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2015年1月 8日 (木)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(19)

第八章 拘束からの生成─いかにして「作者」になるのか─

1.制作の自由と制約

少なくとも近代において、作者は「自由な主体」であることが求められてきたように思われる。とりわけロマン主義的な芸術観からすれば、主観的なものの自由な表現に芸術の意義が見出されることから、作者は何ものにも拘束されずに「自由に」「己の欲するままに」制作を行うべきだとされる。

ところで。作品の作り手である作者は、たとえ主観的なものから出発してとしても、最終的には客観的事物を生じさせなければならない。したがって制作は、つくり手の意識の外で、意識を超えた材料と関わる過程を含む。絵画制作における絵具も画布も、音楽における楽器音や声も、文学における言葉も、そのような材料である。材料には、それぞれ固有の性質があり、つくり手はそれが許す範囲内でしか作品を作れない。つくり手は材料を、完全には支配できない。材料が意識を超えており、制作に材料が必要である以上、制作は材料から何かしらの制約を受けることになる。その意味で、制作は自由ではない。作品の制作には何かしらの不自由がつきまとう。

材料に由来する制約が制作にとってマイナスと見えるのは、作品の制作を、頭を働かせること(構想)と手を動かすこと(機械的実現)の二段階に分けて考えるからである。まずは自由な構想であり、その実現が物理的条件に妨げられるという図式だ。構想と実現が別個の過程であれば、制作の自由は意識のレベルにこそ完全な形であり、材料に由来する制約や不自由は構想を現実化する物理的手段の不備ということになる。しかし、つくり手が意識と身体の単なる足し算ではなく、制作が構想と実現の二段構えでないとしたら、制作の自由は、意識のレベルにおいてではなく、つくる行為全体の中で考えられなければならないだろう。行為における自由は、無制限な自由ではなく、常に何らかの制約を前提とする自由である。無制限な完全な自由がまずあって、それが制約によって切り縮められていくのではない。行為する主体は、与えられた環境の中で、自然的・文化的な条件の下、何事かを意図して実現する。それが行為の自由である。行為の自由は、常に何らかの前提、予めの制約との関係で発現する。とすれば自由と制約は、単純に相反するものではなく、むしろ絡み合っているのではないか。

作者が制作の主体である以上、作品をつくることには自由がなければならない。ただしそれは無制限の自由ではない。材料はつくり手の自由を制限する。しかしつくり手は材料から作ることの可能性を得る。つくり手は材料からの促し、触発によって、作品をつくる。作家たちがしばしば語っているように、つくり手は、材料に繰り返し触れ、それに馴染むことによって材料の魅力や可能性を発見する。その材料でできること、やってみたいことが、徐々に見えてくる。新たな「意図」、あらたな「構想」が生じる。つくり手にとって制作の可能性が広がる。これはつくり手の自由の拡大である。つくり手は材料と関わることを通じて、材料との関係において、自由な制作主体になる。自らの自由を獲得する。

この自由は、つくり手が変わらぬまま、外からの制約を取り除くことでもたらされるものではない。つくり手自身の変化によって、自由が生まれるのだ。つくり手は、与えられた条件の下、具体的なつくる行為の中で変化する。そのことによってはじめて、ある自由が手に入り、自由につくることができ、つくり手は自由な制作主体でありうるだろう。

 

2.かたちから実現する自由

稲垣良典はハビトゥス論をふまえ、「自由を、人間の形成から現実に自由が実現されていく道にそって考察」している。そこで稲垣は習慣(ハビトゥス)を「獲得・形成された能力」と理解する。一般に習慣は自由との関係で言えば、人間を枠にはめて拘束するもの、自由と対立するものと考えられがちだ。それを「獲得・形成された能力」とすることは、通常の語法から外れている。しかし例えば人が「慣れ」によって何事かを「意のままに」なしうることを思えば、習慣は何事かを現実になしうる能力と捉えることができる。自由と対立せず、むしろ自由を実現するものと考えられる。「慣れ」はまた、ひとが自分自身に働きかけ、さまざまの可能性を統合・組織化し、自分を環境に「合う」よう「調整」することから生じる。すなわち習慣という能力は、環境に応じた能動的な自己形成によって獲得される。稲垣によれば、この形成された能力が「行為の主体」である。

この習慣(ハビトゥス)という観点から考察される「行為の主体」は、自由の実現に向けて自らをかたちづくり変化していく主体である。主体は、環境に応じた自己調整によって、かたちづくられていく。人間は安定した行為の型をかたちづくる。それが能力としての習慣、ハビトゥスであろう。環境という制約との関係で、行為のかたちが定まってくる。環境が変化すれば行為のかたちも変化していく。可塑的な人間が特定の環境(=制約)に応じて自己を限定し特定のかたちになる。我々は、習慣(ハビトゥス)を、そのような自己限定によって生じる行為のかたちと理解することができるように思われる。ここで言うかたちは、目に見える形や輪郭のことではなく、より高次の、関係や調整の原理だろう。それによってはじめて何事かをなしうる自由が実現するのであれば、自由は制約に呼応するかたちという限定から生じるということができるかもしれない。

かたちと自由の関わりについてこのように考えていくとき、身体運動学が興味深い知見を与えてくれる。長崎浩によれば、人間の動作は、歩く、座る、食べる、つかむ、というような基本的動作であっても、学習して身につける能力、すなわち技能である。ひとは成長とともに歩くことを学び、いったん歩けるようになると、後はいちいちどうするか意識せずとも歩くことができる。そして歩く環境や速度が変わっても、歩行の運動パターンは変わらない。技能の達成には、動作のかたちの定型化、パターン化が見て取れる。長崎によれば、このパターン化が、意識の負担を軽減し、動作の正確さと恒常性を保障する。我々はここに、何事かをなしうる能力としての身体技法、動作のかたちとしての技能という位相を見ることができる。動作の定型化という「形の形成」は身体部分の運動の協調と言う事ができる。身体は数多くの関節や筋肉からなり、この各々にはどのように動きうるかという運動の自由度がある。その結果、身体全体を見れば運動の自由度は膨大なものであり、その自由度のいちいちを、中枢が個別に制御するのでは不可能だと考えられる。身体の各部分は独立に動くのではなく、異なる部位の運動が特定の仕方で組み合わさり協調して動くのである。この場合の協調とは、各部位が他の部位と一定の関係をもって動くことであり、自由度の削減を意味する。協調があれば、運動の制御は少ない自由度の特定で済む。各部位の運動は、協調によって、一定のかたちをもつ動作へと様々に構築され、そのことからひとは運動を制御して何事かをなしうるようになる。意味ある行為が成されるのである。

現実に何かをなしうる能力は、環境からの制約に応じた自己限定により形成される─我々は、ハビトゥス論にも、身体運動学の動作論にも、自由を実現するかたちという位相を見ることができる。行為における自由は、制限のない全き自由としてあらかじめ与えられているのではなく、環境とのあいだにかたちが形成されることによって、一歩一歩、具体的に実現していく。

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