに、個の成立を見ることができる。オートポイエーシスは個体化の理論である。システム作動の自己完結が、システムを個として存在させる。システムは、それ自身で作動することによって、他とは絶対的に区別された個として存在する。この個はねそれ以上分割不可能な単位体である。環境も、システムの側から境界づけられる。すなわちプロセス連鎖が環状に作動するとき、内と外の区別が生じ、プロセスの環状連鎖であるシステム自身と、環の外の環境とが、境界づけられるのである。この境界付けはシステムの作動によってシステムの側から行われ、システムそれ自身と、トステムの環境とが、区切られて同時に成立する。したがって、すでにある環境の中にシステムが出現するのではない。だからといって未分化の全体に何かの力が働き、それによってシステムと環境とが対称的に分化してくるのでもない。オートポイエーシス・システムは、外的な何かによって存在するのではなく、それ自身の作動によって存在する。システムと環境との区別は、システムの側から非対称的に行われるのである。

オートポイエーシス・システムの個は、作動しつづけることによってのみ同一の個である。言い換えると、システムを作動させ続ける産出物(=構成素)が変化していっても、構成素を産出するプロセスのどれかあるいはすべてが変わって言っても、作動が環状に途切れず続く限り、そのシステムは、原理上、同じ個体゛ということになる。我々はここに、同じであること(一であること)と変化・差異化することとを、同時に成り立たせる原理を見ることができる。

オートポイエーシス・システムの特徴は、この「個体性」「環境の自己決定」と並んで「自律性」「入力と出力の不在」が挙がり、計四点が指摘されている。オートポイエーシス・システムは、みずから作動することによって存在し、作動を決定するのもシステム自身である。これが自律性である。また、オートポイエーシス・システムは、外部から作動を指示決定されないという意味で入力がなく、産出する自分自身の構成素(=システムを作動させ続ける産出物)という意味で出力もない。我々の土俵に引き寄せれば、オートポイエーシスは中動態で作動する。

自律的であり、入力も出力もないのであるが、システムは環境と関わる。環境はシステムに浸透する、あるいはシステムは環境を巻き込んで作動するといわれ、両者の関係には「浸透」という語が当てられる。すなわち、例えばシステムは構成素を産出するが、そのためにはもととなる別の物質が必要であり、それは環境に属するものである。環境の一部である何らかの物質を構成素に変化させることが、システムの作動である。環境は、このようにシステムの作動に組み込まれている。それが浸透である。浸透が入力とみなされないのは、システムの作動を決定するものではないからである。浸透によってシステムと環境のあいだにありうるのは、決定性のない影響関係だけである。浸透によってシステムと環境の双方に生じる変化は、「撹乱」と呼ばれる。作動するシステムは、撹乱を通じて変化し、差異化していく。ただし撹乱がどのように起こるかは、外部の何かではなく、作動の中でシステム自身が決定している。影響に決定性はなく、システムは自律的である。変化・差異化はあくまでもシステム自身の作動から生じる。我々はここにも、中動相を見ることができる。オートポイエーシス・システムは作動しながら変化し、この変化はおのずからの変化なのである。

 

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